西郊民俗談話会 

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連載 江戸東京歳時記をたずねて  6
   2017年10月号
長沢 利明
木場の角乗り
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(1)木場に伝えられた伝統芸

江東区の木場(きば)はいうまでもなく、かつての江戸東京における最大の木材の集積地、そして流通センターだった。木場は、1974年に東京湾岸の14号埋立地へと全面移転して、そこが今の新木場となり、元の木場は300年の歴史を閉じることとなった。その跡地には東京都立木場公園(江東区木場4丁目)が整備されているが、公園内の池の中で毎年10月第一土曜日に、木場の角乗りが披露されることになっており、例年多くの見物人らでにぎわう。木場の角乗りとは、かつて木場で働いていた人々が始めた余技としての伝統芸能で、水上に浮かべた角材の上に乗りながら、乗り手がさまざまな曲技を演ずる。まさに木場400年の歴史が生んだ、伝統の技といってよい。現在では、1952年(昭和27年)に結成された東京木場角乗保存会がその芸を継承しており、1952年には東京都の無形民俗文化財(民俗芸能)に、1981年には江東区の登録無形民俗文化財(同)に指定されている。
大観衆の見守る中、いなせな揃いの法被とねじり鉢巻き姿に身をかためた角乗保存会のメンバーらが、木場公園内の池畔に勢揃いし、さっそく水上に長さ5m・幅33p四方ほどの米マツの角材を浮かべて上に飛び乗り、妙技を披露する(写真46〜52)。

 
写真46 地乗り

 
写真47 相乗り

 
写真48 日傘乗り

 
写真49 蛙乗り

 
写真50 梯子乗り

 
写真51 戻り駕籠乗り

 
写真52 三方乗り
その技は15種類ほどあるといわれているが、まずはもっとも基本的な「@地乗り」から始まる。「さて、ます手始めは淀の川瀬の水車。首尾よく川なかばまでとりかかりますれば、最初は小手調べと致しまして、大波小波の打ち合わせ…」といった口上に合わせつつ、1本の角材の上に乗り手が立ち、長いタメ竿を水中に斜めにさしてバランスを取りながら、両足で角材をくるくると回す。回転する角材はバシャバシャと音と波とを立てながら、水車のように水面上で回る。掘割に浮かべる材木はかつて、手斧(ちょうな)で削って杣角(そまかく)と呼ばれる角材に加工されたが、その方が荷積みの際、余計に積めるのだという。ために木場で働く人々には、丸太乗りよりもずっとむずかしい角乗りの技術が要求された。角材は決して平面を上にして水面に浮かばないそうで、必ず角が上になるという。その角に足の爪先を引っ掛け、材木の回転を押さえて立つことを「ためる」といい、それは角乗りのもっとも基本的な技術で、「膝を曲げて腰を利かせる」のがコツだというが、これを習得するのに1年はかかるのだそうだ[読売新聞社(編),1992b]。水上で角材を「ためる」ことができるようになれば、次にこの「地乗り」をマスターすることになるが、角乗りのさまざまな技のヴァリエーションの中から見れば、まだまだそれはほんの入口に過ぎない。
「地乗り」を角材上で2人乗りになっておこなうのが、次の「A相乗り」だ。「B手放し乗り」はタメ竿を用いず、足だけでバランスを取る。角材上で逆立ちをする「B金のシャチホコ」、2人同時にそれをおこなう「C向かい獅子(寿獅子乗りともいう)」という技もある。手に扇子を持って乗る「D扇子乗り」、下駄を履いて乗る「E駒下駄乗り」、足駄を履いた「F足駄乗り」、手拭の目隠しをしておこなう「G目隠し乗り」、傘をさしながらの「H日傘乗り(唐傘乗りともいう)」、両手両足をついて四つん這いで角材を回す「I蛙乗り」などというものもあるが、それらが一通り済むと、もっとむずかしい技へと進んでいく。子供を肩車しながら乗る「J川蝉(かわせみ)乗り」の場合、かつては子供が肩の上から水中に跳び込むのが見せ場だったというが、1965年頃に堀割の水質悪化が進んだため、おこなわれなくなったという[読売新聞社(編),1992b]。角乗りの演技中は、岸の上で囃子連が景気の良い「葛西囃子」を演奏しているが、技がより高度なものになっていくにつれ、囃子のテンポも速くなっていき、おおいに気分を盛り上げる。
最高難度の技のひとつは、「K梯子乗り」だ。角材の上に垂直に立てた梯子の上に登った乗り手が、そこでポーズを取って見せる。火消し組が出初式で演ずる梯子乗りの、これは水上版だ。さらに「L一本乗り」では、やはり角材上に一本棒を立て、そのてっぺんにある紐に足を掛け、いろいろな姿勢を取ってみせる。「M戻り駕籠乗り(駕籠かきともいう)」では、2本の角材上に立った2人の乗り手が駕籠を担いでみせる。もっとすごいのは「N三方乗り」で、角材の上にいくつもの三方を積み上げて、その上に立ってみせるというものだ[佐藤,1988:pp.12-13]。ここまで演じてくると観衆の大歓声も最高潮に達するが、時には技を失敗して、ドボンと水中に落ちる乗り手もおり、それもまた御愛嬌というもので、笑いと拍手を誘う。毎年10月におこなわれる木場の角乗りの一般披露は、以前は東京都主催の「ふるさと東京まつり」の一環として、あるいは江東区の文化財保護強調月間・区民祭りの催しのひとつとして、豊住橋下の仙台堀公園の一角、新十間川親水公園でおこなわれていた[読売新聞社(編),1986]。しかし、都立木場公園の整備された1992年、公園内に角乗り専用の池が設けられるようになり、多くの観客がそれを観覧できるようになった[内橋,2008・読売新聞社(編),2008]。


