西郊民俗談話会 

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連載 江民俗学の散歩道 25
   2018年2月号
長沢 利明
日光感精神話と元三大師
 web上で表現できない文字は?となっております

日光感精神話とは何だろう。それは女性が太陽の光を浴び、その力で妊娠してしまうという不思議な物語だ。つまりそれは、女性が太陽の子を身ごもるということで、太陽神は自らの放つ強力な光線の力で女性をはらませようとするのだ。このタイプの神話伝承は、環太平洋地域を中心として世界中に見られるが、わが国にあっても記紀の記述をはじめ、民間に伝承された諸事例がいろいろに存在する。そして、この古い神話伝承の残滓が何と、かの元三大師の出生譚の中などにも残されていたのだということを、ここに示してみることにしよう。
まずは世界的にもっともよく知られている日光感精神話の一例として、ギリシャ神話に語られたダナエの物語をみてみよう。アルゴスのアクリシオス王の一人娘、ダナエは実に不思議な方法でゼウスの子をみごもる。彼女の父親であるアクリシス王には、王位を継がせるべき息子がいなかった。そこで、どうすれば後継男子を授かることができるかを、神に問うて占うこととなった。その後の話の展開は、次の通りだ。

すると、思いもかけない神託がくだった。王にはこの先も跡継ぎは授からないが、ダナエが産む孫は男子である。ただしその子は、やがて祖父を殺すはめになろう、と。驚いた王は、ダナエを閉じ込め、誰とも結婚させないことにした。さっそく宮殿中庭に地下室を造らせ、屋根も壁もぴったりと青銅でおおって、男はおろか、鼠一匹入りこめないようにした。(中略)ところが、大神ゼウスは若く愛らしいダナエに恋心をそそられていた。幽閉されてしまった彼女に、なんとかして会う手だてを講じなければならない。考えた末、神は自ら黄金の雨に変身した。そうして屋根のつぎ目のわずかなすきまから忍び込むや、ぐっすりと眠っているダナエの上に降りそそぎ、彼女を身ごもらせてしまったのである。時がたった。ある日、それまで何も気づかなかった王は、ダナエを閉じ込めた館の中から、ふいに赤子の泣く声を聞きつけた。急いで入ってみると、これはなんとしたこと!。娘が、生まれてまもない男の子を胸に抱いているではないか[楠見,2001:p.190]。

かくしてダナエの産んだ男子は勇者ペルセウスとなり、メドゥーサの首を取ってアンドロメダと出会うための冒険の旅に彼は出るのだが、最後は祖父アクリシオス王を討つこととなり、神託の予言は的中する。ペルセウスの父はゼウスであって、ゼウスは黄金の雨に変身してダナエに降り注ぎ、彼女を妊娠させたというのだが、黄金の雨とは要するに光の雨なのだから、日光感精譚の形がそこにある。ダナエが光の雨を浴びるシーンは古来、多くの絵画作品のテーマとされてきたが、その最高傑作はオーストリアの分離派画家、グスタフ・クリムトが1907〜1908年に完成させた『ダナエ』だろう。全裸の豊満な肉体を惜しげもなくさらしつつ、絶頂の恍惚の表情を浮かべながらゼウスを受け入れるダナエのその股間には、そこに降り注ぐ光の雨が、無数の黄金の粒子のごとくに描かれている(写真76)。
 
写真76 クリムト『ダナエ』
 それは、まったく光の力による受胎の瞬間にほかならない。クリムトの得意とするきらびやかな金彩の表現は、日本の屏風絵などからの影響下にあるといわれており[千足,2013:p.62]、いわば彼は世紀末ウィーンにおける琳派だったのだ。
次にはオセアニア地方の伝説事例として、トンガの「太陽の子」の話を取り上げてみよう。長い話なので、少しかいつまんで話の前半部分のみを、以下に引用してみる。

