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連載 「民俗学の散歩道」 26 2018年8月号 |
長沢 利明 |
吉田松陰の墓 |
web上で表現できない文字は?となっております |
偉大な英雄的人物がいて非業の死を遂げる。そして、それを強く慕い続ける人々がいて、自分たちも後に続かんとする。そうした強い思いが英雄の墓へと引き寄せられ、それが特別の意味を持つようになっていき、ついにはそのシンパたちが、自らもその英雄の墓のかたわらに永眠したいと望み、そのようにして葬られることになる。その結果、英雄の墓の回りには、信奉者たちの墓がぞくぞくと設けられていく。かくして英雄の墓に引き寄せられ、同じ志を抱く人々の墓がそこに集まっていくという特殊な現象が、興味深い墓制の一形態として成り立った。そのもっとも典型的で、象徴的な一例ともいえる吉田松陰の墓のことについて、少し注目してみることにしよう。
吉田松陰(1830〜1858)といえば、いうまでもなく幕末の志士の一人で、しかもそれらの指導者として活躍した重要な人物だ(写真78〜82)。長州藩の下級武士の家に生まれた彼が、そのような思想にめざめて、後に明治維新を牽引する多くの活動家たちに多大な影響を与えることになったとはいうものの、彼自身は安政の大獄に連座して死罪に処せられることとなった。29歳の若さで世を去った松陰の波乱万丈の人生を、略年譜にまとめてみれば表1のようになるが、さまざまな伝記書にもそれは載せられており、松陰の一代記は多くの人々のよく知るところであろうから、ここでそれを繰り返すことはしない。
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写真78 吉田松陰像
写真79 松陰神社の松陰墓
写真80 回向院の松陰墓@
写真81 回向院の松陰墓A
写真82 乃木神社の正松社
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実際、吉田松陰の伝記書や評伝の類は枚挙にいとまのないほどたくさん出されており、私が数えてみたところ、軽く100冊を上回っていて、松陰人気が今なおまったく衰えることのないことを、そこから知ることができる。数ある松陰の伝記本の最初の決定本といえるものは、もちろん徳富蘇峰(1863〜1957)の『吉田松陰』で、1893年(明治26年)に出版されている[徳富,1984]。その2年前に刊行された野口勝一・高岡政信による『吉田松陰伝』もあるけれども[野口・高岡(編),1891]、ただ資料を編年体風にまとめたものに過ぎない。それに比べれば蘇峰の『吉田松陰』は、ジャーナリストとしての立場にふさわしく、松陰を直接に知る、当時なお存命だった人々、すなわち松陰の後嗣である吉田庫三や妹婿の楫取素彦(小田村伊之助)らからの綿密な取材を経たうえで書かれており、これを超える水準のものはないといってよいだろう。なお余談ではあるが、世界で最初に書かれた松陰の伝記は日本国内ではなく、外国で発表されており、それを書いた人も日本人ではなかった。『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の著者として知られるイギリスの文豪、ロバート・ルイス・スティーブンソンがその人なのであって、1880年(明治13年)にイギリスのある雑誌に『ヨシダ・トラジロウ(吉田寅次郎)』と題した16ページほどの文章を、彼は発表している[スティーブンソン(工藤訳注),1966;河上,1972:pp.48-61;島(訳),1976:pp.32-54;プロジェクト新・偉人伝(編),2009:pp.118-119;河上,2009:pp.53-67;よしだ,2009]。これは意外なことであったろう。松陰の門弟の一人で松下村塾に学んだ正木退蔵という人がいて、維新後に国費留学生としてイギリスに渡り、留学先でスティーブンソンに出会って師の生涯を彼に話した。感銘を受けたスティーブンソンは、さっそくそれを文章にまとめ、世界最初の松陰伝が書かれたのだった。
さて前置きが長くなったが、ここで私が述べようとしているのは松陰の生涯ではなく、主として「死後の松陰」についてだ。特に彼の墓をめぐる諸問題は、中心的なテーマとなるので、重点的に触れてみなければならない。そこで、まず彼の墓をたずねてみることにしよう。松陰の墓は実は3ヶ所ある。ひとつはいうまでもなく、世田谷の松陰神社(東京都世田谷区若林4-35-1)の境内にあり、もっとも有名なものなので歴史好きな人ならば誰しも、一度はたずねてみたことがあるに違いない。もう1ヶ所は処刑後の彼の遺骸が最初に葬られた、小塚原刑場跡にある回向院(東京都荒川区南千住5-33-13)の境内にあり、やはり安政の大獄で処刑された橋本左内の墓の隣にその石塔が立っている。しかし、これはもちろん当初のものではない。回向院の松陰墓の墓石は1859年(安政6年)に最初のものが建てられたが、まもなく幕府方の手で一度破壊されており、その後の1862年(文久2年)に二代目が建てられているが、その翌年に松陰の遺骸が世田谷へ移された後もそれはそこに残され、維新後もしばらくは当地にあったというが、いつしか行方不明となってしまった。回向院に今あるそれは1942年(昭和17年)に、皇風会東京支部という団体が復元・再建した3代目なのだ。遺骨はもちろん世田谷の方へ改葬されているため、そこにあるのは石塔だけで、墓はからっぽなのだ。墓のあった場所も現在地ではなく、その旧地は現在の常磐線の線路下あたりだったという[福本,1942:p.38]。