(2)木場の歴史と川並

ここで木場の歴史について、簡単に見ておこう。徳川家康の入府以降、江戸の町の建設作業は急ピッチで進み、大量の木材が必要となった。紀伊・尾張・三河・遠江・駿河など、各地から江戸に集められた材木業者たちは当初、神田や日本橋(材木町)などに分散して貯木場を持っていたが、幕府の指示でそれらが現在の江東区内に集中させられることになったのは、1641年(寛永18年)の大火以降のことで、防災上の安全策が取られた結果だった。こうしてできたのが最初の木場で、俗に元木場と呼ばれていたが、佐賀・福住あたりにあった永代島にそれが設けられ、元木場材木町という町名がそこから生まれた。1701年(元禄14年)、それが今の木場に移され、そこが木材流通の中心地となっていった。周辺の富岡・冬木・深川・平野などには、数多くの木材問屋・倉庫業者・製材屋などが集中し、木場千軒とまでいわれたのだった。紀伊国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門・冬木喜平治らの豪商たちも、ここ木場を舞台に活躍したことが知られている。しかし、その木場も昭和時代に入った第二次大戦後、周辺の都市化や地盤沈下、さらには交通渋滞や騒音公害などの諸問題を抱えるようになり、湾岸の新木場へと全面移転することとなったのだ[江東区総務部広報課(編),1979:pp.18-19・1983:pp.13-20]。
ところで、この木場で江戸時代以来、貯木作業や材木の水上運搬に従事してきた職人たちのことを「川並(かわなみ)」と呼ぶ。木場の角乗りの妙技は実は、この木場の川並たちの間でおこなわれていた遊戯から生み出されてきたものだ。角乗りは「木場で働く筏師が始めた余技」であると紹介されることがよくあるが[読売新聞社(編),2004:p.1・遠山,2011]、角乗りを始めたのは川並たちであって、筏師ではない。川並と筏師は違う。貯木場に浮かぶ材木を鳶口で引っ掛けてあやつり、木場から納入先へと水路をつたって運搬するのが川並、山から切り出された材木を筏に組み、川の上流から下流へと運ぶのが筏師だ[江東区総務部広報課(編),1979:pp.13-14]。かつての川並たちの暮らしぶりを、聞き書き記録から引用してみよう。