昔、トンガの島に偉い王がいた。娘が一人あって、うっとりするほど美しかったので、王はみんなの目から娘を隠した。だれも、娘を見ることは許されなかった。(中略)王は、だれも通れないほどじょうぶで高い、大きな柵を造らせた。その柵は、島の海岸沿いに広く張りめぐらされ、深い海の中まではいっていた。ここで王女は毎日、海水浴をした。(中略)ある日、空に輝く偉大な太陽神が、ぐうぜん、トンガの柵の後ろをのぞいた。たいそう美しい王女が見え、太陽神は彼女に恋いこがれた。王女はその愛にこたえたので、二人は夫婦のようになった。やがて彼女は息子を生み、“太陽の子”と名づけた。“太陽の子”は成長して、美しいがっしりした若者になった。(中略)あるとき、少年たちは大きな広場で遊んでいた。(中略)「きみはいったいだれなんだ?」「僕は王の孫さ」と、“太陽の子”はいばって答えた。「そして、僕のお母さんは王女なんだぞ」「それいいが」と、子供たちは言った。「お父さんはだれだい?僕たちはみんな、お父さんがいるけど、きみにはいないじゃないか」。“太陽の子”は一瞬立ちすくんだ。(中略)王子はかん高い叫び声をあげて、きびすをめぐらし、家に走って帰った。「お母さん」(中略)「太陽の子よ、どうしたの?」「僕にはお父さんがいないって、子供たちが言うんだ。僕のお父さんがだれか、教えてよ」。(中略)王女は息子の顔を両手ではさんだ。「まあ、おまえ。そんなに泣く人がありますか!(中略)おまえは太陽神の息子なのよ。太陽がおまえのお父さんなの」。そう聞くと、“太陽の子”の顔には微笑が浮かんだ。(中略)“太陽の子”は王女のひざからすべりおりた。「ごきげんよう、お母さん。僕はお父さんのところへ行くよ」。そう言うと、くるりと向こうを向いて、家から出ていった。(中略)“太陽の子”は森を横切って、自分のボートがおいてある浜辺へ行った。(中略)潮が満ちてきたときに、ボートを水の中へおしだした。風に乗って、ボートは東へ進んだ。早朝のことであった。太陽が空高く昇った。お昼ごろ、太陽はボートの真上にきた。“太陽の子”は頭をあげて叫んだ。「お父さん、僕の声が聞こえる?」[関,1980:pp.126-131]。

こうして太陽の子は、海の上でついに父である太陽神と言葉をかわし、太陽神の妹である月の女神にも会うことができた。しかし、最後には哀れにも鮫に食われて命を落すという彼の悲しい結末については、ここではくわしく触れずにおこう。
このトンガの伝説事例の場合、太陽の子の母親が、いかにして太陽神と交わったかということが語られていないし、日光を浴びて妊娠したともされていない。とはいえ、物語のパターンはまったくもって日光感精譚の形を取っているのだから、その一例であるとみなしてさしつかえはない。女性がその父親によって柵の中に閉じ込められるというくだりなどは、多くの日光感精神話事例と共通しており、ギリシャのダナエが地下室の中に幽閉されることとそれは同じだ。いかに厳重に娘を閉じ込め、男たちに触れさせぬようにしたところで、太陽神は自らを光に変えてそこに忍び込むことができる。そうして女性は父親の知らぬところで、太陽の子をわが身に宿すことになるのだ。
以上、ヨーロッパ地域とオセアニア地域の代表例を紹介してみたが、次に触れてみなければならないのは当然、アジア地域の諸事例だろう。日光感精型の神話・伝説の地理的な分布状況を世界的な視野からながめてみた時、そのもっとも顕著な伝承地域は、実はこの東アジア世界ではなかったろうかと、私には思える。それは東洋各地の古代王権起源神話とも深く結びつきながら、大変古い時代から絶えず語られ続けてきたのであって、私たちはそこでの多くの事例をすでに知っている。中でも朝鮮半島地域は、その重要な伝承の中心地だったのではないかと推察され、たとえば古代朝鮮を例に取ると、『旧三国史』逸文に高句麗王朝の遠祖とされる天王郎の物語が出ている。天王郎は別名を解慕漱(かいぼそう)ともいったが、天王郎というその名から知れるように彼は天帝の子で、河伯(川の神)の娘である柳花と結婚する。しかし、河伯は二人が結婚すれば、天王郎は妻となったわが娘を連れて天界へ去ってしまうのではないかと心配し、夫婦を革の輿に閉じ込めてしまう。天王郎は何とかそこから脱出して天に昇るのだが、あとに残された柳花は太陽の光を浴びて身ごもり、朱蒙(しゅもう)という子を産む。その朱蒙は、長じて高句麗王朝の始祖、東明聖王(在位B.C.37〜19)となったとされているのだ[大林,1991:pp.111-112]。ところで、高句麗の遠祖にはもう一人、金蛙(きんあ)という人物がいたのだが、彼は朱蒙の母である柳花と出会った時、彼女から次のような話を聞いたという。『三国史記』の高句麗本紀に記されているその話を、以下に引用してみよう。