松陰墓の最後の1ヶ所は彼の郷里である現在の山口県萩市にあり、生家のあった団子岩と呼ばれる高台に自然石の墓碑が立っている。1860年(万延元年)2月7日に、生家の杉家で松陰没後の百日祭がいとなまれた際、門弟らが彼の遺髪をここに納め、同月15日にこの墓が設けられた。墓前の花立石や水盤には、それらを寄進した高杉春風(晋作)・久坂誠(玄瑞)・増野乾(徳民)・松浦無窮(松洞)・佐世一誠(八十郎)・入江弘致(杉蔵)ら17名の門人の名が、幕府にまったくはばかることなく公然と刻まれている[佐藤,1972:pp.304-307;吉川,1987:p.302;一坂,2014:pp.98-99]。花立石のひとつには「杉妹中」とあり、これは松陰の3人の妹たち(千代・寿・文)の奉納したもので、3人のうち文はNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公となった人だ[池田,2015;磯田,2015]。もうひとつ、墓ではないけれども松陰の魂の祀られた小社が、東京赤坂の乃木神社(港区赤坂8-11-27)の境内にあって、正松神社と呼ばれている。松陰の叔父で家学の師でもあり、松下村塾の創立者としても知られる玉木文之進と松陰の二柱を、戦後に神として祀った小社がこれだ[乃木神社(編),n.d.]。なお、松陰は1888年(明治21年)に靖国神社へも合祀されているし、その翌年には帝国憲法発布と同時に正四位の位が贈られている。
第一の松陰墓のある松陰神社が、松陰らを祭神として1882年(明治15年)に創建されたのは、松陰没後24年目のことだった(写真83〜93)。創立まもない頃の神社の様子を、先の徳富蘇峰は次のように記している。
玉川に遊ぶ者は、路(みち)世田が谷村を経ん。東京城の西、青山街道を行く里余(りよ)、平岡逶?(いい)として起伏し、碧蕪(へきぶ)疎林その間を点綴(てんてい)し、鶏犬の声相聞う。街道より迂折する数百歩、忽ち茅葺の小祠堂あり、ああこれ吉田松陰の幽魂を祭る処。祠後の小杉槍尖(しょうさんそうせん)の如く、森然として天を刺す。これを径すれば、幾多の小碑、行儀能く屏列するを見る。その左右に在るは、同志、同難諸人の墳墓にして、彼はあたかも幽界の大統領たるかの如く、その中央に安眠す。数株の蒼松は、桜樹に接して、その墓門を護し、一個の花崗石の鳥居は、「王政一新之歳、大江孝允」の字を刻して、長(とこし)えに無韻の悼歌を伝う。三十五年前、日本国を荒れに暴(あ)らしたる電火的革命家も、今はここに鎮坐して、静かなる神となり。春雨秋風人の訪うなく、謖々(しょくしょく)たる松声は、日本男児の記念たる桜花の雪に和して吟じ、喞々(しょくしょく)たる虫語は武蔵野の原より出でて原に入る名月の清光を帯んで咽ぶ[徳富,1984:p.19]。
当時の松陰神社はこのように、小さな茅葺き屋根の小社に過ぎなかったが、祭神たちの眠る墓域を囲む松やカエデの鬱蒼たる樹林の様子は今も変わらない。「大政一新之歳、大江孝允」と刻まれ、1868年(明治元年)に木戸孝允の手で建てられた花崗岩の石鳥居は、今もそこに立っている。明治時代の松陰神社の写真も残されているが、墓地参道にずらりと並ぶ石灯篭の列がそこに見える。この石灯篭群は1908年(明治41年)の松陰没後五十年祭の時に奉納されたものなので、この写真はそれ以降に撮影されたものだということがわかり、現在この石灯篭の列は拝殿前の両側の位置に移されている。なお、今の松陰神社の社殿は南向きに立っているが、当時は東向きで、崖下から参道を登って社前に至る形になっていた。
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写真83 松陰神社
写真84 明治時代の松陰神社(『新撰東京名所図会』より)
写真85 明治時代の松陰墓(『新撰東京名所図会』より)
写真86 旧鳥居石柱
写真87 松陰神社道標
写真88 松と楓の樹
写真89 徳富蘇峰植樹碑
写真90 松下村塾@
写真91 松下村塾A
写真92 松陰墓入口
写真93 松陰終焉の地の記念碑(中央区伝馬町)
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図13 |
ではさっそく、現在の松陰神社をたずねてみることにしよう。境内には吉田松陰に関するさまざまな奉納物や記念碑があるほか、墓域内には松陰以下10名の墓があり、それらの一覧をまとめてみると図13・表6のようになる。境内入口には2011年(平成23年)に建立された大きな鳥居が立っているが、その裏手にはそれ以前にあった古い石鳥居の一部が保存されている。この旧石鳥居は1908年(明治41年)に挙行された松陰50年祭を記念して建てられた、総重量20tの花崗岩製の鳥居だったが、その柱の一部に「明治四十一年十月五十年祭典、山口縣出身者相謀建之為記念」の字を再刻して残している。参道右手には2013年(平成25年)に除幕された吉田松陰の銅像があり、わが国の近代彫刻の先駆者であった大熊氏廣が1890年(明治23年)に製作した石膏像をブロンズ像に鋳造し直したものだという。手水舎の裏手に立つ「松陰神社道」の道標は、1912年(明治45年)に乃木希典が寄進したもので、かつて旧大山道(矢倉沢往還・現在の世田谷通り)から松陰神社参道へと至る入口に立っていたが、道路拡幅の際にここへ移された。