「前の晩、まくら元に親方から親へのお土産の白砂糖三斤(一・八キロ)と、仕着せのもめん着物、角帯、足袋をそろえておくんです」。木場の川並だった小安四郎さん(八八)が大正二年、奉公に出た時の「薮入り」の思い出話だ。「初めての休み。家に帰れる。うれしくって眠れませんでした。真っ暗な四時に店を出て月島の家まで歩きました」。(中略)薮入りは、正月と盆の休みに奉公人が実家へ帰ることだ。当時十歳。四年制の尋常小学校を一年残していたので、夜学に通いながら働いた。休日は薮入りの二日だけ。(中略)籐(とう)で縄をない、木材問屋に納めるのが家業とあって、川並は、なじみ深い仕事だった。黒い股引に腹掛け、木綿のはんてん、足にはわらじ。股引はかかとを通すのに、竹皮を当てて滑らせなければはけないほどきつく、ぬれても水をほとんど含まない。「水に落っこって、仕事を覚えていくんです」。小安さんも、最初はしょちゅう材木から落ちた。作業は、暑い夏だと午後二時すぎから夜七時くらいまで、冬は朝八時から夕方四時ごろまで。七、八人が一組になって進めた。「冬はつらい。寒いたって、今とは違う。堀にスケート出来るほど厚い氷が張ったんですから」。朝、氷を割るのが一仕事。午後三時には割った氷がまた凍った。(中略)棒墨に三味線糸で柄をくくり、腰に差す。それで木に大きさなんかを書きました。そうした川並は、昭和三十年代から四十年代初めの全盛期、木場全体で千人はいただろう。しかし、「仕事はこのところ、最盛期の数十分の一.人数も七十人ぐらいに減った」と小安さんはいう。機械化や扱い量の減少。昔は仕事内容が異なった筏師と、同一視されるようにもなった。もうじき卒寿の現在も、伝統の保存に心を砕く元川並[読売新聞社(編),1992a]。

これは1903年(明治36年)に月島で生まれ、1913年(大正2年)に木場で川並になった小安四郎氏からの聞き書き記録だ。同氏は木場の川並の第一人者そして最長老だった。最盛期には1000人もいたという木場の川並たちは、独特な徒弟制度を維持しつつ、ほかの職人社会にはあまり見られない、独自な伝統芸能を伝えてきた。もちろん、角乗りもそのひとつなのだが、それ以外にもいろいろある。たとえば「木場の木遣」というものがあり、一種の労働歌なのだったが、鳶職人や火消組の歌う木遣とはかなり趣を異にするものがあって、貴重なものだ[江東区総務部広報課(編),1987a:pp.161-162]。さらに、「木場の木遣念仏」というものもあり、木遣の影響を受けた独特の念仏唄が伝えられており、これらは現在、いずれも江東区指定の登録無形民俗文化財となっている。
木場の川並たちは、貯木場に浮かぶ材木の上を身軽に動き回り、鳶口一本で材木を動かしてきた専門家たちであったから、角材の上での動作に慣れており、さまざまな曲芸や軽業などを余芸としておこなうようになった。その技はしだいに洗練されたものとなり、高度化していって、江戸時代末期には、両国の浜町河岸などでそれを人に見せるようになり、年中行事化していったらしい。寺院の出開帳などに呼ばれ、余興として演じられることすらあった。明治時代に入ると、毎年新暦7月14日に日を定めておこなわれるようになったが、それはこれから迎える台風シーズンを前に、水防訓練として実施されたのであって、水上警察署長の臨席をあおいで、水防組に所属する若者らが、その妙技を見せた。つまり、川並たちは水防組の中に組織的に組み込まれていったことになる。


