西郊民俗談話会 

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連載 「環境民俗学ノート」 11  2022年3月号
長沢 利明
多摩川のアユ漁
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(1) 多摩川とアユ

多摩川のアユといえば、知らぬ者はいないほど有名なもので、かつての多摩川ではたくさんのアユが採れた(写真34)。
一口にアユといっても、その食味は水系ごとにかなり異なるといい、静岡県の狩野川、京都府の和知川、高知県の四万十川、大分県の三隈川などで採れるアユは特に絶品とされ、きわめて高く評価されてきたのだが、もちろん武蔵の多摩川産のアユもそれらに負けてはいなかった。だからこそ江戸時代前期には「御菜鮎上納御用」と称して、将軍家にもそれが献上されていた。1722年(享保7年)にはアユの上納が廃され、「上ケ鮎(あげあゆ)御用」という制度ができ、おもに支流域の浅川・秋川沿いの村々が御用アユ漁を請け負い、幕府から代金を受け取るようになった。八王子市日吉町の日吉八王子神社の境内には、当時の御用アユを供養した「あゆ塚」が1957年に祀られているが(写真35)、当地の浅川で漁獲されたアユは享保の御用アユ制度の制定以来、体長4寸以上のものを計1525尾、江戸城へ毎年届けねばならぬという決まりになっていた[長沢,2021:pp.29-30+]。

写真34 多摩川の天然アユ(東京都狛江市)


写真35 日吉八王子神社のあゆ塚(東京都八王子市)
 なぜ多摩川産のアユがすぐれていたかといえば、その生息環境がアユにとって非常に良好なものだったというほかはない。そこに棲むアユは冬場は餌の豊富な東京湾で充分に育ち、初夏になって遡上する多摩川は水量豊かな大河川で、豊かな川苔(水垢)が生育していた。川苔とは要するに植物プランクトンで、川底の石の表面に付着する珪藻・藍藻類のことだ。海にいる時のアユは雑食性で、小魚や動物性プランクトンを食べているのだが、初夏に川を遡り出すと水生昆虫などをまだ食べているものの、そのうちにがらりと食性を変え、川苔以外を食べなくなる。川苔の生育しだいで、アユの味はおおいに変わるのだった。
しかしながら、1960〜1970年代の高度経済成長時代には工場廃水や生活排水が大量に多摩川に流れ込んで、河川環境が壊滅的に悪化してしまったのは、まさに悪夢というほかはない。ある漁師が筆者に語ったところでは当時、家々の洗濯機から排出された合成洗剤をたっぷり含む川水が堰の下で異常に泡だって、もくもくと雲のようになっていたといい、「まるで孫悟空の乗っているきんと雲そのものだった」という。河川水の悪臭は川から1q離れた住宅地にまで漂い、小学生は鼻をつまんで登校していたというから、尋常ではない。こうして多摩川は「死んだ川」となり、アユも死滅していったのだ。
アユはほぼ日本固有の川魚なのだが、正確にいえば日本列島には2亜種のアユがおり、本土産のアユPlecoglossus altivelis altivelis (Temminck et Schlegel) と沖縄地方産のリュウキュウアユP. a. ryukyuensis Nishidaとに区分される。リュウキュウアユは沖縄本島と奄美大島に棲息し、本土のアユよりも小型で身が太く、鱗が大きいので体表がざらりとした印象がある(写真36)。