私は河神の娘で、柳花といいます。弟たちと外出して遊んでいると、一人の男子に会いました。[この人は]自分で天帝の子の解慕漱であるといい、私を熊心山の麓の鴨緑[江]のほとりの家に誘いこんで愛しあったが、[その後、どこかに]いき、帰ってきません。(中略)金蛙はこの話を不思議に思い、この娘をその家の中に閉じ込めたところ、日の光が[この娘を]照らした。[娘が]身をひいて避けると、日の光はまた娘を追って照らした。このようにして[娘は]娠(みごも)り、[やがて]五升も入るほどの大卵を生んだ。(中略)[やがて]一人の男の子が殻を破って生れてきた[金(井上訳注),1983:pp.4-5]。

こうして生まれてきたその子が朱蒙で、のちに東明聖王となるわけだ。ここには女性が太陽の光を浴びて子をはらんだとする典型的な日光感精神話型の話とともに、人間が卵を産み、その卵から王者となる運命の男子が生まれてくるという、これまた何とも不思議な話もあわせて語られているが、そのような話を「卵生神話」とも呼ぶ。朝鮮の王権伝承には、この卵生神話がよくみられ、たとえば新羅の初祖、赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん・在位B.C.57〜A.D.4)は山中に産み落とされていた大きな卵から生まれたとされている。卵の中から出てきた赤子は聡明な子供に育ち、皆が彼をあがめて君主に擁立したいう[同,1980:p.4]。さらに、新羅の第4代国王、脱解尼師今(だっかいにしきん・在位A.D.57〜80)もまた卵生の王とされており、彼の母親は妊娠して7年経った後、大きな卵を産んで、その卵の中から彼が出生したと伝えられている[同,1980:p.15]。
卵生神話は南方諸民族の神話に多く、朝鮮の事例はその北限であるのに対し、日光感精神話は北方諸民族に多い、したがったここでの朱蒙の生誕をめぐる物語は、南方・北方の両系複合形態であると、時には解釈されてきた[同,1983:p.25]。両者の分布状況は、実際には必ずしも、それほど南北にきれいに分れるものとはいえないけれども、ここでは深くは立ち入らない。それはそれで、ひとますはよいとして、ここで重要なのは日光感精の方の話なのだから、これについてもう少し検討をくわえてみることにしよう。柳花を追うようにして彼女にふりそそいだ太陽の光は、実をいえば天上にいる天王郎(解慕漱)より発せられたのだろうということは、上記の引用からもすでに明らかなことで、天王郎は自らを日の光に変身させて、彼女の胎内に入ったと考えてまちがいはない。天王郎とは日の御子のことなのであるし、解慕漱の「解」の字も太陽をあらわすものなのだともいう。柳花はその太陽の子の子孫を、おのれの身に宿したのであって、その子はやがて文武にひいでた超人的な才能を発揮し、王となるにふさわしい人物として成長し、幾多の逆境をもはねのけつつ、ついには王権を樹立するに至る。この地域の支配者となった偉大なる王たちは、自らを天帝あるいは太陽神の申し子であることを名乗り、ゆえに人間としての通常の生れ方をせず、時には卵生の出自を語り、時には太陽のパワーを宿した母胎の中からの出生を語りつつ、その王権の正統性と神聖性とを補強してきたということなのだろう。韓国の慶州市の郊外には、これら歴代の新羅王の王墓が今も残されており、偉大なる王たちがそこに眠っている(写真77)。
 