(3)江戸時代の角乗り

 木場の角乗りが一体、江戸時代のいつ頃から始まったのかはよくわかっていないが、1600年(慶長5年)に多摩川の六郷橋を架け替えた時に、それが上演されたと伝えられている[江東区総務部広報課(編),1987c:p.239]。それが事実だったとするなら、角乗りの歴史は思いのほか古くにさかのぼり、早い段階でその芸能化を完成させ、人に見せるものになっていたらしいということになる。寺門静軒の『江戸繁昌記』は、漢文で記された江戸の名物記で、1832年(天保3年)に出版されているが、その中に「角乗」という一項があるのは意外だ。大変難解な読み下し文なのだが、一部をここに引用してみよう。

伎極て危険、然も未だ曽って其の左股を夷(やぶ)り、右肱を折るを見ず。所謂る「氏iあやぶ)めば咎朦无き者」一面の水戯場、忽ち看る、一材木を鉤し出すを。伎丁突如、屐(げき)を着て木に乗る、棹を操って?(さき)へ出す。遂に屐歯を用ひて材角を斡転す。転々幹し得て、波を揚ること漣如たり。往くを陽波と謂ひ、来るを陰波と謂ふ。大往き小来る。材木は則ち直方大、屐歯は則ち跛(あしなえ)能く履む。大川を渉るに利(よろ)し、木道乃ち行はる。既にして梯子を木上に竪つ。一浮一沈水に随って上下す。其の象船に檣を建るに似たり。丁便ち上行す。貞なれば吉にして階に升(のぼ)る。之を履むこと錯然たり、観者?音若(てきじゃく)、棟方に撓まんと欲す。遂に其の角に晋み、身を把って平かに伏し、腹角と垢(つけ)ば則ち四足並びに開く。(中略)旋々足を闔(ひら)いて直立し、四顧手を額にし、遠望の状を為す。虎視眈々、臀株木に困(くるし)まず。乃ち一階を降って、手足復た開き、変じて大字の形を作す。大字の義も亦大いなる哉。又復た伏し、身を翻して趾を顛にす。象に曰はく、金魚尾を倒にす。却って校を履んで趾を滅し、遂に身を前に抛(なげう)つ。(中略)忽ち身を反して後に倒(さかざま)なり。其の他数伎、或は大石を扛(あ)げ、或は肩輿(けんよ)を舁し、益々奇にして益々危し。今其の都下に鳴る、止(た)だ雷の百里に震するのみならず、観る者八卦より来る(以下略)。

角乗りはきわめて危なっかしい技だ、実にいろいろな技があるのだが、足駄を履いて角材に乗るという技は今も見られる。特に見事なのは「梯子乗り」だといっているのも、興味深い。乗り手は角材の上に立てた梯子を登り、そのてっぺんで遠くを眺めるポーズを取ったかと思うと、身を水平に横たえて両手両足を開いて大の字になったりする。逆立ちをして金のシャチホコの型を見せたり、肩車をしたりといった技をも含め、今見る基本的な技は大体、ここに記されていることがわかるが、大石を担ぎ挙げるというのは今はなく、かなりの荒技が江戸時代にはおこなわれていたらしい。
かくして角乗りは見世物としておこなわれるようになっていき、木戸銭を取っての興行までもがさかんになされるまでになった。川並たちは各地によばれて、観客の前でその技を上演するようになった。現在の新宿区の熊野十二社(十二双)でも、その興業はなされていた。十二社の境内にはかつて、大池と呼ばれた大きな池があって、水遊びの地でもあったというが、その池に材木を浮かべて角乗りの興行がなされていたことは、『十方庵遊歴雑記』にも次のように記されている。
十弐双の社地閑寂にして廣き池あり。平山あり。玉河の余水の清泉などある上に、件の池に帆上し船を作りたるものにして浮べ、角木を弐三本流して置、時々裸身にて立出、右の角木へ乗りて角を踏と、その儘くるくると兩足にて廻しながら池中を乗めぐり、或はいさヽの輕業の眞似などする故、是を見んと罷る人夥し。彼深川木場邊にては常に戯れにして、皆人めづらしからねど、深川遠き四谷邊にては見ぬ事なれば、取々に評判して角木乗を見に行人多し。
著者である大淨敬順が十二社でそれを見たのは、1820年(文政3年)頃のことだったらしいが、ここでは角乗りのことを「角木乗り」と記している。十二社の大池でなされていた角乗りのことは、1931年に刊行された『東京淀橋誌考』にも記録されているが、これも以下に引用してみよう。

