連載 江戸東京歳時記をたずねて 4
2017年8月号 |
長沢 利明 |
府中の八朔相撲祭 |
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(1) 大國魂神社の草相撲
八朔の日にあたる8月1日、府中市宮町の大國魂神社では例年、盛大な素人相撲大会が挙行され、俗にこれを「八朔相撲祭」と称している。なぜ八朔の日に相撲大会がおこなわれるようになったのかというと、1590年(天正18年)8月1日に徳川家康が初めて江戸城に入城したことを記念し、天下泰平と五穀豊穣とを祈願して、この日に相撲を取ることになったと伝えられている。家康の江戸入りが八朔の日になされたことはよく知られているし、その日はいわば江戸東京の始まりの記念日なのだからして、たとえば「東京都民の日」というものを定めるのだったらば、まさにこの日をおいてほかになかろうと、筆者などは思うけれども、残念ながら8月1日はその日に指定されることはなかった。いずれにしても、大國魂神社では家康の江戸入りの日から奉納相撲が始まったと伝えているので、この八朔相撲は実に400年以上もの歴史を有するものとされており、神社周辺の町会相撲会がその伝統を守ってきたのだといわれている[読売新聞社(編),2007]。
今日の八朔相撲祭は大國魂神社八朔相撲会の主催、大國魂神社奉賛会・府中市観光協会・むさし府中商工会議所・府中市相撲協会の共催でおこなわれている。会場は神社境内の相撲場で、例年8月1日の正午から午後4時にかけて大会が開催され、ポスターに「飛入歓迎」と記されているように、誰でも自由に参加することができる。参加希望者は当日に受付に申し込む必要があるが、小学生の部は午前10時から、中学生・一般の部は午後1時から受付が始まる。相撲場に設けられた受付用のテント内には、一般の飛び入り参加者のための「まわし貸出コーナー」まで用意されている。相撲場には八朔相撲祭のための立派な屋根つきの土俵があって、年に一度、この日だけそこで相撲がおこなわれるのだ。旧甲州街道に面した大鳥居をくぐり、広い境内に入って社殿のある南方向へと歩いていくと参道の左手に、すなわち境内東側にその土俵が見えてくる。
土俵は普段、フェンスで囲まれていて目立たないが、この日は朝から立派な飾り付けがほどこされ、主催者・参加者・氏子関係者らが周辺に大勢集まって、大会の準備に余念がなく、何ともはなやいだ雰囲気となる(写真30〜33)。
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写真30 相撲場と土俵
写真31 土俵上の大幣束
写真32 優勝カップ)
写真33 花場
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これから相撲勝負にのぞむ体格のよい屈強な男たちがめいめいに服を脱ぎ、裸になって互いにまわしを締め合っているところなどを見ると、両国国技館の大相撲の舞台裏を彷彿とさせる。土俵の屋根には四方に紫の幕とシメ縄が張られるが、その幕には「奉納、昭和六十一年、大國魂神社八朔相撲会」の文字が染め抜かれている。屋根を支える四本柱には陰陽五行思想にもとづいて、東方の2本に黒と白、西方の2本に青と赤の布が巻かれている。かつての大相撲の土俵もそのように飾られていたのであって、テレビ中継の邪魔になるために四本柱が撤去されてしまった今では、屋根の四隅から黒・白・青・赤の房が吊り下げられる形となっている。土俵の真ん中には砂が盛られ、大きな幣束が立てられて、そこから3方向に白線が引かれており、これも大相撲のやり方と変わらない。東西の力士溜まりに置かれた力水の桶、塩を盛った竹籠なども、まったく同様だ。土俵の周囲には各町会のテントも立ち並び、出場者たちの控所となっている。