もとの碑は明治23年に建てられたものであったが、破損したため、同45年に再建して乃木希典がこれを寄進したという。碑文にその名が見える金原明善という人物は遠江国の事業家で、熱烈な法華信徒そして松蔭の信奉者だった[松本,2012:pp.125-126]。その隣には、名著『吉田松陰』の著者である徳富蘇峰が同書の改訂版を刊行した際、その記念として1908年(明治41年)に植えたカエデと松の古木があり、「景慕英風植樹表誠」と刻まれた植樹記念碑もそこにある。その先にあるのが先に触れた計32基の石灯篭群で、同年に挙行された松陰五十年祭の際に寄進されたものなのだが、その奉納者の名を見ると、旧長州藩主の毛利元昭を始め、吉川經健・毛利元忠・毛利元秀・毛利元雄・吉川重吉らの関係者とともに、伊藤博文・山形有朋・井上馨・桂太郎・木戸孝正・乃木希典といった明治の元勲らの名がずらりと並び、そうそうたるものだ。これら奉納者らの名は書家高田竹山による八分隷書体で刻まれている。
拝殿での参拝を済ませ、右手の方に進んでいくと松下村塾の前に至る。松陰が萩にいた頃、門下生らをそこで教え、生活をともにしていたのが松下村塾で、萩に残る本物の塾を正確に模して建てられたもので、1938年(昭和13年)に国士舘大学の構内に建てられたが、1941年(同16年)にここへ移築された。こんな小さな塾舎から幕末の志士たち、そして明治維新で活躍する多くの人材が育っていったということに、参拝者らは感嘆することだろう。高杉晋作・伊藤博文・久坂玄瑞・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・山縣有朋といった人々がここで学び、巣立っていったのだ。最後にいよいよ、神社の祭神たちが今もそこで眠る墓域をたずねてみよう。入口に立つ古びた御影石の鳥居こそ、先述の木戸孝允の手で建てられた花崗岩製の石鳥居で、「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれた文字を今もそこに読み取ることができる(図13および表6の54)。この鳥居をくぐって奥に進むとめざす吉田松陰の墓が現れ、その周辺には彼の墓のかたわらに埋葬された志士たち、そして彼とともにここに眠ることを望んだ人々の墓が並ぶ。すなわち、その右手には小林民部少輔(同42)・頼三樹三郎(同43)の墓が、左手には來原良蔵多々良盛功(同44)・福原乙之進大江信冬(同45)・綿貫治良助(同46)の墓が並び、長州藩邸没収事件にともなう48名の犠牲者の慰霊碑(同47)もそばに立っている。以上は墓域中心部の玉垣内にあるが、その外側にも中谷正亮源實之(同48)・來原良蔵妻和田春子(同49)の墓があり、長州藩第四大隊戦死者招魂碑(同50)や徳川家寄進の石灯籠と水盤(同53)もそこにある。さらに、後の時代にここに葬られた子爵野村靖夫妻の墓(同51〜52)も入口の方にある。
そのようにして、松陰の支持者たちの墓がここに集まっているのであって、まさにここで問題にしているテーマ、すなわち強い力で英雄に引き寄せられて発生した墓の集中現象というものの実態が、目の前に展開するさまを私たちは見ることができる。そして、これらの墓群の中央に立つ松陰の墓石は、まさに「幽界の大統領たるかの如く」と蘇峰が先に述べていた通りであって、そのようにして聖域の盟主はそこにしずまっているのだ。
さて、こうした興味深い現象が、どのようなプロセスを経て生起していったのかということを考える前に、吉田松陰という人物がこの地に葬られるに至るまでの経過についても、少々見ておかねばならない。まず、彼が1859年(安政6年)10月27日に、処刑場の露と消えた場所は江戸伝馬町の牢屋敷である。そこは今の東京都中央区日本橋小伝馬町の周辺にあたり、広大な牢屋敷の旧敷地内の一部が十思(じっし)公園として残されている。そこには松陰の記念碑がいくつか立っているが、「松陰先生終焉の地」と刻まれた碑は1935年(昭和10年)に同郷の有志らの手で建てられたもので、山口県萩市の萩城趾東麓にある宮崎八幡宮周辺から掘り出した自然石に文字を刻んでいる。その隣には『留魂録』に記された彼の辞世歌「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」を刻んだ大きな碑も立っていて、多くの歴史ファンがここをおとずれる。なお牢屋敷跡は近年、発掘調査もなされていて、石垣跡などが発見されており、公園内に今、その石垣が展示されている。
伝馬町で死罪に処せられた後の松陰の亡骸は、いかにして小塚原の刑場へと運ばれ、どのようにしてそこに葬られたのだろうか。そのあたりの詳しい事情をぜひ知りたいと、筆者はいつも思っていたのだったが、いろいろな書籍や資料を見渡してみても、あまりくわしく書かれてはいない。ところが近年、それをかなり詳細に記録した貴重な史料として、『松陰先生埋葬并改葬の記』という重要な記録が残されていることを筆者は知った。それは1895年(明治25年)に吉田庫三の手でまとめられ、ごく少部数、私家版で刊行された小冊子なのだった[吉田,1895]。吉田庫三(1867〜1922)は松陰の実妹千代と児玉祐之の間に生まれた次男で、松陰の甥にあたる。1877年(明治10年)に吉田家の家督を相続して第11当主となっており(松陰は第8代)、実は松陰の正当な後嗣なのだが、のちに教育者として活躍した人物でもある。庫三が自費出版したこの小冊子が、いくつかの松陰伝記に部分的に引用されていることは筆者も知っていたのだが[品川,1941:pp.339-343;和田,1942:pp.374-377;広瀬,1942:pp.173-174;関根,1976:pp.323-327]、ぜひ原典で全文を読んでみたいとも思っていた。松陰神社の地元、世田谷区内の三田家文書の中に1冊それがあって[松本,2006:p.4]、現在は世田谷区立郷土資料館に寄託されており、同館で2012年に開催された企画展にも出展されていたことも最近わかった[世田谷区立郷土資料館(編),2012:p.93]。同館の特別なはからいで今回、それを閲覧することができたので、その冒頭部分を次に少し引用してみよう。
