西郊民俗談話会 

本文へジャンプ



連載 江戸東京歳時記をたずねて  12
   2022年3月号
長沢 利明
品川の千躰荒神祭
 web上で表現できない文字は?となっております
(1)品川海雲寺と千躰荒神

荒神といえば、家々の台所の火の安全を守ってくれるありがたい神のことだが、その荒神の総元締めとされる「千躰三宝荒神大王」を祀る寺として有名なのが、品川宿の龍吟山海雲寺(品川区2-4-1)だ。同寺の荒神堂(荒神殿)に安置されている荒神王の本尊像は、1637年(寛永14年)に勃発した島原の乱の折、出陣を命じられた佐賀藩主鍋島甲斐守直澄が戦勝祈願をした尊像で、もともとは天草荒神ヶ原の小祠に祀られていたという。乱の平定後、直澄はこの荒神像を戦場から持ち帰り、江戸に移したと伝えられていて、海雲寺の『品川千躰荒神王海雲寺略縁起』には次のように語られている。

当寺安置の荒神王は江戸時代から多くの人々から信仰されて来たが、寛永十四年島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八才で出陣なされたが肥後天草の荒神の原にあった荒神王の祠に必勝祈願のお参詣をして出発した所、甲斐守の先頭に必ず千余の神兵が現れ、その行動は荒神王の荒れさせ給うもかくやと思われるすさまじさで流石の暴徒も敵し得ず鎮定した。以後鍋島甲斐守はこのご尊像を千躰三宝大荒神王とあがめ奉り、篤い信心のもと御守護しお祀りしてあったものを、因縁あって明和七年三月に当寺に勧請し奉ったものである。 島原での合戦の時、荒神の神兵千人余が現れて直澄に加勢をしたというのだが、直澄の乳母の生霊も馬前に現れて、敵の矢から直澄を守ったなどという話もまた伝えられている[品川区教育委員会(編),1993:p.35]。

いずれにせよ鍋島直澄は、荒神王の加護によってキリシタンの鎮圧に成功して戦功を立てたので、それ以来、荒神王像は江戸芝二本榎の佐賀藩鍋島家下屋敷内に手厚く祀られることとなった。その後の1770年(明和7年)、その尊像が品川の海雲寺へ移されたのだが、それについては海雲寺から公儀へ提出された以下の文書が残されているので、確かなことといえる。
 書付を以申上候
一、拙寺大門之儀、古来者弐間半ニ有之候処、明和七寅年中竜土鍋島甲斐守様弐本榎御下屋敷ニ御勧請被遊候処之荒神王、思召被為在候而、拙寺江御奉納有之、右ニ付明和八年卯年四月中、寺社御奉行土岐美濃守様御月番江願出候処、同年六月中、大田備中守様於御役宅、願之通横幅五間ニ被仰付候、此段為御知申上候、以上。
天保十四卯年九月十六日     海雲寺(印)
和田保之助殿
[品川区教育委員会(編),1973:p.28]

この荒神王像は像高9寸余の木像秘仏なのだが、私たちが現在、荒神堂内でガラス越しに拝観している像高1mほどの像は、実はその御前立像なのだということになる(写真1)。 その後、海雲寺では盛大な荒神大祭が毎年おこなわれるようになり、千躰荒神への火伏せ祈願の信仰が爆発的に発展していくことになった。鍋島藩と海雲寺とのつながりにはもちろん深いものがあったので、千躰荒神の大祭日には藩からの援助が寄せられ、「此日は鍋島甲斐守家来司役として警固し、又境内には鍋島家の台提灯をところどころに出し置り、土手の鍋島といふは是也」と『十方庵遊歴雑記』にも記されている。 千躰荒神信仰の発展とともに、海雲寺からは千躰三宝荒神大王の分身である荒神の小像が信徒の家々に分与され、家々ではそれを台所のカマドの上などに安置して火災安全の守りとする習俗が、やがて生み出されていく(写真2)。