土俵のかたわらの本部席テント内には、競技の勝利者に与えられる優勝旗やカップがずらりと並べられているが、カップの数だけ賞があるわけで、それらの賞の名を見てみると、@押尾川賞若兎馬杯(小)・A馬主協会賞(大)・B同(小)・C四ヶ町対抗優勝八朔会会長杯(中)・D大國魂神社奉賛会会長杯(小)・E四ヶ町対抗チーム府中市市長杯(中)・F四ヶ町対抗準優勝府中市市議会議長杯(中)・G四ヶ町対抗第三位府中市教育委員会杯(小)・Hむさし府中商工会議所会頭杯(中)・I府中市観光協会会長杯(中)・J四ヶ町八朔相撲一般の部京王建設杯(中)・K一般総合選手権優勝者大國魂神社宮司杯(中)などがある(括弧内はカップの大きさ)。これらのうち、@は地元府中市出身の大相撲力士、若兎馬(わかとば)にちなんだ特別賞なのだが、若兎馬は2003年7月の大相撲名古屋場所で東十両四枚目で10勝した経歴を持っている。若兎馬自身も子供の頃、この府中の八朔相撲によく出場し、ここで鍛えられてプロ力士になった。彼の所属した押尾川部屋からこの優勝杯が贈られることとなったのだ[読売新聞社(編),2003]。2005年の八朔相撲は若兎馬自らも特別参加をして子供たちに胸を貸し、大会はおおいに盛り上がった[読売新聞社(編),2005]。ABは府中市内にある東京競馬場の関係者らが設けた特別賞杯、Dは奉賛会会長杯、Eは市長杯、Fは市議会議長杯、Hは商工会議所会頭杯、Iは観光協会会長杯、Jは京王建設杯、Kは総合個人優勝者に与えられる宮司杯だ。CFGは、大会のメインイベントである地元の宮町新三会・八幡町・京所(きょうず)・府中の四ヶ町(しかちょう)対抗団体戦の1位〜3位杯となっている。
そのほかでは競技参加者に授与されるメダルがいろいろあり、提供者団体名を括弧内に表示して示すと、@四ヶ町対抗相撲優勝金メダル(財団法人日本相撲協会)・A四ヶ町対抗準優勝銀メダル(同)・B四ヶ町対抗相撲第三位銅メダル(同)・C中学生個人総合優勝金メダル(京王電鉄株式会社)・D中学生個人準優勝銀メダル(同)・E中学生個人第三位銅メダル(同)・F一般総合優勝金メダル(財団法人日本相撲協会)・G一般総合準優勝銀メダル(同)・H一般総合三位銅メダル(同)などが用意されている。相撲場にはまた、大会運営のために「花を掛けて(寄付を寄せて)」くれた氏子らの芳名がずらりと掲示されているが、この掲示板を「花板(はないた)」と呼び、その掲示場所のことを「花場(はなば)」と称することは東京都内のどこでも同じで、要するにいつもの祭礼の時と変わらない。花を掛けてくれた人々の名がずらりと貼り出されているが、地元商店主らが子供らへの賞品用にと現物で寄付した菓子や飲物などは、奉納者名とともに「奉納賞品沢山」などと表記されている。
(2) 子供たちの熱戦
こうしてすべての準備が整った午前12時、八朔相撲祭の開会式がおこなわれる。まずは八朔会会長・氏青崇敬会会長らの開会挨拶がなされるが、「氏青(うじせい)」というのは氏子青年会のことで、全国の神社の氏子青年らがおのおのの鎮守社ごとに青年団体を組織しており、多彩な活動をおこなっている。その全国団体が全国氏青会で特に神前相撲に力を入れており、2011年4月には千代田区の靖国神社を会場に、全国氏青会主催の第7回全国鎮守の森相撲大会が開催されることになっており、本日の府中の八朔相撲はその予選会をも兼ねているとのことだった。筆者が八朔相撲を見学したのは、その前年の2010年8月1日のことだ。次に行司役をつとめる府中市相撲連盟の代表が挨拶を述べ、競技ルールや諸注意などが告げられる。競技ルールは基本的に、大相撲のそれがそのまま適用されることになっている。
その後はいよいよ相撲取組が始められるが、最初におこなわれるのが幼児の部と小学生の部だ(写真34〜37)。
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写真34 開会式
写真35 幼児の部の取組
写真36 小学生の部表彰式
写真37 同(女子)
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幼児の部は、小学校入学前の幼児らが出場するが、親たちから小さなマワシを付けてもらった幼児らが、テントの周辺ですでに準備運動をしており、合図とともに土俵下に整列する。小学生らとともに土俵上にのぼった子供たちは、まず全員が回れ右をして神社の社殿方向を向き、安全祈願の拝礼をおこなう。その後はさっそく幼児の部の相撲となるが、参加者は例年数人程度で、東西に分かれて土俵下の溜まりに待機しつつ、自分の出番を待つ。1人が三番ずつ相撲を取り、総当りでのリーグ戦をおこなう。2人の対戦者は土俵上で起立し、互いに一礼をした後、白線の位置について両手を握って構え、行事の合図で四つに組む。勝負がつくと双方が土俵際に下がって礼をし、敗者は去って勝者は蹲踞をし、行司から勝ち名乗りを受ける。礼に始まって礼に終るという相撲競技の原則は、ここでも守られているが、時には対戦前に泣き出して逃げ出す幼児もおり、その場合は不戦敗となる。土俵を降りた子供たちは役員らから文房具・菓子・ジュースなどの賞品をもらうのが楽しみなのだが、地元商店主らからたくさんの現物寄付が寄せられており、賞品は山のように用意されている。