安政六年巳未五月廿五日、先生萩城の野山獄より江戸に拘致せられて七月九日、傳馬町の獄に下り、爾後評定所の訊鞠を受くること僅に二回のみにて十月十六日口書讀聞あり。越えて廿七日、遂に死刑に處せられたり。(中略)廿六日の夜、執政周布政之助、尾寺を藩邸に招き明朝評定所に於て先生の斷獄あるべきよしを告げたれば、尾寺は翌早飯田を伴ひ評定所に至りて事情を探らんとしたるに、門前の露店にて先刻重罪人を傅馬町に護送せりと聞き、直に走りて傅馬町の獄卒金六を訪ひ、始めて先生は四ッ時既に處刑せられしを知れり[吉田,1895:pp.1-2]。
1859年(安政6年)10月26日の夜、伝馬町の牢屋敷において明朝、ついに松陰が処刑されることとなったという情報をつかんだ長州藩邸では、執政の周布政之助が藩士尾寺新之丞・飯田正伯を呼び出し、その旨を告げる。周布(すふ)政之助は長州藩の重臣で、藩政改革を次々と実行した能吏として知られている[一坂,2014a:pp.149-151]。尾寺・飯田の両名は翌朝、ただちに伝馬町に向かうものの、松陰の処刑は午前10時頃にすでに終っており、その亡骸は小塚原刑場の回向院へ送られたとのことだった。両名は外桜田の藩邸へ戻り、そのことを報告する。この日、長州萩にある松陰の実家の杉家では、父百合之助が自分の首を斬られる夢を見たが、不思議なことに誠に心地よく感じられたという。母瀧子もまた、寅次郎(松陰)が今、江戸から帰ってきた夢を見たといい、よい血色をしていたという[福本,1941:p.204;不破,2014:pp.149-150]。刑死の時刻に突然、杉家の仏壇の灯明が消えたので、寅次郎の身に何か悪いことが起きたのではと家族が感じた、などなどの話とともに、よく聞かれるエピソードだ[熊井,2016:p.51;福本,1964:p.145]。その3日後の同年10月29日、藩からは尾寺・飯田とともに桂小五郎(後の木戸孝允)・伊藤利輔(後の伊藤博文)が加わり、4名が小塚原へと向かう。
二人乃ち櫻田藩邸に至りて桂小五郎(木戸孝允)及び伊藤利輔(博文)に實を告げ去りて大甕と巨石を購ひ回向院に赴けば、木戸・伊藤先づあり。既にして幕吏も亦至り院の西北方なる刀剣試驗場傍の藁小屋より一の四斗桶を取り來りて曰く、是れ吉田氏の屍なりと。四人環立して蓋を開けバ、顔色猶ほ生けるがごとく髪亂れて面に被り血流れて淋漓たり。且體に寸衣なし。四人其の慘状を賭て憤恨禁ずべからず。飯田髪を束ね、桂・尾寺水を灌ぎて血を洗ひ、又杓柄を取りて首・體を接せんとしたるに、吏之を制して曰く、重刑人の屍は他日檢視あらんも測られず、接首の事發覺せば余等罪輕からず。幸に推察を請ふと乃ち飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱して體に纏ひ、伊藤は帯を解きて之を結び、首を其上に置きて甕に収め、橋本佐内の墓左に葬りて上に巨石を覆ひ、事を竟へて去れり。後數日、飯田・尾寺碑を建て其正面の中央に松陰二十一回猛士墓、右に安政巳未十月念七日死、左に吉田寅次郎行年三十歳と彫り、右側面に「吾今爲國死死不負君親悠々天地事鑑照在明神」の詩、左側面に「身はたとひ武藏の野邊に朽ぬとも留置まし大和魂」の歌を刻みたり[吉田,1895:pp.2-4]。
小塚原の刑場に着いた4人の前に差し出されたのは、伝馬町の牢屋敷から送られてきたばかりの松陰の亡骸を納めた四斗桶だった。その蓋を開けると現れたのは、変わり果てた師の遺体であって、顔色は生けるがごとくだったものの、髪は乱れ血まみれになっており、身体は丸裸の状態だった。飯田は髪を整えてやり、桂と尾寺は水を注いで血を洗い流す。切り離された首と胴体を柄杓でつなごうとしたが、役人に制止される。飯田は自分の着ていた黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を、伊藤は帯を解いて遺体に着せてやり、大瓶に納めて首を上に置き、穴を掘って埋めた後に巨石を置いた。数日後、そこに建てられた墓石には、「松陰二十一回猛士墓、安政巳未十月念七日死、吉田寅次郎行年三十歳(数え年)、吾今爲國死死不負君親悠々天地事鑑照在明神、身はたとひ武藏の野邊に朽ぬとも留置まし大和魂」と刻まれた。