 
写真1 本尊の千躰三宝荒神大王像

 
写真2 荒神の小像
 今でも東京都内の旧家の台所をのぞくと、御宮(おみや)と呼ばれる小さな厨子がよく祀られていて、中には一刀彫り風に粗く彫刻された荒神の小像が納められており、まずまちがいなくそれは海雲寺から受けてきたものだといってよい。しかし、家々に祀られるこの荒神像は、ただ祀りっぱなしにしておけばよいというものではない。いわば神像のご利益がしだいに衰えてくるのであって、時おりはそのエネルギーを補充する必要がある。海雲寺では3月27〜28日と11月27〜28日の年2回、荒神大祭が挙行されるが、少なくとも年に一度、できれば二度の祭りに出向き、ご利益パワーの「充電」をしなければ、その力を維持することができない。そこで家々では海雲寺の荒神祭の時に、台所の荒神像を御宮ごと持参して護摩火に当て、ご利益のパワーをチャージしつつ、変わらぬ火伏せの守りの恩恵にあずかろうとしたのだ。
海雲寺の千躰荒神祭の実態については、すでにくわしく述べられてきたけれども[岸本,1992;長沢,1998;2006]、今回は春秋2回の大祭のうち、春3月27〜28日の大祭の様子を紹介してみることにしよう。
祭りの両日、海雲寺には多くの信徒が家々の荒神像を持って訪れ、参道には信徒目当ての露店商がたくさん出店して、大変なにぎわいを見せる(写真3〜4)。明治時代におけるその3月の大祭の様子は、若月紫蘭の『東京年中行事』にも記されていて、「十一月と等しく(三月)二十七日より別当海雲寺にて護摩を修し、参詣人なかなかに少なくない。本尊の千体荒神と言うのは天竺の神であって、(中略)三宝を守ると言うので三宝荒神とも言い、或は眼識四方千里に及び、千手よく悪人を捕え罰するが為に千体荒神の名があるのである」と述べられている[若月,1968:pp.187-188]。
ここには、「千躰荒神」という呼び名の由来を、荒神の千の手で悪人を捕らえて罰することから来ていると説明していて、荒神王は千手観音のように千本の手を持つというのは、よくいわれてきたことだ。とはいえ、実はほかにもいろいろな説があって、先の縁起には荒神の分身が千余の神兵となって天草の乱の鎮圧に働いたと述べられていたし、海雲寺の荒神殿内には千体の荒神様がいて、千種類のご利益分野を管轄しており、あらゆる人々の願いに応えて下さるのだ、との由来もまたよく語られてきたところだ。
 写真3 祀りでにぎわう海雲寺の門前

 写真4 門前に立ち並ぶ露店
(2)荒神大祭と護摩加持
海雲寺の荒神大祭の両日には今でも、多くの信徒らが自分の家の台所に祀られた荒神像を、御宮ごと風呂敷に包んで海雲寺までやってくる。その風呂敷包みを首っ玉結びにして、背負ってくるというのがかつての運び方で、申し合わせたように皆が同じ格好をしてぞろぞろとやってくるので、この人たちは千躰荒神様にお参りに行くのだなと、誰でも一目でわかったという。現在ではリュックサックに御宮を詰め込んで、背負ってくる人が多い。
荒神堂内では、朝からぶっ通しで護摩火が焚かれており、火のかたわらに詰めている僧侶に、信徒らは荒神像を御宮ごと手渡す。僧侶はそれをひとつずつ護摩火にかざして加持祈祷をおこない、それを信徒の手に戻す(写真5〜6)。
 写真5 護摩加持@
 写真6 護摩加持A
 加持の依頼は次から次へと来るし、順番待ちの行列ができるほどなので、僧侶は手短かにどんどん済ませていかねばならない。堂内は護摩火の熱気で汗ばむほどで、煙も充満している。加持が済むと、信徒らは荒神の御宮をまた風呂敷に包んで帰っていくが、千躰荒神を信仰する大きな講中が都内にはいくつも組織されており、それら講中に所属している講員たちは講中の開設している控所で休憩を取り、接待を受けていく。海雲寺の境内には、そのための立派な控所の施設まで建てられている(写真7)。
 