写真36 リュウキュウアユ(沖縄県美ら海水族館)
  本土アユよりも繁殖期が遅くて11月末から3月にかけて産卵し、稚魚の遡上期も1〜5月となる。近年、本土アユの産卵期が遅くなってきており、いわば「リュウキュウアユ化」現象が起きているが、地球温暖化の結果ではないかともいわれている。つまり、産卵初期に川で産まれた稚魚が海へ下っても、高い海水温のせいでその多くが死滅してしまい、産卵後期のもののみが生き残るため、それらがさらに後期に産卵するようになっていったと推測されている[松沢,2011:p.128]。
 アユは日本中の川をさかのぼっていたので、それを捕らえるための漁法が各地でいろいろに発達していくこととなった。もっとも「原始的」といえそうな漁法は、愛知県新城市出沢を流れる豊川の鮎滝で見られた「笠網漁」かも知れない。滝を登ろうとして跳びはねるアユを、4mもの長い竹竿の先に付けた笠状の網ですくい取るというもので、400年の歴史があるといい、出沢地区の住民だけに許された伝統の漁法だ。今でも地区の36戸の家々が4戸ずつ「滝番」をつとめ、交替で漁をおこなっており、6月から9月末まで続けられる。多い時には1日に2000尾も採れるが、駄目な日はゼロだといい、いかにも素朴な漁法といえる[読売新聞社(編),2021]。福井県武雄市の日野川でおこなわれていた「ナデ(撫で)」と呼ばれる手づかみ漁も、かなり原始的なアユの漁法で、漁師が川岸の崖を手で撫でながら、そこに潜んでいるアユを見つけ、手づかみで捕らえるというもので、非常に素朴なアユ漁のやり方だった[最上,1969:p.5]。三重県の伊勢神宮では、1871年(明治4年)まで「豊受大神宮御川の神事」という古式漁法の儀式がなされており、神前にささげる御料のアユを神官が宮川で捕らえていた。旧暦5月3日、外宮の神官数十名が狩衣に身をかため、青竹を持って宮川の祭場へおもむく。川守網役人がそこに控えており、神事の後、神官らは白単衣姿で川中に網を投じ、青竹で水面を叩いてアユを追い込む。採れたアユは、もちろん外宮の神前へ奉納された[東陽堂(編),1909:pp.5-6]。
各地のアユ漁に関してもうひとつ指摘されることをあげておくなら、それが観光・遊覧と強く結びつけられてきたということだろう。全国各地のアユ漁のさかんな土地には観光客もよくおとずれ、遊客の目の前で漁師がアユを捕らえるところを見せたり、採れたてのアユをその場で調理して食べさせたりして、一夏だけの観光地があちこちに出現していた。屋形船の上に芸者衆とともに乗り込んだ酔客らが、おおいに船上宴を楽しんだりしたもので、長良川の鵜飼い漁を見てみればよい。東都の多摩川沿いにもそのような場所が方々にあり、都心部からやってくる多くの誘客をそこに呼び込んでいたのだが、国立市内の青柳渡し場、川崎市内登戸の多摩川原などがそうで、鵜飼い漁を誘客らに実演して見せることもあった。狛江市内でいえば和泉の玉翠園、小田急線鉄橋下のボート場、宿河原の川魚料理屋「川仙」の周辺などもそうした観光スポットとなっていた(写真37)。中でも最大の繁華の地は、世田谷区内の二子・兵庫島・下野毛の周辺で、1907年(明治40年)に玉川鉄道が開通すると一大行楽地となり、東京市民がどっと押し寄せてくるようになった。都心部からの交通の便にすぐれ、多摩川べりの風景にもすぐれていたので、周辺には旅館や料亭が立ち並び、川面には屋形船も浮んで、名物のアユ料理を楽しむことができた(写真38〜40)。
 
写真37 屋形船の遊覧(東京都狛江市・矢田部靖彦氏提供)
 

写真38 漁獲されたアユ(同)

 
写真39 アユの下処理(同)
 
写真40 アユ塩焼き(東京都国立市)
 
 地元漁師らは誘客らに供されるアユをせっせと採り、時には客を川舟に乗せるようにもなった。そのようにして稼ぎの場を得ていた半農半漁の漁師らが、下野毛のあたりにはたくさんいたのだ。初夏にアユが解禁になると、漁師らは野毛のあたりから川舟に乗って上流へとさかのぼりながら投網を打ち、捕れたアユは舟の中の生簀で生かしておいて、そのまま兵庫島の料亭にそれを卸して帰ってくるという操業を、毎日続けていたという。