もと大池にては水游をも許したるよし、又往時は此の池に於て大仕掛の演藝も興業されたること、先年雑誌『中央公論』に見えたり。(中略)筏乗とは、池中に小形の筏を浮かべ、演者其上に乗り筏の角を踏むや、くるりくるりと兩足で巧みに筏を旋轉しながら、池中を乗廻はすの曲をいふのである。『攝陽年鑑』延享四年の條に、道頓堀にて筏曲乗大當りとあるが、恐らく文籍に見えた始めであらう。江戸では是を角乗りと呼んで、本所深川邊の船頭や材木屋の若者などは、日常角乗りを戯れとしてゐたので、江東の人々には珍らしくも無かったのである。然るに文政三年の春から、角筈の熊野十二社權現開帳の時に、社内の池で角乗を見世物としたが、『雑談日記』文政三辰年夏流言七言律詩中に、本所の材乗山手に見ゆとのやうに、山の手の人々は終ぞ見た事もないので、取り取りに評判して、日々見物群集したのである。權現社内角乗の光景は、「遊歴雑記」や「江戸繁昌記」に據ると、權現社内の池にては大きな帆掛船の造り物があって、其の附近に角材二三本を浮かべ、演者は裸で足駄を履き、船から身を跳らせて、角材に飛乗るのである。そこで足駄の齒で角材を踏み、水車のやうに廻すのが前藝である。次に角材の上に梯子を橋のやうに立て、演者は梯子の頂上に乗り、一本足で四方眺望の状をなし、或は右手を梯子にからませて、大の字の形をなすかと思へば、忽ち身を翻して鯱立ちなどの輕業を演じたのである。其の後大阪では文政七年と同十二年とに、難波新地で海人筏乗と號けて見せ、又江戸では天保九年閏四月に、回向院境内で角乗を興業したが孰れも不評だったので、續いて興業する者もなく、何時しか廢絶して了った[武蔵郷土史料学会(編),1931:pp.527-528]。

これによると、角乗りは江戸だけでなく、大坂の難波新地や道頓堀などでもおこなわれており、そちらでは角乗りとはいわず、「筏乗り」と呼ばれていた。道頓堀のそれについては1747年(延享4年)に、すでに興行がおこなわれていた旨のことが『攝陽年鑑』に記されているので、それが最古の記録であったらしいともある。難波新地では、1824年(文政7年)・1829年(同12年)にも興行がなされている。江戸での場合、本所・深川周辺の川並たちが日常的に角乗りをやっており、江東地域の人々の間では、何ら珍しいものではなかった。新宿角筈の熊野十二社の場合、1820年(文政3年)以降、角乗りの興行がなされてきたが、足駄乗りや梯子乗りなどの技を見せたという。1838年(天保9年)には本所の回向院で興行がおこなわれたものの、大変に不人気で、以後は廃れていったとも述べられている。かくして、見世物としての角乗りの興行は、しだいに下火になっていったらしい。