写真77 新羅の王墓(大韓民国慶州市)
なお、新羅の日光感精神話は、何と日本の『古事記』にも記載されており、新羅のある国王の子であったアメノヒボコ(天之日矛)の物語として、それが述べられている。わかりやすく現代語訳文でそれも紹介してみよう。

新羅の国に一つの沼があって、名を阿具奴摩(あぐぬま)と言う。ある時、この沼の岸辺で、一人の賤しい女が昼寝をしていた。すると日の光が、虹のようにその女の陰処(ほと)に射した。これをまたある賤しい男が見て、不思議なこともあるものだと思い、その後、折につけて女の様子をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時以来、身重になり、ついに赤い玉を生んだ。この次代を見張っていた賤しい男は、その玉を貰い受けて、いつも大事に包んで腰にぶら下げていた。この男は山の谷間に田を作っていたから、耕作に使っている百姓たちのために、飲物や食物を牛の背に乗せて、谷へと運んで行った。すると山の中で、国王の子のアメノヒボコに出会った。ヒボコがその男に尋ねるには、「どうしてお前は、飲物や食物を牛の背アメノヒボコに乗せて、谷の中なんかに運んでいるのだ?。お前はきっと、この牛を殺して食うつもりなのだろう?」。このように言って、その男を捕えて牢屋に入れようとした。そこでその男が答えるには、「私は決して、牛を殺そうとしているわけではございません。ただ百姓たちに食物を持って行くだけでございます。」こう言って弁解した。しかしそれでも聞き入れてもらえそうになかったから、腰に下げた玉を解いて、これを国王の子にまいないした。アメノヒボコはそこで賤しい男を許してやり、玉を持ち帰って、床のあたりに飾っておくと、その玉がいつのまにかうるわしい乙女になった。そしてこの乙女と一緒に寝て、これを正妻に迎えた。ところでこの乙女は、つね日頃、数々の珍しい料理を作って、その夫に進めた。しかしあまりにまめまめしくかしずくので、国王の子はいつのまにか増長して、妻を罵った。するとこの女が言うには、「だいたい私は、あなたの妻になるはずの女ではございません。私は日の光から生れたのですから、私の妣(はは)の国へ参りましょう。」こう言って、こっそり小さな船に乗り、海を渡って逃げた[福永(訳),1980:p.237]。