「松陰二十一回猛士」というのは、つねに彼が自称していた号だ。彼が萩の野山獄にいた時、夢中に神が現れてこの名を名乗れと告げたという。彼の旧姓は杉であるが、「杉」という字を分解すると「十・八・三」となり、足せば「二十一」となる。「吉田」は「十一・口・囗・十」で、「二十一」と「回」となる。21という数字は彼のラッキーナンバーのようなものだった。また、寅年生まれの寅次郎なので猛虎に通じ、21回にわたって猛を発揮しなければならないのだが、自分はまだその3回しか実行していないという。1回目が脱藩、2回目が『将及私言』を上書して人に憎まれたこと、3回目は下田で黒船への乗船をこころみての失敗だ。まだ18回ものチャンスが残されているというのに、今こうして生涯を終えねばならないという悔しさも、そこには込められている[村崎,1942:p.223]。この松陰の墓石も、何者かの手でまもなく破壊されてしまうのだが、1862年(文久2年)11月28日、朝廷の意向を踏まえて幕府は国事犯の大赦をおこなうこととなり、松蔭の罪は許される。それを受けて2代目の墓石が建てられることとなったいきさつは、以下の通りだ。
既にして幕府令を下し院内志士の墓碑を毀たしむる時、先生の碑も亦撤せられたりしが、後四年を經て文久二年壬戌八月世子公(從一位公)朝旨を奉じて東下し天使大原重徳卿と共に勅旨を幕府に傅ふ中に戊午以來、罪を國事に得たるものを釋し、死者の罪名を削るべしとの事あり。是に於て久坂義助等、更に碑を先生の壙塋に建つ(碑字は久坂の書にして今回向院に存するもの是れなり)[吉田,1895:pp.5-6]。
新たな墓石を建てたのは長州藩の久坂義助、すなわち後の久坂玄瑞(1840〜1864)で、松陰の一番弟子、そして彼の妹である文の最初の夫となった門弟だ。長州藩の尊王攘夷運動の中心人物で、この2年後に京都での禁門の変で彼は戦死することとなる。久坂らの建てたこの2代目の松陰の墓石は先にも述べたように、維新後もしばらくは残されたものの、再びどこかへ消え失せてしまう。今、回向院にあるものは先述の通り、それではない。そして、罪の許された今、刑死者の埋葬地で不浄の地である小塚原に、いつまでも師の亡骸を眠らせておくのはあまりにもしのびないということで、それをきちんとした永眠の地へと移し、葬り直そうということになった。かくして門人らは1863年(文久3年)1月、それを実行することとなった。改葬の地として選ばれたのは、江戸西郊の若林村にあった長州藩毛利家の抱屋敷内で、現在の世田谷区若林の松陰神社のあるその場所だった。
長州藩がこの地に抱屋敷の土地18,300坪を求めたのは1672年(寛文12年)のことで、江戸の藩邸が火災を受けた時の避難場所として、設けられていたのが抱屋敷というものだった。そこは江戸外桜田の上屋敷と青山(抱え麻布)の屋敷にも近くて便がよかった[松本,2008:p.2]。とはいえ、抱屋敷とはいっても御殿などの建物が立っているわけではなく、ただ番人の農民住宅が2〜3軒そこにあるだけで、屋敷地の大部分は林と農地になっており、幕府の規制によって囲いの塀や柵さえ設けられていなかった。そこは明治の中頃までは杉や松の大木に覆われて、森林のようになっていたといい、北側の烏山用水に臨む崖は狐狸の棲息地で、付近の農家では白昼に鶏を狙われ、夜は化かされる者がいたという[加藤,1967:p.11]。この改葬時の様子を先の資料から見てみよう。
斯くて明年癸亥正月五日を期して先生及び先生と同じく國に殉して墳墓を接せる頼三樹三郎・小林民部を改葬する事となり、高杉晋作・伊藤利輔・山尾庸三・白井小助・赤根武人等此が主者たり。山尾・白井は前夜小塚原に向ひて豫め事を整へ、翌早高杉等皆會して三墳を掘り、遺骨を新棺に斂む。而して其壙塋は忠死の血痕を印したる地にして破壊堙没せしむるに忍びざるにより、墓を修め碑を存して去りぬ(尾寺信の説によれば現今先生の碑ある處は舊墓地にあらずと)。此日儀禮最も嚴粛にして故舊柩に從ひ、高杉馬に騎して先驅たり行きて上野山下なる三枚橋の中橋に及ぶや、守者叱して之を止めんとす。盖し中橋は特に將軍東叡山參拜の通路に供へたるにて、諸侯以下士庶は皆左右の橋を渡るべきの制なればなり。高杉鞭を舉げ疾呼して曰く、吾輩長州の同志勅旨を遵奉して忠節士の遺骨を葬るなり、途に此橋を過ぐるも何ぞ不可あらんやと辭色?に勵しければ、吏卒恐怖して遁れ匿れたり。既にして大夫山に達し松杉蔚茂し深秀幽静なる淨區に?して長く忠魂を鎮する處となし、?埋の儀全く終りたるは巳に黄昏なりき[吉田,1895:pp.6-8]。
改葬を指揮したのは、かの高杉晋作(1839〜1867)らだった。高杉がどのような人物であったかは、もはや言うまでもないだろう。彼らは小塚原で松陰の亡骸のみならず、ともに刑場内に眠っていた志士2名(頼三樹三郎・小林民部)の遺骨も掘り起こしていった。その際に、久坂が建てた松陰の墓石はそのままそこに残していったという。3人の遺骨を若林村まで運ぶ途中、一行は上野山下を通過するが、そこにある三枚橋の中橋は徳川将軍のみが寛永寺の参拝時に渡ることができた橋だった。しかし、高杉は堂々とそこを渡ろうとし、役人らに制止されたものの、鞭を振りあげ、「吾輩長州の同志勅旨を遵奉して忠節士の遺骨を葬るなり、途に此橋を過ぐるも何ぞ不可あらんや」と叫び、強引に渡っていったという。長州藩の風雲児たる高杉に、いかにもふさわしいエピソードといえようが、作り話だという説もある[一坂,2015:p.149]。高杉の率いる奇兵隊が第二次長州征伐で幕府軍を破り、大勝利をおさめるのはこの3年後のことなのだった。
なお、若林村の長州藩抱屋敷の元番人(屋敷守)で、維新後に三軒茶屋で「松陰茶屋」を開業する田中半蔵は、松陰らの遺骨改葬時にその墓穴を掘ることを命じられた農民だったが、当時のことを次のように回想している。