(4)明治時代の角乗り

さて、引き続く明治時代には興行という形をあまり取らず、橋の開通式とか軍艦の進水式などの場で、祝賀ムードを盛り上げるための余興として、木場の川並たちが各地に招かれ、角乗りを上演して見せることがさかんになされるようになった。たとえば神奈川県横須賀の海軍基地で軍艦の進水式に、明治天皇の天覧のもと、海上でその上演がなされたことがあったといい、横浜港の開港記念日の式典などでもそれがおこなわれたという。1879年(明治12年)に、アメリカ合衆国のグラント将軍が来朝した際には、上野の不忍池で角乗りが披露されたという。両国橋や千住大橋の開通記念式典では、隅田川での上演がなされたが、隅田川汽船株式会社の肝煎りで、白髭橋の所でもやったことがあると、川並の長老たちは語っている。要請があれば、川並たちはどこにでも角材を筏に組んで運んでいき、そこで角乗りを演じて見せたものだという。なお、その頃、名古屋などでは角乗りではなく、丸太乗りという伝統芸も見られたというが[江東区総務部広報課(編),1979a:p.239]、くわしいことはわかっていない。
ところで、明治時代の角乗りといえば先述の通り、木場の川並たちが水防組の組織に組み入れられ、水防組の年間行事のひとつとして、それがおこなわれるようになったことが特筆されよう。風水害・震災・大火などの大災害の発生時には、川に流される被災者らを救出しなければならないし、流出する大量の瓦礫や材木を除去し、操作するための防災専門家たちの技が必要となる。そこに木場の川並たちの活躍の場があったわけで、水上消防組としての防災組織、すなわち水防組が警察の指導下で川筋ごとに編成されていくこととなる。そして彼らの日頃の鍛錬の技が、水防出初式の場で披露されることとなった。出初式は例年、台風シーズンに先立つ7月に挙行されるのが普通だった。明治時代の『風俗画報』には、1891年(明治24年)7月4日に実施された水防出初式の記録が、挿絵入りで残されているので(図17〜19)、以下に紹介してみよう。
 
図17 地乗り 東陽堂,1891:p.10

 
図18 梯子乗り 同:p.10


図19 逆立ち 同:p.11

七月四日例により兩國下流にて(濱町二丁目地先)水防出初式あり。此日朝より晴れたれば見物人多くして、立錐の地なしといふべし。まつその景況をいはヽ、兩國下流東側洲の外に木場・永代・新大橋・兩國・厩橋・吾妻橋・千住組等各水防夫を區分し、大傅馬船に警視旗章を建て并列せり。九時頃に至り永代の方より?船一艘短艇を引て進行し、兩國寄に繋げる。式場に用ゆる處の材木を以て繋合たる筏の上手に於て進行を止め、引來る短艇を以て通行船の警戒を爲す。其内長官式場に着すと見え、喇叭の一聲あり、直ちに設置く材木を一本宛一人の乗手と共に流す。乗手は長き竹竿に鍵の付たるを以て流に從ひ、水中角のりをなす。貮人のりてなすもあり。(中略)次に楷子乗の技藝を演す。これ消防夫のなす業と替ることなしといへども、唯丈け短きのみ。これも乗る處の楷子は流す材木の中心に建るなり。(中略)次に一本棒のりあり、これも普通の業前に更る事なし。此二事は角のりと替り、材木の浮べる上にての業なれは、乗手よりも附從ふものヽ竿を以て彼是と水をかき、水平をとるを緊要とす。(中略)終て七組の者、せり水あり。第一番ハ木場の榮二なりといふ。終りて各組に酒饌を賜ふ。こヽに於て是式全く終れり。ときに午前十一時頃なり[東陽堂(編),1891:pp.10-11]。
当時の水防出初式が、隅田川に架かる両国橋の下流、浜町2丁目地先でおこなわれていたことがわかるが、そこに勢揃いする水防組は、@木場組・A永代組・B新大橋組・C両国組・D厩橋組・E吾妻橋組・F千住組の7組編成となっていた。隅田川の下流側から上流側へと橋ごとに組を編成し、組員のことを「水防夫」と称していた。指揮を取る大伝馬船には警視旗章を立て、長官が到着するとラッパを合図に、出初式が始まる。乗り手が1人ずつ乗った角材を川に流すと、さっそく角乗りの演技が始まる。まずは基本の「地乗り」から始まるが(図17)、「二人乗り」・「楷子乗り」へと進んで(図18)、「逆立ち」の妙技へと至る(図19)。最後は7組全体での「せり(競り)水」をおこなったとあるが、これは水上競走だろうか。優勝者はやはり木場組の乗り手で、褒美の酒饌が与えられたとある。この水防出初式は現在ではおこなわれていないが、木場の川並たちは引き続く大正・昭和・平成の世に至るまで角乗りの技術を伝え、今に至っているのだ。