ここには日光感精神話と卵生神話とが結びついた、典型的な朝鮮半島型の伝承話が記されているけれども、日の光を浴びて妊娠した女性が産んだのは、卵ではなく赤い玉であったという形に変わっている。とはいえ、そこから美女が生まれてきたというのだから、それは基本的に卵のようなものだったわけで、卵か玉かといった違いはあまり重要ではない。国王の息子の妻となったその乙女は、自らを日の光を浴びて生まれた太陽の子であるといい、ために天上界へ帰ろうとする点などは、先の天王郎の話やトンガの伝説にも通じるものがある。しかしながら、どういうわけか女の逃げた先は天上ではなく、海の向こうの日本の難波地方なのだったと『古事記』は述べており、彼女はその後、阿加流比売(あかるひめ)という神になって、難波の比売碁曽社(ひめごそのやしろ)におさまることになったというのだ。そして、アメノヒボコもまた彼女を追って海を渡り、日本にまでやってきたのが、難波へは到達できず、多遅摩(たじま)にとどまることとなったと、記されている。
なお、このアメノヒボコの物語に関連して思い起こされるのは、三輪山の神である大物主神(おおものぬしのかみ)が丹塗りの矢に変身して、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という乙女を孕ませたという、やはり『古事記』の中に語られた別の話だろう。この乙女は大変な美女だったので大物主の恋い慕うところとなった。彼は自分の身を丹塗りの矢に変えてひそみ、彼女が厠に入ったところを狙って、彼女の陰処を下から突き刺し、妊娠させたという。そのようにして、神は自らを日の光や矢に変身させ、女性を孕ませようとするのであって、ひとつの共通性をそこに見い出すことができる。かつて柳田国男が、「稲妻の名を以って呼ばるる電光の形から、これを太陽がこの世に通はうとする姿と考えるに至ったので、或は黄金の箭とか丹塗りの矢によそへたこともあったが、(中略)即ち人界に一人の優れたたる児を儲けんが為、天の大神を父とし、人間の最とも清き女性を母とした一個の神子を、この世に留めようが為であったらしいのである」と指摘したのは、まさにこれのことなのだった[柳田,1973:pp.42-43]。
話を朝鮮に戻してみよう。朝鮮半島における日光感精神話が、海を越えた日本の記紀神話の中にまで記録されていた事実がよく示すように、この種の物語の伝承地として、この地域がいかに中心的な位置を占めていたかということが、あらためて再認識されることだろう。日本神話は実は、朝鮮神話から多くの影響力を受けつつ成り立っているのであって、さまざまな面にそれが認められるし、その痕跡は豊富に残されている。神話学舎の大林太良氏は、「日本の神話のうち、その王権の神聖性と由来を語る神話が、朝鮮神話、ことに扶余・高句麗系の神話と著しい類似性をもっている。これは古代日本の支配者文化の系統を示唆しているのである」とまで語っておられる[大林,1991:p.121]。
 朝鮮における日光感精の物語は、近代期の朝鮮において採集された民間の伝説事例の中にも登場する。戦前の1920年代に朝鮮の民間伝承をくわしく採集された孫晋泰氏が、1930年に日本で出版した『朝鮮民譚家』には、次のような話が収録されている。

昔、某政丞の息子が嫁を娶ったが、新婚当夜の夜中に嫁が赤ん坊を産んだので、彼は自分で之を産婆し、赤坊を布帛に包んで密かに門前に置いたのち家人たちを呼び起して「門前に赤坊の泣き声が聞えるが多分捨て子であらう。早く取って参れ」と言ひ付けた。斯くして子供は母の手に依って育てられたが、それから彼は決して妻に対して口をきかなかった。彼は後日父の如く一国の政丞となり、高齢の時隠居した。けれども何時も初夜の出来事が彼の頭を悩まして已まないので、始めて妻を呼び出し、その訣を聞いた。すると妻は斯ういふことを物語った。「妾は娘の時、常に家の後園で小便をしました。その小便をした処には、常に日光が射してゐました。それが面白さに何時も同じ場所に放尿をした外、決して他の男子と接したことは御座いませぬ」と。それから間もなく彼は死んだが、その子は後日非常に偉い者になったと云ふ[孫,2009:p.107]。
この話は、戦後になって刊行された同氏の『朝鮮の民話』にも再録されている[孫,1966:pp.86-87]。孫氏は戦前の朝鮮を代表するすぐれた民俗学者であったが、のちに北朝鮮で身柄を拉致されたらしく、消息を絶ってしまうに至る。あまりにも卑劣な、かの独裁政権の手による拉致テロは、今に始まったことではなかったのだ。
 さて、ここで、日本版の日光感精神話の諸事例についても、少し見てみることにしよう。『古事記』などに記された神話物語とは別に、日光感精型の説話伝承は、民間の伝説事例の中にも見い出されるのだが、その最大の伝承地は南島の奄美諸島地域であったと思われる。当地に伝わるこのタイプの昔話事例を数多く採集し、深く分析されたのは山下欣一氏だった[山下,1974;1975ab]。同氏は主として奄美地方の昔話事例や民間巫術者であるユタの呪詞の中に語られた、日光感精型の物語を多く集めておられるのだが、参考までにここでは1例だけ、喜界島の事例を引用しておこう。