松蔭先生御遠逝(おかくれ)のことで御座いますが。(中略)長州侯から御使が立ちまして。明日中に幅三尺・深さ七尺の穴を三ツ連ねて掘って置くこと。ソして堅炭を十二三俵計り用意して置くやうにとの仰せ越しで御座いますから。ハテ何事が起ったかとは思ひましたが。問ひ質(ただ)す訳にも参りませんで。御指揮の儘に三尺の穴を三ツ連ねて。三三九尺ですむ処を。少し寛(くつろ)ぎを入れて一丈の長さに掘り続け、深さは七尺として置きまして。穴が出来あがりますと。私は自身に渋谷まで堅炭を買ひに参りました。如何で御座いませう。是が吉田松陰先生外御二方の御遺骸を隠す御用になりませうとは。夢にも思ひがけなかったので御座います[松本,2010:p.3;2012:p.128]。
しかし、この後、1863年(文久3年)8月18日の政変、翌年7月の禁門の変が起き、長州藩と幕府の対立は決定的なものとなって、1864年(元治元年)7月の第1次長州征伐に先立ち、長州藩の江戸藩邸と若林村の抱屋敷はすべて幕府に没収されることとなった。その時に抱屋敷内の松陰らの墓も破壊されてしまう。抱屋敷が再び毛利家に戻されるのは維新後の1869年(明治2年)のことなのだった。田中半蔵の証言をまた引用してみよう。
丁度私が二十七歳の時。長州征伐と云ふ大事件が起りました。トコロが長州侯の御扶持を頂いて居たと云ふワケから。幕府側から間諜か何ぞのように疑はれまして。罪も無い私を罪人同様の縄付きにして。馬喰町の郡代所に二度までも引張り出しまして、イヤ惨々手酷い目にあはしました[松本,2010:p.3;2012:p.128]。
釈放されて若林村に戻ってみると半蔵の家は破壊されており、仕方なく彼は品川に出て薪炭屋を始めることにしたのだったが、第二次長州征伐に向かう幕府の行軍をそこで見る。「故主と仰ぐ長州侯を、此人達が征伐に行くかと思ふと。イヤな心地が致しました。イヤ実際イイ心地がしやう筈が御座いませんものを」と思ったという。しかし幕府軍は大敗し、1868年(慶応4年)に今度は官軍として江戸に乗り込んできた長州藩を見た時、「イヤ此時の嬉しかった事と云ふたら。話にもなるものでは御座いません」、「サア日頃窘迫(くる)しめられた腹癒せに。今度こそ十分幕府方に見せしめの為。長州侯の御馬前で思ふ様働いてくれよう」と思ったという[松本,2010:p.3;2012:p.129]。
さて、松陰の遺骨の若林村への改葬は、松陰の墓に引き寄せられたその信奉者たちの墓が、しだいに世田谷周辺地域内へ集まっていくという興味深い現象の、最初の第一歩といえる。これを第1次集中と呼ぶならば、1863年(文久3年)1月に吉田松陰・小林民部少輔・頼三樹三郎の3人の墓が、まずはここに集められたことを意味する。小林・頼はともに尊王攘夷の志士で、安政の大獄で死罪となった者たちだ(写真94〜103)。
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写真94 小林民部・頼三樹三郎の墓
写真95 來原良蔵・福原乙之進・綿貫治良助の墓
写真96 中谷正亮の墓
写真97 徳川家寄進の水盤
写真98 徳川家寄進の石灯篭
写真99 和田春子の墓
写真100 野村靖夫妻の墓
写真101 桂太郎の墓
写真102 柴田徳次郎銅像
写真103 国士舘の先覚者墓地
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なお頼三樹三郎の墓は4ヶ所あり、若林村のほか小塚原回向院にも墓石が残され、京都府京都市の長楽寺、同亀岡市の金輪寺にも分骨が葬られている[安藤,1984:pp.58-59]。若林村に建てられた3人の墓石は、久坂義助の強い希望で仏式ではなく神葬墓とするよう指示されていたともいう[一坂,2014b:p.198]。この第1次集中の特色は、高杉らの手で安政の大獄による刑死者の遺骸を、小塚原の刑場から当地へ移し葬ったという点にあるといえる。これに続く第2次集中にともなう改葬は、やはり高杉らによって同じ年になされているが、先の吉田庫三の回想録では、それを以下のように記している。
後數日高杉等又、來原良藏の墓を芝青松寺より先生の墓側に移し、其十一月笠原半九郎も亦友人福原乙之進を葬りぬ(福原此年八月江戸に來り長原美稱介と假稱して有志の士に交る。十一月廿五日一橋の臣脇坂又三の家に會して時事を議するに當り、幕府の捕吏來り迫りたれば福原刀を揮ひて之に當れども衆寡敵せず、其脱し難きを知り一室に入りて自殺す。吏遂に又三等を捕へ福原の屍を収めり。笠原變を聞き傅馬町の獄に就きて其屍を請ひ此に埋む)[吉田,1895:p.8]。
この時に改葬されたのは、横浜での外国人襲撃計画を藩にとがめられ、1862年(文久2年)に切腹して果てた來原良藏と、その翌年に倒幕運動の密議中を幕府側に摘発されて自刃した福原乙之進の遺骸で、尊王攘夷運動の急進派長州藩士2名がここに改葬されることとなった。こうして抱屋敷内には五墳が並ぶこととなったが、翌年の抱屋敷没収にともない、この五墳は幕府側に破壊されてしまうこととなる。五墳がようやく復旧されたのは、幕末の政争がようやく一段落の時を見せた1868年(明治元年)のことで、同時に第3次集中がそこでなされていくこととなる。吉田庫三の回想録を、最後にもう一度引用してみよう。