(2) 多摩川におけるアユの伝統漁法
 多摩川においても、実にさまざまなアユ漁のやり方があったのだが、もっともさかんにおこなわれていたのはもちろん投網漁だ。川舟に2人の漁師が乗り込み、1人が舟の後方で竿を操り、舳先に立つもう1人が網を打ってアユを捕らえる。2人の漁師の呼吸がぴたりと合わなければできない漁法だった。現在では川舟が姿を消してしまったため、漁師はもっぱら川中を歩きながら投網を打っているが(写真41)、それをカチウチ(徒打ち)・カチアミ(徒網)などという。

写真41 アユの投網漁(東京都狛江市)
 アユ漁の解禁日はもちろん6月1日でその日から漁が始まり、東京湾から遡上してくるアユを漁師らは投網で捕らえる。漁期は秋の10月15日まで続き、その後は産卵シーズンに入るので11月30日まで禁漁期となる。しかし、産卵が終れば再び漁は解禁され、いわゆる落ちアユ漁が始まり、12月1日からは捕ってもよいのだ。秋の落ちアユ漁でたくさんのアユを捕え、干して干物にし、正月の雑煮の出汁にすると、大変おいしかった。その時期になるとアユの体色は黒っぽくなり、これを「錆鮎」とも称した。大正時代の記録に「六月の解禁に鮎の名産を膳に上せ、都人士に舌づつみを打た三伏の候、寸は漸次(しだい)に錆鮎となり、木々の梢に紅葉する頃が事実打止めにして」とある[鶏成,1914:p.34]。世田谷区野毛在住のベテラン川漁師、原祐介氏もアユの投網漁の第一人者なのだったが、落ちアユもよく捕ったという。秋10月上旬の台風の過ぎた後、川の水がきれいになりかけた頃に投網を打つと、1回で10匹ぐらいが網に入った。2〜3時間で500匹捕ったこともあり、重くて家まで運べないので、2回にわけて運んだという。100匹を「一束」という数え方をした。夜間にカーバイドを燃やして灯りをつけて捕っても、よく捕れたという。
 専業的な漁師は、もっぱら投網漁によってアユを採っていたが、戦前は投網漁以外にもいろいろな漁法があり、アユの習性をたくみに利用したユニークなやり方がさまざまに見られた。まずあげられるのは鵜飼い漁だ。鵜飼いといえば愛知県長良川のものが有名だが、かつては日本中で見られたのであって、多摩川でも昭和時代戦前期までそれがなされていた。それは長良川のような船鵜飼いではなく、漁師自らが川中に立って鵜をあやつる「徒(かち)鵜飼い」方式の鵜飼いだった。世田谷区内では二子橋の上〜下流で鵜飼いがおこなわれていたし、喜多見には3〜4羽の鵜を飼って半農半漁の暮らしをいとなむ漁師もいた。江戸時代には上流域の新井村より福生村・羽村までの間の村々、さらには秋川流域の川筋などでさかんにそれがおこなわれており、御用鮎漁としてそれが許され、漁を補助するための人足を差し出すのは世田谷領内の村々が指定されていた[宮田,1989:p.10]。
 鵜の羽を用い、川中のアユをおどして追い込み、すくい網にで捕らえる漁法もあり、鵜縄漁と呼ばれるが、俗にウナアミ(鵜縄網)・オッカケアミ(追い掛け網)とも称した。長い麻縄に鵜などの鳥の羽と錘とを20p間隔で取り付け、2人の勢子役が川中にその縄を張ってアユを追い込んでいく。反対側から大きなすくい網でそれを捕らえるのだが、すくい網とは長さ2〜3間ほどの2本の竹を交差させ、先端部に幅4〜6尺の網を張ったものだった[恵津森,1983:pp.46-47]。 アユの筌漁というものもあり、割竹を円錐型に束ねて藤蔓でからませたモジと呼ばれるドウ(?)のようなものを川中に仕掛けた。主として秋の落ちアユを捕らえるための漁法で、遠浅で川底が平らな場所を選び、石を積んだり笹竹を川中に立てて流れを両岸からせきとめ、真ん中の一ヶ所をあけて水を流し、そこにモジをいくつか並べて仕掛ける。4〜5人がかりで2〜3日をかけてこの採魚施設を設けたが、それを作ることを「シラを切る」といった。採れたアユは、作業にあたった人々で均等に分配したという。