 機織りばかりしていて、外へ出たことのない女が突然妊娠したと評判になる。生まれた子供は男の子で外へ遊びに行くと父無し子と友だちから笑われる。男の子が七才のとき、機織りしている母親に父をたずね、お前の父は天の神様だと教えられる。(中略)天の神様、自分を助けようと思われるなら鉄綱を、助けたくなかったら藁縄を下してくださいと願う。鉄の綱が音をたてて下ってくる。その鉄の綱を伝って天にのぼる。天の番兵の神様が首領の神様に人間の子がのぼってきたと報告する。ここは人間の子がのぼってくる場所ではない、三十三ひろの川に押しこめということで、川に押しこもうとするが、あの岸、この岸にとび移って押し込めない。次に暴れ馬にかませたり、けらせたりしたが、その子供のそばに行くと暴れ馬がおとなしくなる。(中略)天の神様は、爪を合わせて自分の子として認める。子供は天にいたいと言うが、天の神様は、お前は人間を助けるために人間の世界に帰り、ウリズム(若夏)の作物の供物を人々からいただいて生きていくのだと言う。このためにお双紙を勉強させ、人間の世界に子どもは下る。下ってくる途中お双紙を落す。牛がのみこみ、子供のおはらいで牛がはき出す。このため牛の胃をソウシワタ(第一胃のこと)という[山下,1974;pp.49-50]。
太陽神としての天の神様の子をはらむのは、機織りばかりしていて外へ出たことのない女性だったとあるのは、要するに閉じ込められた女のことを言っているわけで、ダナエやトンガの王女ともちろん同じだ。いっさい男と接しておらず、そのような機会さえ奪われている状態の女が妊娠したということを強調しているともいえるし、処女懐胎というその前提こそが、怖れ多き偉大なる神の子を孕むということの伏線となっている。とはいえ、日光を浴びて身ごもったのだということは、ここでも明確には語られていない。しかし、奄美地方のほかの諸事例では、「女が川のほとりで洗濯をしている時、日の光を浴びて足がだるくなった」とか、「テダガナシ(太陽の尊称)に手を刺されて失神した」とかの説明がなされており、日光感精譚の原型はそこに保たれている。生まれてきた太陽の子が、他の子供らから父無し子とさげすまされたこと、そこで母にたずねて自分の父親は太陽なのだと教えられたこと、そして父親の住む世界へと旅立っていくこと。これらのストーリー展開は先のトンガの事例とほとんど変わらず、この話は朝鮮半島型というよりはオセアニア型とでも呼ぶべきで、明らかに南方世界の伝承と深く関連しつつ、そこからの強い影響下に置かれたものであることに疑いはないだろう。
奄美諸島の日光感精譚を採集された山下欣一氏は、これら一連の諸事例につらぬかれている物語の要点を、@日光感精出産、A父を知り天に昇る、B天上での試練(日輪の子としての認知)、C天上での修行、D地上への降下、E由来譚(双紙・ユタ・トキ)の6点に整理しておられるが[山下,1974;p.51]、少なくともその@〜Bの部分は、トンガの事例との共通要素として認めることができるのだ。
さて、今まで述べてきた日光感精神話の物語は、平安時代の高僧説話の中にまで見い出すことができるのだということを、最後に紹介してみることにしよう。ここにおいて、ようやく元三大師の名が登場することになるが、そこでの高僧伝の主人公は元三大師その人、すなわち慈恵大師良源のことなのだった。元三(慈恵)大師といえば言うまでもなく、第18代天台座主の座にあって比叡山の大改革を成し遂げ、延暦寺の中興の祖となったばかりか、宗祖伝教大師と並んで両大師とまで呼びならわされるまでになった高僧だ。それのみならず、彼は民間信仰の対象としても広く、そして深くあがめられ、その特異な御影像が角大師や豆大師の護符にまで描かれつつ、家々の門口を守護するようになったほか、百籤のおみくじの創始者とさえ位置づけられてきたのだった。元三大師をめぐる民間信仰の実態については、ここでも何度か取り上げてきたけれども[長沢,2012:pp.1-15・2013:pp.1-11]、まさに活仏と呼ぶにふさわしいほどの霊力の使い手とされてきたこの高僧に、いかにもふさわしい形で、不思議なその出生譚がやはり、語られてきたのだ。
 912年(延喜12年)9月3日に出生して、985年(寛和元年)1月3日に入滅するまでの、73年間におよぶ元三大師の一生涯を記録した正式な年代記は、もちろん『慈恵大僧正正伝』だ。それは大師没後46年目にあたる1031年(長元4年)に、藤原斉信によって著されたものなのだが、それによると大師は江州浅井郡の人で姓は木津氏、母は物部氏だとある。物部氏出身のその母親こそが、いわゆる月子姫で、元三大師の母としてその名が広く知られてきた。さらに、同書にある月子姫懐妊時の様子を述べたくだりを読むと、「夢坐海中向天上、日光遥来乍入懐中」と、明確に記されている。月子姫は霊夢の中で、海を眺めながら座していたが、ふと天上を見上げると太陽が彼女の身体を照らし、日の光がふところに差し込んできて、身ごもったというのだ。生まれてきたその男子(幼名を日吉丸といった)が、やがて偉大な高僧になるわけで、この元三大師もまた、実は太陽の子、日の御子なのだったということになる。
このように元三大師の出生譚はまさに、そのものずばりの太陽感精説話となっている。比叡山延暦寺でいとなまれる大師の供養講会の法式で、必ず読みあげられることになっている祈?文、『慈恵大師講式』にも、「感日輪於夢中、木津氏懐胎之初」といった文言が見られ、同じことがそこに述べられている。また、数ある元三大師和讃の中でももっとも古いものとされる証真作の『慈恵大師和讃』の文句に、「母儀祈請乃夢阿利弖、天都空乎仰豆豆、日光懐刀見玉比ニ岐」といった一節があることも、重要だろう[大島,1984;p.259]。ついでながら、真阿上人宗淵僧都の作と伝えられる、もう少しわかりやすい内容の、別の元三大師和讃の文句を次にあげてみよう。