木戸孝允公、命を稟け藩の土木吏井上新一郎(信一)をして役を董し、新に先生以下の碑を建て又域内に綿貫治郎助の墓を移し(治郎助、姓は多々良、名は直秀。元治元年七月廿六日櫻田邸収没の時、幕吏と論争して屈せず。遂に短刀を抜き喉を刺して死す。行年二十九なり、其墓、元と小笠原小倉侯の香花院たる淺草松葉町海禪寺内泊船軒にありと傳ふれども未だ詳ならず)。甲子の變、幕吏に殺され或は幕獄に死したる四十五人の招魂碑を建てしめ(原墓は初め芝青松寺中に散在せしが明治十九年從一位公之を芝愛宕町傳叟院に合葬せしめられたり)、木戸氏は「王政維新之歳、木戸大江孝允」と刻せる華表を寄せ、徳川氏も亦、我が修墓の擧を聞きて葵章ある水?器一基を貽りたり。二年己巳七月整武隊の長官華表より墓前に至るの路傍に石を敷きて參拜に便ならしむ。是に於て塋域完成して舊觀に倍するものあり[吉田,1895:pp.12-13]。
この時に移されたのは綿貫治郎助と中谷正亮の墓で、綿貫は禁門の変にともなう長州藩江戸藩邸の没収時に幕吏に抵抗して自刃した長州藩士だった。中谷は松陰亡き後の松下村塾の監督者で、江戸で病死している。藩邸没収時の争いにともなう犠牲者48名の慰霊碑もあわせて建立され、旧五墳も復旧されることとなったが、墓所の石材はすでに売却されており、一から再建されたので、現在の墓石はこの時に建立されたものと考えられる。木戸孝允もこの時に新たに石鳥居を建てており[松本,2012:p.123]、翌年には参道敷石も整備され、今見る墓域の景観がようやく整えられたこととなる。徳川家もまた、今までの墓所の破壊行為を反省して詫び、手水鉢と石灯篭とを寄進していることは興味深い。かくして1882年(明治15年)、墓域に眠る人々を祭神として、そのかたわらに松陰神社が創建されることとなった。
墓の集中はさらにその後の明治時代も続いていくが、それを第4次集中としておくことができる。先の來島良蔵の妻であった和田春子は1875年(明治8年)に、子爵野村靖は1909年(同42年)に、その夫人野村花子は1911年(同44年)に、ここに埋葬されることとなった。それは改葬ということではなく、本人の意思にもとづいて当初からここに埋葬されることを望んだ人々が、松陰墓のかたわらで永眠するようになったということだ。野村靖もまた松下村塾の出身者で、尊王攘夷運動で投獄された経験を持ち、長州征伐戦で活躍し、維新後は逓信大臣・内務大臣・神奈川県令などをつとめた。彼の墓石には、「從遺言葬於松陰先生之側」の一文が刻まれており、死して後、彼は松陰墓の墓守りとなったといわれている[斎藤,1942:p.97]。長州藩第四大隊戦死者慰霊碑も1904年(同37年)に、桂太郎によって建立された。『新撰東京名所図会』にはこの当時の墓域の様子を、次のように記している。
東に長藩第四大隊戰死者招魂碑あり。西に來島良藏妻和田春子の墓あり。明治八年乙亥十一月十七日と見ゆ。入口の西に子爵野村靖、夫人野村花子の墓相並ぶ。子爵の墓背には「明治四十二年一月二十ニ日斃享年六十八。從遺言葬於松陰先生之側」と鐫し、夫人の墓背には明治四十四年四月十四日歿年六十四と刻す。子爵骨を市内の青山、谷中に埋めずして、遠く郡部に埋め、且つ其の墓を豐大にせず。識見ありといふべし。
第1次〜第4次の集中を通じ、計10名の墓がここに集まることとなったが、これをもって墓の集中が完了したわけではなく、その後の大正時代にもさらにそれは続いていく。この大正時代におけるそれを、第5次集中としておくことができるが、この時期には松陰神社の近辺に桂太郎と廣澤真臣の墓が設けられている[世田谷区教育委員会(編),1968:p.5]。桂太郎(1847〜1913)はいうまでもなく明治の元勲・宰相で、3度にわたり内閣総理大臣をつとめた人物だ。もとの長州藩士で、第2次長州征伐戦や戊辰戦争にも参加し、維新後は伊藤博文内閣で陸軍大臣に就任し、台湾総督なども歴任した後、1901年(明治34年)に首相となって第1次〜第3次桂内閣を組閣した。松陰をこよなく敬愛し、自身を「平素崇拝する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言を残して1913年(大正2年)に逝去する。墓は遺言通りに、松陰神社に近い今の若林公園の隣に設けられた。廣澤真臣(1834〜1871)は尊王攘夷派の長州藩士で、維新の十傑と呼ばれたほどの指導者であり、維新後は民部大輔・参議などの要職をつとめ、華族にも列せられたが1871年(明治4年)に暗殺されている。墓は死後54年を経た1925年(大正14年)に、松陰神社の敷地内に設けられ、神道碑としてその墓石が建てられた。墓地は一般公開されていないため、桂太郎のそれのように外から見ることはできない。
さて第5次集中の見られた大正時代には、松陰神社の周辺でもうひとつの大きなできごとが見られた。それは後に大学へと発展する私塾、国士舘の当地へ進出したことだった。国士舘の創立者、柴田徳次郎(1890〜1973)は1913年(大正2年)、青年大民団という啓蒙団体を結成するが、その私塾として1917年(同6年)に設立されたのが国士舘で、当時は麻布笄町(現在の港区南青山)にそれがあった。その設立趣旨には、「一小寺子屋たりと雖も、大正維新の松陰塾たるの効果あらん」と述べられており、彼もまた熱烈な松陰の信奉者なのだった。麻布の塾舎がしだいに手狭となり、その移転先を探していた彼らが松陰神社において第一回国士祭を開催した折、神職から当地への移転をすすめられたといい、次のように記している。