その応用例といえるものが、世田谷区内でおこなわれていた「瀬張網」漁だ。川の流れに沿って川中に縦方向に網を張って壁を作り、その網の中の所々にアユの通路を設けてモジを何ヶ所も仕掛ける。網の壁から片側の川岸へ一本の縄を張りわたし、そこにたくさんの稲藁を並べて垂らしておく。藁は水中でゆらゆらと動き、アユを脅す役割を果たす。アユは川を昇る時は川底を通るので、藁には気づかないが、下る時は水面近くを泳ぐので藁に驚き、進路を変えて横に逃げる。逃げたアユは網の壁に沿って川を下り、水流の真ん中に戻ろうとして、モジの仕掛けられた通路に突っ込んでいき、つかまる[世田谷区(編),1977:pp.6-7]。このモジというものは大変よく出来た漁具で、通常の筌の開口部に木の仕切り具をはめ込み、8の字状にして口径をせばめつつ、筒状部には藤蔓をらせん状に巻いて全体を締め付けている。カエシなどはないが、ここに頭から突っ込んだアユは全身を締め付けられて身動きができないようになり、胸鰭や腹鰭が藤蔓に引っ掛かって、がんじがらめにされてしまう[多摩川誌編集委員会(編),1986:p.81]。ひとつのモジで最大2尾しか採れないものの、そこに引っ掛かったアユをどんどん取りはずしていけば、すぐに次が引っ掛かる。きわめて省力的で能率的な漁法であったといえる。 珍しい漁法としては毒流し漁というものがあり、世田谷区の喜多見などでおこなわれていた。投網の打てない堤防沿いの淵などに、エゴノキ・ゴシなどの木の実をつぶした汁を流すと、アユが麻痺して水面に浮かび上がってくるので、それを捕らえる。毒とはいっても、一時的に魚をしびれさせるだけで、殺すわけではない。捕らえた魚を人が食べても、害はなかった。エゴノキやゴシは木の実をつぶして、その汁を流したが、河原によく生えているクコの木の枝にも毒性があり、枝を折ってきて棒で叩きつぶし、その汁を川に流したという[恵津森,1983:pp.67-70]。毒流し漁はおもに支流筋の小河川でなされるもので、多摩川本流でアユの捕獲目的でおこなわれた例は珍しい。
一方、網漁ではなく釣り漁でアユを捕らえることも、多摩川ではさかんになされていた。とはいえ、釣り漁はおもに都会からやってくる遊漁客が趣味でおこなうもので、基本的にはプロの漁師のやることではない。しかし、多摩川の川魚漁師たちは、それら遊漁客の世話をしながら重要な収益を得てきたのでもあって、多摩川という川が大都会の近郊を流れていたからこそ、都会の遊漁客の誘致という側面に、収益機会を見いだしてもいた。たとえば、遊漁客がアユの友釣りをしようとするならば、囮のアユが必要となるし、それを調達するために地元漁師の存在が不可欠となる。漁師は投網で捕らえたアユを生簀の中で生かしておき、元気なままの状態で釣り客に売る。遊漁料収入ともあわせ、それは地元漁師の重要な稼ぎ口にもなっていたのだ。
遊漁客のアユ釣りの中心は、もちろん友釣りだった。アユという魚は先述したように、海から遡上してきた後、多摩川中流域で食性をがらりと変え、川苔ばかりを食べるようになる。川中の石の表面に付着した川苔を、1尾のアユが独占しようとし、そこに縄張りを作るが、そこに他のアユが侵入してくると、激しく体当たりをして撃退しようとする。こうしたアユの習性をたくみに利用したのが、友釣りというものだ。釣り人は囮のアユをテグスに固定し、それを川中に放って釣り竿でコントロールする。すると、川中に縄張りを作っているアユが、ライバルを追い出そうとしてぶつかってくるので、それを釣り針で引っかけるのだ。しかしながら、友釣りは多摩川流域のどこでもできるというものではない。海から遡上してきたアユがそこに定着し、縄張りを作るのは、中流域の中でもやや上流側に位置する地域で、水深が浅くて瀬の多い川筋でなければならなかった。それは今の調布市・府中市よりも上流側に限られ、下流側の世田谷区内では、アユがまだ縄張りを作らない。ゆえに、世田谷区内では友釣りが不可能なのであって、それをこころみる釣り人は、実際いない。友釣りとは上〜中流域でのみ可能な釣りのやり方なのだから、囮アユを釣り人に売る漁師も、世田谷区内にはいなかった。下流側では水深も深く、水量も多過ぎて友釣りには向いていない。狛江市内などでも、友釣りはあまりさかんにおこなわれていなかったが、時にはこころみる釣り人もいて、地元漁師は囮アユを売っていた。
では、世田谷あたりでアユ釣りをこころみる釣り人は、どのような釣り方をしたのだろう。それこそがコロガシ釣りというもので、俗にアユコロガシ・アユカケ・ヒッカケ釣りなどとも呼ばれ、他地方でいうところの「アユ掛け釣り」がこれにあたる[東陽堂(編),1892:pp.14-15]。魚を傷つけるということで、今では禁止されているが、要するに鋭い釣り針でアユを引っ掛けて釣り上げる釣り方だ。世田谷区・狛江市内では、かなりさかんにそれがおこなわれ、友釣りよりも一般的な釣り方なのだった。釣り竿の仕掛けは実に単純なもので、釣り糸の先端に鉛の錘を1個つけ、その上の方に7〜8個の釣り針をつける。釣り針はコロガシ釣り専用のもので、カエシがなく、餌もつけない(写真42)。
 