 写真7 講中の控所
 おもしろいことに荒神参りにおとずれた信徒らはかつて、その帰り道に誰とも口をきいてはならず、どこにも寄り道せずに、まっすぐ帰宅しなければならないことにもなっていた。御宮を納めた風呂敷包みを地面に置いてもいけないとさえ、言われていたのだ。品川宿には遊郭もあるので、荒神詣でにかこつけて女郎屋に遊びに行こうとたくらむ亭主をいましめるため、女房たちがそうしたならわしを思いついたのだろう、などともいわれてきた。これについて、山中共古氏はかつて、次のように述べておられた。
品川海雲寺千体荒神は(中略)二十八日参詣人群集し、荒神の像の入りたる小さき宮を受け来り、年々新きものと替に参ることとす。此の宮を受けたる者は帰り道、無言にて宅に入迄は口をきかぬをよしとすとて、親族知人に逢ふも無言にて帰宅す。品川には遊女屋軒をならべ居れば、荒神帰りにかかる処へ引かからぬ為にとて、かしこき山の神の言ひ初めしことにぞあらん。御影は三面六手の三宝荒神の御影なり[山中,1985:p.220]。
これは明治時代の記録なのだが、ここにも記されているように、当時は前年に受け取った古い荒神像を寺へ納め、新しいものをまた一体受けてくるという方式が普通だったらしい。荒神像を毎年、新しいものと取り替えていたわけで、そうすることで霊力のエネルギーの更新をはかっていたのだろう。とはいえ、今見るように同じ像を永続的に祀って、大祭の時だけ寺へ持参するというやり方も、もちろん見られたことだろう。
この独特な信仰習俗は、江戸時代の農村文書などにも記録されていて、大変おもしろい。東京都下狛江市の石井家文書の中には、同市内の旧和泉村の豪農、石井権五郎の記した1836年(天保7年)1月の『萬覚帳』という史料があって、次のような記載が見られる。
 荒神様御引替定日、三月廿七日・廿八日、品川海雲寺ニて。十一月廿七日・廿八日、年弐度初穂弐百文、最(尤)荒神様取かへ候ヘハ三百文也[狛江市(編),1977:p.146]。
ここに見るように、江戸時代における海雲寺の荒神大祭は、現在と同じく3月27〜28日と11月27〜28日の年2回おこなわれていた。石井権五郎家では、毎年欠かさず海雲寺に参詣していたらしく、江戸郊外の狛江和泉村の地から、わざわざ品川宿まで出向いていたのだった。千躰荒神信仰が江戸市中のみならず、郊外農村にまで広がっていて、在地の上層農民クラスもその信仰圏に加わっていたことがよくわかる。年に2度の大祭のたびに寺へ納める加持祈祷料は200文だったとあるが、荒神像をそっくり新しいものと取り替える場合は300文だったともある。先の『十方庵遊歴雑記』を見ると、「新規に請る者は二百銅、古きを以て新らしきに替るものは百銅と定めたり」と記されており、初めて荒神像を受け取るには200文、古い像を新しい像と交換する場合は100文だったとある。同書が書かれたのは1814年(文化11年)〜1829年(文政12年)頃のことなので、その後の10〜20年間で祈祷料は2倍ほどに値上がりしていることがわかる。また同書の著者、大浄敬順のいた時代には、家々の荒神像は毎年必ず古いものを新しいものと交換していたものと思われ、今見るようなやり方ではなかったろうと推察される。
なお、前述した和泉村の石井権五郎の記録には、新旧の荒神像の交換のことを「荒神様御引替」と記していたことも興味深い。「お引き替え」というのは、武州御嶽山や三峯山などにまつわる山岳信仰でよく用いられる言葉で、聖なる大口真神の御神体(黒狼札)を毎年、新しいものと交換することを意味し、各講中ではこれを俗にオヒッカエ(御引き替え)と称していた。品川の千躰荒神の交換習俗もまた、オヒッカエなのだったということになろう。あまりよくないたとえ方ではあるけれども、神の力にも「賞味期限」もしくは「有効期限」とでもいうべきものがあり、それは1年間もしくは半年間とされていたので、時折は御神体を新しいものに交換しなければならなかった。しだいにそれがわずらわしくなっていったのか、あるいはその面倒な手間を省こうとするようになったのかはわからないが、御神体そのものを使いまわして、そのエネルギーのみをチャージするようになっていった、ということではなかったろうか。信仰の近代化を通じて、そのような変化も起きていったということなのだろう。

(3)荒神祭りと門前市
さて最後に、荒神大祭の門前市について触れておこう。祭りの両日、海雲寺の門前にはずらりと露店が立ち並び、実ににぎやかな門前市がそこに立つ。他所の寺社の祭礼や縁日ではほとんど、あるいはまったく見かけることのない珍しい露店が、いくつも出ているのがその特色で、一風変わった雰囲気に満ちており、それこそが千躰荒神祭の門前市なのだ。たとえばどんな店が珍しいかというと、東京湾で採れた魚介類の干物を売る店、麦藁細工屋などがそれなのだが[長沢,1998:pp.37-39]、ここ以外には絶対に見られない出店として、荒神松屋と釜おこし屋をあげることもできる。
荒神松屋とは、家々の台所の荒神棚に供えるための若松の枝を売る店で、まさに荒神大祭にふさわしい出店といえる(写真8〜9)。東京都内では、荒神に若松を供えるという習慣がごく当たり前に見られ、郊外の農家ならば自宅の庭に植えてある松や、雑木林に自生している松を取ってくればよいけれども、都心部ではそうもいかない。海雲寺の門前市に行って、それを求めてくる家々はとても多く見られた。
さらにもうひとつ、千躰荒神の大祭以外ではまったく見られない露店が、釜おこし屋ということになるだろう(写真10〜11)。