扨て此の松陰祭果て、休息せる折、松陰神社の社司を労し、種々閑談に及び其昔偉人松陰が「留め置かまし大和魂」と詠じた武蔵野の広々した秋の光景を眺めると、我等は低徊去る能はざるものあり。依て「此辺に適当な学校用地が無からうか」と問ふと、社司の話には「神社と豪徳寺との間に幾千丁歩の畑地あり。松陰の遺風を慕うて態々国士祭を行はるる方々が学校用地として甚だ意義の在る事と思ふ」との話であった。「然り!、偉人の霊、我を導く!」。我等は刹那電光の如きインスピレーションを感じ、深き確信を得た。依て猶予なく此の地所買入れの交渉を開始した[柴田,2015:p.117;佐々,2014:p.13]。
こうして1919年(大正8年)、国士舘は世田谷の地に移転し、高等部・中学校・商業学校・専門学校などが次々と開設されていくこととなり、1958年(昭和33年)には国士舘大学が創立されることとなった。国士舘の建学精神とはすなわち松陰精神ということであり、「本学をして明治維新における松下村塾の如く、国家の先駆者となる人物即ち国士を養成することを目的」としてそれが設立されたのであるから[国士舘武徳研究所(編),1997:p.59]、その学校敷地内に模造松下村塾(後に松陰神社境内へ移転される)や国士神社などが設けられるようになることは当然の結果で、学園創立期の功労者らの墓も敷地内に設けられることとなるのだ。この墓は「先覚者の墓地」と呼ばれ、現在も国士舘大学世田谷キャンパス内にあって、柴田徳次郎・長瀬鳳輔・阿部秀助・高木波次郎の4人がそこに眠っている。先覚者の墓地がいつ頃に設けられたのかは明確ではないが、1931年(昭和6年)の建物配置図にはすでにそれが見え、それ以前のものには見られないから、その頃のことと思われる[国士舘百年史編纂委員会(編),2015:p.957]。すなわち、これこそが第6次集中であって、墓の集中現象は昭和時代にまで継続されたということになる。
六次にわたる集中によって、世田谷の地には松陰を慕う人々の墓が続々と設けられ、ついには大学までそこに引き寄せられてきたことになるが、こうした現象は民俗学上、ほかでも見られたことなのだろうか。たとえば和歌山県の高野山の山中には戦国時代以来、多くの武士や僧侶らが墓を築き、おのれの分骨をそこに葬ることがみられた。敬愛する弘法大師の入定地のかたわらに、自らもまた眠りたいという意思がそこにははたらいている。一見、世田谷の松陰墓の場合との共通性をそこに感じ取ることができるものの、あまりに時代や条件が異なり過ぎるので、単純に並べて比較することなどもちろんできない。とはいえ、一脈通じるものがそこにあることもまた事実だろう。重要なことは、多くの人々に敬慕される、きわめて傑出した指導者や英雄がいて、それへの強力なシンパシーが同じような現象を引き起こすということだろう。遠い昔の霊山信仰の伝統がそこに発現され、幕末維新という激動と混乱の時代条件下で、時代の特殊性という衣をまといつつそれが再現されるということは、ありうることだ。
松陰は不遇な死をとげたが、時代は彼のめざした方向へと動き、完璧なまでにそれは達成されたのであって、彼の後に続く多くの人々の手でそれはなしとげられた。彼の墓は何度も破壊されたけれども、そのたびに再建され、手厚く祭祀されてきたのだし、最後には神社まで設立されて、神とあがめられるまでに彼はなった。その墓の膝もとで自らも永眠したいと望む人々は続々と現れ、昭和の世にまでそれは続く。そこには彼が祟れる御霊として澪落する理由も必要も存在しない。墓の集中現象をもたらした特殊な時代条件とは、そういうことなのだったろうと私は考える。
そして松陰の死後、時代は彼のもくろんだ通りに動いた。私たちは彼の周到な「計算」を今、知ることができる。伝馬町の牢屋敷での最後の訊問の折、彼は問われてもいないのに老中の暗殺計画をくわだてたことを自白し、死罪を決定的なものにしむけた。黙っていれば命をながらえることができたであろうものを、わざわざ口にしたことが彼の計算だのだろうと、私は考える。獄中にとらわれた今、状況を動かすために彼のなしうる術は、自らが処刑されること以外には何もない。最後の手段として彼は殉教者となる道を選んだのだろう。そうすれば草莽の志士らは必ずや自分の後に続く。高杉や伊藤らが、きっとやってくれるに違いない。かくして彼は、四度目の「猛」を行使したのであり、それは痛烈な決定打となって事態を動かしつつ、ついには明治維新へと結実していく。残された彼の墓の果した役割は、決して小さなものではなかったはずで、彼の意思を引き継ぐ者たちにとってそれは重要な心のよりどころとなったに違いない。徳富蘇峰の言葉を、最後にここに引用しておこう。
彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり。然りといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産したる母の如し。自から死せりといえども、その赤児は生育せり。長大となれり[徳富,1984:p.20]。
[付記]
本稿は国士舘大学地理学会の主催によっておこなわれた、同会の2018年度総会講演会における筆者の講演内容を筆記したものである。講演は2018年6月9日(土)に、東京都世田谷区世田谷4-28-1の国士舘大学世田谷校舎10号館10329教室においておこなわれた。講演にあたっては、国士舘大学の磯谷達宏・長谷川均両教授らのほか、松陰神社・世田谷区立郷土資料館より多大なご協力をいただいたので、ここに記して感謝申し上げる次第である。
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