母堂は子なきを憂(うれへ)てぞ、大吉寺(おほよしでら)の観音に
祷る瑞(しるし)の見にける、其夢こそは正しける
大海原の中に坐(い)て、高天原を膽仰(あふぎみ)つ
日光暉(くわがやき)乍(たちまち)に、懐(ふところ)さして入にける
然(しかれ)ば延喜十二年、九月三日の午の刻(とき)
生下(うまれたまへ)るその堂に、神霊異相の多りし[渡辺,1984;p.7]

元三大師の父は太陽神なのだからして、人間の父親は当然おらず、『慈恵大僧正正伝』を見ても父親の名はいっさい出てはこない。ところが後世になると、何と宇多法皇(上皇)の落胤として大師は出生したのだとの説が出てきて、諸書にそのことが記されるようになる。つまり月子姫が12歳の時、琵琶湖の竹生島に行幸した法皇の給仕に出されて目にとめられ、14歳で召されて、26歳で胤を宿したというのだ。
昭和の文豪、谷崎潤一郎はなぜかこの元三大師の母のことについて、非常な関心を示した人で、『乳野物語』という長いエッセイを残している[谷崎,1983]。彼は非常に冷静な立場に立ちながら、元三大師の宇多法皇落胤説を詳細に検討しており、明確な結論を下してはいないものの、よほどこの説への未練と執着とがあったようで、その裏付けとなりそうな例証をいくつかあげている。たとえば、数ある慈恵大師和讃の中には「その母公(ははぎみ)を尋ぬれば宇多の帝の妃にて、夢に日輪口に入り、胎より出づと見給へり」と述べるものがあるとか、清原良業の撰で鎌倉期に成った『和論語』という書の中に「宇多帝落腹ノ御子ナリ。江州浅井郡ニシテ養育ス。密カニ木津氏ト號ス。慈恵大師或ハ元三大師ト號ス」との記述があるとか、いろいろ指摘している[同:p.411]。さらに、近江の玉泉寺という寺に伝わる『浅井郡三河村慈恵大師縁起』の一節をも取り上げているのだが、これについてはそのままここに引用してみることにしよう。