(5)女性の登場

最後に、木場の角乗りをめぐる近年の新たな動きとして話題になっている、若い女性たちの登場のことを、少し触れておこう。それは400年続くという男の世界に、まさに新風を吹き込む大きなできごとでもあった。そのようにして1987年に、女性として初めて角乗りの世界に飛び込んだのは、江東区内在住の榎本奈苗さん・洋恵さん姉妹だ。当時、奈苗さんは小学校6年生、洋恵さんは同4年生だった。姉妹の父親である榎本幸雄氏は木場の木材職人で、角乗り歴20年の大ベテランだったが、水上で自由自在に角材をあやつるこの父親の姿にあこがれ、「私たちもやってみたい」と彼女らは思ったという。男の世界に若い女性が踏み込むことに対して父親は当初、反対したそうだが、姉妹の熱心さに根負けしたという。
木場角乗り保存会では例年、5月の連休明けから10月にかけての毎週日曜日に、都立木場公園内にある専用池で、角乗りの練習をおこなっているが、榎本姉妹もそれに加わるようになった。水に浮かべた長い角材の上に乗り、6mもの長さのタメ竿を用いてバランスを取りながら、足で角材を回転させる技はなかなかむずかしい。水中に落ちたり、滑って弁慶の泣き所を打っては泣きそうになったりしながらも、2人は練習に励んだ。姉妹が言うのには、角乗りは一輪車に乗るのに似た感覚だとのことで、要するにバランス感覚が重要だということなのだろう。練習のない冬場でも2人は、基礎体力をつけるために、極力自分の足で歩くことを心がけ、鍛錬を続けた。それから6年後、姉は高校3年生、妹は同1年生になったが、全部で15種類あるという角乗りの技のうち、2人ができるようになったのはまだ、基本的な2種類のみだというから、誠にそれは奥の深い世界だ。
当時、保存会の会長だった先の小安四郎氏は2人を温かく見守り、育ててきたが、「400年の伝統の中で、初めて女性の乗手が育った意義は大きい。結婚して母親になっても角乗りを続けて欲しい」と言っておられる。ここのところメンバーが減り続けていた保存会も、姉妹がくわわったことで活性化しつつあり、1993年には会員数が20名を超えるまでになった。1990年には新たに加わった女子中学生3人トリオが、見事な演技を披露して話題になった。1991年には小学4年生の石川まつりさんが入門、1992年からは最年少で小学校3年生の宇野真広君もデビューして、保存会の若返りも進んでいる[村上・成子・熊田,1993・読売新聞社(編),1991]。
運河と堀割が縦横に走り、丸太や角材に乗る仕事に従事する川並衆や職人衆が多く暮らす深川・木場周辺の子供たちは、もともと川遊びにもよく親しんでおり、泳ぎも上手だった。大人たちの目を盗んで筏にもよく乗っていたので、それを自在に操る女の子もいたという。江東区の生活誌調査報告書に収められた古老からの聞き取り記録集などを見ると、「筏のうまい女の子」という一項があって、1907年(明治40年)に門前山本町で生まれ育った、高村ハナさんの戦前の思い出話が載っているので、ここに引用してみよう。