写真42 コロガシ釣り用の釣り針(同)
  流れが速くて川苔の多い、いかにもアユが群れていそうな所に釣り糸を垂らし、水流にさからわずに上流側から下流側へと仕掛けを流していき、糸の先の錘を水中でころがしていく。アユがそれに触れた時、よいタイミングでアタリを合わせると、釣り針の一つにアユのエラなどが引っ掛かって、捕らえることができる。川底で錘を転がすように動かすので、これをコロガシ釣りと呼ぶのだ。主として夏の登りアユをターゲットとした釣り方だった。
かつて多摩川でおこなわれていた「蚊針釣り(かばりつり)」というものも、とても珍しい釣魚法で、鳥の羽根を用いた擬餌針を用いて昇りアユを釣るやり方だったが、明治時代の記録に次のように述べられている。
真実の餌を用ゐず餌に似たるものを作り以て魚を欺むき釣り捕る事、就中鮎の蚊鉤釣は遠き昔しより諸国に行なはれしものと見ゆ。古き句に「蛍火に飛びつく魚や水の音」など云へるあり、彼れ常に羽虫を好み水上に躍りて喰ふ。之れに乗し各種の鳥の羽毛を以て虫に擬したる鉤を作り欺きて釣り捕るなり。之れを蚊鉤釣と称す。蚊鉤釣の竿は長サ二間半許なる二年竹を用ゐ、綸(いと)は渋引のスガ糸にして竿一杯の長サに付け其末に長九寸許の麻糸を引通したる桐の尖りたる浮子を付け、右の麻糸に黄色の毛もて作りたる蚊鉤十二本を継ぎ付くるなり。(中略)右手に件の竿を持ちて川の瀬に立ち、蚊針を下流に投じ手加減して上流へと引き上ずべし。鮎かかれば静かに揚げ(中略)決して釣り落すことなし。此釣は曇天又は川靄(もや)立ち籠め小虫の水面に流るる時を以て最良とす。又鮎の水底を遊泳する時は渋糸の末に筍形の鉛錘を付け、蚊鉤三本を継ぎて用ゆべし。又三尺許の竹竿に蚊鉤七八本を継ぎ、竿を逆手に持ち其先きを水中に入れ少しく手先を揺(うご)かし釣ることあり、名けてアンマ釣(又メクラ釣)と云ふ。釣期は二月中旬に始まり六月末に終る。是亦若鮎の季節なり[渡辺,1903:p.21]。
今日のフライ・フィッシングに通じるような、疑似餌釣りのやり方が、昔からあったことは大変興味深い。