御母は人王五十八世孝光天皇の上北面物部市左衛門少尉法興と申けり。于時仁和三年正月朔日に法興一人の女子をもうく。月子姫と名つけぬ。則是慈恵大師の御母也。此女子成仁に随ひて天下に無双美人たり。然に昌泰三年秋九月の比、月子女十四歳にてはしめて宇多帝に仕へ奉り、他に異に御なさけ深して胎孕の身と成らせ給ふ[同:pp.411-412]。

戦後の時代における比叡山延暦寺の大僧正で、天台座主をもつとめた山田恵諦師は、元三大師の大後輩にもあたる知識人だが、この人の著した元三大師伝記を読むと、日光感精説と法皇落胤説との双方が取り入れられており、それらのほどよい両立と調和とがはかられているようにも感じられる。それによると、大師の母である月子姫は近江国長浜の物部氏の娘で、豪族木津頼重のもとに身を寄せていた。12歳の時、宇多法皇が竹生島に行幸した際にその給仕役をつとめて見染められ、19歳の時に法皇のもとに出仕して寵愛を受けるようになった。彼女はやがて身ごもることになるが、近江国浅井郡の大吉寺で出産を待っていた時、日の光によって感精したという。その部分についてのみ、ここに引用してみよう。

娘が広々とした静かな海原にただ一人座していられたとき、ピカッと光がさしたのでハッとして天を仰がれたら、日輪がサアと降りて来て懐ろに飛び入ったので、アッと声立てて思わず胸を抱きしめられた。夢でありました。醒めて後も何となく心躍り、快いほのぼのとしたものが心身に残りつづけているのを感ぜられました。そうして、暁をつぐる鳥の音に目覚められた帝にそのことをそっと上奏せられますと、「日輪が懐ろに入るは、聖人がやどられた徴しと聞く。目出たいことだ。安らかに身二つにならねばならない」と仰せられて、姫に対する愛情がそのまま、やがて産れん御子のためにそそがれることとなり、表の沙汰にならないうちにとひそかに下向せられて来たのでありました。(中略)やがて十月(とつき)も満ちたと思われる日の明けがた、仰向けに休まれた胸を押し分けて、日輪が懐ろより飛びでて中天に輝き、暗き世を煌々と照し給う夢を見て、醒められると共に産気を催し、悩むこともなく安々と男子を出生遊ばされました。これぞ幾千年の後までも、迷える衆生に済度のみ手を垂れ給う、わが元三大師さまであります[山田,1959;pp.12-15]。

かくして両説はここに折衷され、比叡山の最高位の地位にある僧正ですら、その立場に立ちながら大師伝をまとめるようになり、折衷説はいまや完全に比叡山にも受け入れられ、公式な見解として語られるまでになったらしい。しかしながら、入滅直後の元三大師伝に宇多法皇のことなどはいっさい触れられていなかったのだし、それが後世に付会された俗説に過ぎないことは、あまりにも明らかなことだろう。元三大師の出生は、純然たる日光感精譚として本来、語られてきたものだったのだ。
わが国における高僧伝の特色として、「高僧の母」というものが非常に重要な存在となっているということは、よく指摘されてきたことだ。母親が霊夢の中で太陽・月・星などを呑み込んだり、仏や菩薩の示現にあずかったり、参籠中に神の声を聞いたり、瑞祥となる動植物を見たりして懐妊し、後に高僧となる男子を授かるという話は実に多い。一方、それに対して父親のことは、ほとんど語られることがなかった[大隅,1986;p.228]。高僧の母が経験するさまざまな奇跡のひとつに、月子姫の日光感精ということもあげられ、元三大師の出生譚は太古の昔にまでその淵源をさかのぼりうる、神話的創造力の中から生み出されたものなのだった。大師の生誕年である912年(延喜12年)は、『古事記』の成立年とされる712年(和銅3年)から数えて、ちょうど200年目にあたっている。

引用文献
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