私たちは、ほら深川の子って乱暴だから、ハダシで棒持って、雪だるまこしらえたり、竹馬のはやる時分だから、みんな竹馬に乗って。(中略)周りはずーっと堀だったのよ。私の子供のころ、面倒くさいから筏渡って行っちゃうの。私、筏うまいんですよ。昔ね、筏に着物ぬいで、泳いだんだから。そしてお巡りさんに追いかけられた。今の沢海橋、ずーっと筏がついてたの。「竹一」ってね、木場で一番の材木屋さん、そこにお稲荷さんがあった。「竹一のお稲荷さん」で有名なんですよ。震災のとき、あの堀で私が筏に乗って、竹一のお稲荷さんとこへ逃げたの。逃げてきたから助かったんですよ。九つのとき、私筏に乗れたから。「兄ちゃん乗んな、私連れてってやるから」って乗って。着いたらお稲荷さんに火がついちゃって、もう逃げ場ないでしょう。土手だったから。子供心に、今考えてみると実際、よくできたと思いますね。今度、その反対側に筏があったの。その筏へ渡って、そこの、今の木場四丁目かな、あそこらへ逃げてきたの。私が筏に乗るってば、灸すえられたりね、ぶたれたりね、よくしてたのよね。そんなときだけは親にほめられちゃった。それほど深川の女の子は乱暴だったわね[江東区総務部広報課(編),1987b:pp.206-208]。

女の子たちは乱暴だったというよりも、元気で度胸があったということだろう。関東大震災の猛火の中から脱出し、9歳の女の子が逃げ遅れた人々を筏に乗せて助け、逃げ延びたというのだから、この地の女の子たちはまことにたくましかった。こうした土地柄と風土というものがあったればこそ、角乗りをやりたいという若い女性たちが、今の世にもあらわれてきたとしても不思議ではなかったのだ。

文 献

江東区総務部広報課(編),1987a『江東ふるさと文庫@―古老が語る江東区の職人たち―』,江東区総務部広報課.
江東区総務部広報課(編),1987b『江東ふるさと文庫C―古老が語る江東区の街並みと人々の暮らし―(上)』,江東区総務部広報課.
江東区総務部広報課(編),1987c『江東ふるさと文庫E―古老が語る江東区のよもやま話―』,江東区総務部広報課.
江東区総務部広報課(編),1979『江東区史跡あちこち』,江東区総務部広報課.
江東区総務部広報課(編),1983『江東区のあゆみ』,江東区総務部広報課.
村上尚子・成子あずさ・熊田直子,1993「よみうり子供記者団―高校生姉妹、木場の角乗り―」『読売新聞』7月5日号夕刊全国版,読売新聞社.
武蔵郷土史料学会(編),1931『東京淀橋誌考』,武蔵郷土史料学会.
佐藤 高,1988「木場角乗りから、歳の市へ―東京十・十一・十二月―」『江戸ッ子』60,アドファイブ出版局.
東陽堂(編),1891「水防出初式」『風俗画報』32,東陽堂.
遠山和彦,2011「見事、木場の角乗―民俗芸能大会で妙技披露―」『毎日新聞』10月18日号朝刊都民版,毎日新聞社.
内橋寿明,2008「伝統の技『木場の角乗』披露」『毎日新聞』10月20日号朝刊都民版,毎日新聞社.
読売新聞社(編),1986「見てくれ江戸っ子の心意気―『木場の角乗り』・『深川の力持ち』、妙技に3000人喝さい―」『読売新聞』10月5日号朝刊都民版,読売新聞社.
読売新聞社(編),1991「”少女筏師”も妙技―『木場の角乗り』披露―」『読売新聞』10月6日号朝刊都民版,読売新聞社.
読売新聞社(編),1992a「街ひと模様―木場C・川並、水辺からの報告―」『読売新聞』3月10日号朝刊都民版,読売新聞社.
読売新聞社(編),1992b「街ひと模様―木場G・川並、水辺からの報告―」『読売新聞』3月18日号朝刊都民版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2004「オットット〜―木場の角乗―」『読売新聞』10月18日号朝刊全国版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2008「お見事!はしご乗り―木場で『角乗』披露会―」『読売新聞』10月20日号朝刊都民版,読売新聞社.
 
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