(3)アユの保護のために
河川の水質環境が飛躍的に改善された今日、多摩川にもようやくアユが戻ってくるようになった。東京都水産試験場の調査によれば、1993年まで日野用水堰付近までしか遡上が確認されていなかった天然アユが、翌1994年には青梅市駒木町や支流の秋川でも初めて採集され、河口から約60q上流にまでアユが昇っていることがわかった[読売新聞社(編),1994]。多摩川のアユの遡上数はその後も年々増え、2013年には調布取水堰での調査結果で過去最高の389万尾の遡上が確認されていて、多摩川全体ではすでに1000万尾を超えるアユが川をさかのぼっていると推定されるまでになったのは、画期的なことだろう。それとともに、漁師らによるアユ漁も各地で復活するようになったのも、まことに素晴らしい。しかし、多摩川に今いるアユは本当に汚染前の時代の生き残りなのだろうか。漁師たちにそれをたずねてみると、多くの人々は「正真正銘の多摩川産のアユだ。放流魚の子孫ではない」と答える。しかし、どうやってそれを見分けて証明するのか、在来魚と移入魚のどこが形態的に異なるのか、と問われれば答に窮するのではないだろうか。
多摩川漁協では年々、琵琶湖産の稚アユを多摩川に放流してきたわけで、一時は岐阜県産の稚魚が導入されていたこともある。スイアゲ(吸い上げ)といって大型吸入機を用い、中〜下流域のアユを川水ごと吸い上げて捕らえ、上流域の秋川などに放流していた時代もあった。アユ漁の解禁前の5月頃、漁協が特別に小型定置網を仕掛けて若アユを捕らえ、トラックで上流域まで運んで放流したことさえあった。ダムによってアユの遡上がさまたげられている流域では、そうした方法を取らなければ、アユを遡上させることができない。近年の遡上数の増加は、環境条件の改善のみならず、長年のそうした努力の結果といえるだろう。また、これもよく漁師らから聞かれることなのだが、「アユには母川回帰本能があまりない」ともいわれている。サケのように水の匂いを嗅ぎ分けて、産まれた川にきちんと戻ってくるということがなく、アユは棲みやすい川を自ら選んで海から昇ってくるといい、多摩川で生まれたからといって多摩川に戻ってくるとは限らないし、ほかの川へ行ってしまうこともあるらしい。もしそれが真実だとすれば、多摩川のアユたちは高度経済成長時代に死の川と化した多摩川を避けて、ほかの東京湾岸の川へと移住し、各地にその遺伝子を残してきたのかも知れない。けれども、東京湾に注ぐ河川はその時代、いずこも似たような状態だったのではなかろうか。いずれにせよ、これからの多摩川の環境対策は、今以上に高度に推進していかなければならないし、アユの乱獲防止と資源保護、魚道の整備などを積極的に進めていく必要があるだろう。
ここで注目されるのは、戦前に狛江市内などでなされていた、アユのツキッパ作りの習俗とその技術だ。ツキッパ(付き場)とは産卵場という意味で世田谷区内でなされていたマルタの瀬付き漁でいうところの、瀬付き場と同じことだ[長沢,2022]。世田谷区内では、アユの瀬付き漁も一部でなされており、マルタと同じように川中にきれいな玉石を敷きつめて人工的に産卵床を作り、そこにアユを集めて投網で捕らえていた[世田谷区(編),1977:pp.2-3]。しかし、それらのマルタやアユの瀬付き漁が、魚の大量捕獲を目的としていたのに対し、狛江市内のアユのツキッパ作りは基本的に、アユの資源保護のためになされていたのであって、注目すべき技術といえる。これについて少々、紹介してみよう。
まず、アユの産卵床としてのツキッパを川中に作るのは産卵期の11月中で、水流が弱く川底が細かな砂利で覆われた、砂の多い清潔な浅瀬を選ぶ。水深は人の膝くらいの所がよく、清冽な伏流水が湧き出ているような、水温の一定した場所が望ましい。良い条件の場所が見つかったならば、ジョレンでよく川底の砂利をならして平らに、そして柔らかくしてやる。とはいえ、あまりに人工的に作り過ぎると、アユがそれを見抜いて寄りつかないともいい、なかなかむずかしい。「アユは頭のよい魚だ。人間がこざかしいことをやっても、すぐにばれてしまう」と漁師らはよく語る。ツキッパの面積は5×5mほどで、そこでアユに産卵をさせるのだが、上手にできたツキッパには多くのアユが集まるので、それを狙って採りにくる素人もおり、漁師たちは川辺に監視小屋を設けて交替で詰め、見張った。そこに投網を打ったり釣り糸を垂れたりすれば、もちろん多くのアユを捕らえることができるが、これはアユの繁殖を助けるためにやっていることで、マルタの瀬付き漁と一緒にしてはならない。ツキッパ作りがうまくいけば、アユはさかんにそこに瀬付いて産卵をする。川底の石の表面をよく見ると、ほとんど透明でやや白っぽいアユの卵がたくさん付着している。卵はサケのイクラの4分の1ぐらいの大きさで、真ん中に核のような黒い点があり、それが稚魚の眼になるのだ。
多摩川が1960年代に絶望的に汚染される以前の昔に、漁師たちがただアユを採るだけでなく、その資源保護ということを真剣に考えていて、自らその対策を実践していたという事実は、賞賛されるべきことだろう。狛江市内では近年、一部の漁協組合員たちがこのツキッパ作りを復活させるこころみを始めており、私たちもまたそれを見守っていきたいと考えている。