 
写真8 荒神松を売る露店@
 
写真9 荒神松を売る露店A
 
 
写真10 釜おこし屋@
 
写真11 釜おこし屋A
  釜おこしとは、羽釜の形をした菓子のおこしで、赤色や緑色に染められた色とりどりの球形をしており、これまたカマドの守り神、火の神としての荒神の祭りにまことにふさわしい。ソフトボール大の大きなおこしで、いかにも食べにくそうな形の菓子なのだが、「釜おこし」が「カマドをおこす」、すなわち身上をおこすということに通じるので[品川区(編),1973:p.1031]、まことにめでたい、縁起物の菓子なのだった。この釜おこし屋は、1986年頃には7〜8軒ほども出ていたとのことだが[中原,1986:p.7]、現在では2〜3軒を見るのみで、淋しくなった。この釜おこしという菓子は江戸時代からあり、『近世商売尽狂歌合』には、市中を売り歩く釜おこし屋の姿が描かれている(図1)。


 
 図1 釜おこし売り(近世商売尽狂歌合より)
その解説を見ると、「此菓子うりは文化年中にて、親孝行の徳にや。世に行われて多くの売得を得しと云。天保末まだまだ売出せしが、以前に替り程無絶たり」と述べられている。釜おこし売りの最盛期は文化年間(1804〜1817年)で、天保年間(1830〜1843年)末期には廃れ始め、以後は見られなくなったという。だとすれば、海雲寺の門前市で今見る釜おこし屋は、江戸以来のその生き残りといえるだろうから、貴重な存在ということになる。
なお、『近世商売尽狂歌合』の挿絵には、釜おこし屋の呼び売りの口上文句として、「コリャコリャコリャ、来たわいな来たわいな、二十四孝のおかまおこしがきたわいな、お釜おこしがきたわいな、きたわいな、きたわいな」というものが書き添えられている。同書の解説にあった「親孝行の徳にや」というのも、それを言っているわけなのだが、それはどういうことなのだろうか。ここにいう「廿四孝」とはもちろん、歌舞伎や浄瑠璃の『本朝廿四孝』のことではなく、中国の孝行説話集である『廿四孝』のことを言っている。郭巨(かくきょ)という母親思いの貧しい男がいて、母を養うために3歳になったわが子を口減らしにしようとする。子供を生き埋めにするため、地に穴を掘ったところ、土の中から黄金の釜が出てきたので、家族三代、幸福に暮らすことができた、という話がそこに載っているのだ。『廿四孝』は寺子屋のテキストなどによく用いられ、誰でもこの話をよく知っていたので、釜おこし売りの口上にもそれが取り入れられていったのだ。
海雲寺の千躰荒神大祭は、江戸東京の祭事暦の中において、まことに異色を放つ稀有な存在といえる。これに類する祭りはほかにまったく見られないし、そこに祀られている千躰三宝荒神大王という祭神の特殊性、家々の台所に祀られたその分身像が年に二度、海雲寺へ里帰りして加持を受けるというその風変わりならわし、祭りの門前市に見られるこれまた独特な雰囲気と、そこにしか見られない出店の数々、などなどがこの祭りの特色を豊に生み出してきたのだ。

引用文献
岸本昌良,1992「千躰荒神の民俗」『仏教民俗学大系』Vol.8,名著出版.
狛江市(編),1977『狛江市史料集』Vol.6,狛江市.
長沢利明,1998「品川の千体荒神祭―東京都品川区海雲寺―」『西郊民俗』No.163・164,西郊民俗談話会.
長沢利明,2006「海雲寺の千躰荒神祭(品川区)」『東京の祭り・行事―東京都祭り・行事調査報告書―』,東京都教育委員会.
中原幹生,1986「季節の市―品川千体荒神祭―」『読売新聞』3月26日夕刊東京版,読売新聞社.
品川区(編),1973『品川区史(通史編上巻)』,品川区.
品川区教育委員会(編),1973『品川区文化財調査報告書(その1)』,品川区教育委員会.
品川区教育委員会(編),1993『しながわの昔ばなし』,品川区教育委員会.
山中共古,1985「影守雑記」『山中共古全集』Vol.2,青裳堂書店.
若月紫蘭,1968『東京年中行事』,平凡社.
 
HOMEヘもどる