[付記]
本稿は世田谷区砧総合支所地域振興課の主催によって開催された、令和3年度砧区民講座における筆者の講演内容を筆記したものである。講演は「多摩川の漁業―大人から子どもへと伝えていきたい身近な地域のおはなし―」と題し、2021年9月30日(木)に東京都世田谷砧8-2-21の砧地区会館第一会議室においておこなわれた。講演にあたっては、砧総合支所地域振興課の渡辺淳子氏より多大なご協力をいただいた。また、多摩川流域の漁業経験者として、狛江市の故谷田部靖彦氏・故松坂仙蔵氏、世田谷区の原裕介氏らから、貴重な経験談をお聞かせいただいたので、ここに記して感謝申し上げる次第である。
 
文 献
恵津森智行,1983「漁撈―多摩川を中心として―」『喜多見―世田谷区民俗調査第3次報告―』,世田谷区教育委員会.
鶏成,1914「春の多摩河」『風俗画報』456,春陽堂.
松沢陽士,2011『ポケット図鑑・日本の淡水魚258』,文一総合出版.
宮田 満,1989「近世玉川の漁業生産に伴う役負担と漁場利用関係」『関東近世史研究』26,関東近世史研究会.
最上孝敬,1969『原始漁法の民俗』,岩崎美術社.
長沢利明,2021『江戸東京ご利益事典』,笠間書院.
長沢利明,2022「環境民俗学ノート(10)―多摩川中流域の漁業―」『西郊民俗談話会ホームページ』2022年2月号,西郊民俗談話会.
世田谷区(編),1977『世田谷のおはなし』Vol.12,世田谷区.
世田谷区民俗調査団(編),1983『喜多見―世田谷区民俗調査第3次報告―』,世田谷区教育委員会.
多摩川誌編集委員会(編),1986『多摩川誌別巻(写真図集)』,財団法人河川環境管理財団.
東陽堂(編),1892「鮎かけの事」『風俗画報』45,東陽堂.
東陽堂(編),1909「五十鈴川鮎漁と宮川鮎取の神事」『風俗画報』399,東陽堂.
渡辺義方,1903「釣史一班(第十三)」『風俗画報』268,東陽堂.
読売新聞社(編),1994「多摩川、天然アユの遡上確認」『読売新聞』8月2日号朝刊多摩版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2021「跳んで網に入る夏の鮎」『読売新聞』6月11日号夕刊全国版,読売新聞社.

 
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