次におこなわれるのが小学生の部だ。これは四ヶ町対抗団体戦の形を取る。すなわち、宮町・八幡町・京所・府中の四ヶ町に在住の小学生の、1〜6年生の各学年から1人ずつ代表選手を選び、町ごとに6名ずつのチームが編成され、四ヶ町の総当りリーグ戦がおこなわれる。各チーム内には必ず女子も含まれていなければならない。女子の参加希望者は結構多いうえに、取組を見ていてもなかなか強くて男子に負けていない。女子の場合、上半身はTシャツ姿で、下半身はジャージーをつけた上にマワシを締めることになるが、そのスタイルがあまり恰好よくないから相撲は不人気なのではないかと、筆者らは思っていたけれども、さにあらずで、相撲を取ってみたいと思う女子は決して少なくないのだ。ひとつのチームは、1〜6年生の6名全員が揃っているのが理想だが、どうしても出場者のいない学年があると、それは不戦敗となり、対戦相手は土俵上で勝ち名乗りのみを受けて、不戦勝となる。今ほど少子化が進んでいなかった2006年の場合、出場を希望する小学生はたくさんいて、四ヶ町のそれぞれにA・Bの2チームを編成し、計8チームで団体戦がおこなわれていた[読売新聞社(編),2006]。
小学生の四ヶ町対抗団体戦は、次のようにおこなわれる。取組は二ヶ町ずつの6番勝負の対戦となるが、2チームが東西に分かれて入場し、土俵下に整列して礼となる。勝負は低学年から始まり、まずは1年生どうしが対戦して、次に2年生・3年生へと進んでいく。6番目の取組が終った時点で3勝3敗となった場合、1年生がもう1回勝負をおこなって決着をつける。その決定戦によって、4勝3敗の成績を得た側が勝者となる。こうしてすべての取組が終ると、リーグ戦の結果が貼り出され、優勝チームが決まるのだ。その後には小学生の個人戦がおこなわれるが、団体戦に出られなかった者、出たけれどももう一度出たい者などを募って、出場者を決める。1学年ずつ5人ぐらいが東西に別れて対戦する。これらが終ると小学生の部の表彰式となり、出場者全員が土俵上に整列して、八朔会会長より表彰を受ける。団体戦の優勝チームには先の優勝カップが授与されるが、これは形式的なもので、カップを持ち帰ることはできない。それではあまりにかわいそうだということだったのだろうか、近年では1人1人にメダルが授与されることとなり、これは家に持ち帰ってもよい。優勝チームには金メダル、準優勝チームには銀メダル、第3位チームには銅メダルが全員に与えられるのだが、これらのメダルは財団法人日本相撲協会から提供されている。続いて、一般相撲功労者の表彰も合わせておこなわれ、例年5〜6名の若手相撲指導者らが全員、裸足で土俵上に上がり、大國魂神社の宮司から感謝状と記念品が手渡される。宮司の挨拶もこの時におこなわれることになっている。
(3) 中学生・一般の部の熱戦
その次は中学生および一般の部となるが(写真38〜39)、中学生の部は例年、出場者が少なく、筆者の見学した2010年の場合、わずか5名しかいなかったので、5人全員による総当りリーグ戦となった。しかも5人中の1人は女子で、男子相手に互角に戦えるのだろうかと筆者などは心配したけれども、それは杞憂に終わる。
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写真38 一般の部の取組
写真39 四ヶ町対抗戦結果 |
5人の選手の名が呼ばれる時、「東○○君、西○○君、控え東○○君、控え西○○君」という言い方をするのだが、ここでいう「控え」とは次の対戦にのぞむ選手のことで、つねに次戦者が待機していなければならない。選手らはあわただしく、土俵の東西を行ったり来たりして、移動をしなければならない。何しろ5人しかいなかったので、取組はすぐに終り、ただちに表彰式となったが、日本相撲協会から送られた金・銀・銅メダルが、ここでも授与される。注目の紅一点の女子選手は見事、3勝2敗の成績を残し、彼女は銀メダルを手にしたのだった。
さて最後はいよいよ一般の部で、成人どうしの対決となる。屈強な体格の出場者たちがぞろぞろと入場してくるが、その数およそ30人ばかりで、ノンプロ級のベテランばかりだったが、外国人も1人参加していたのはよかったと思う。彼らはさっそく、土俵上やその周辺で身体をほぐし始めるが、対戦前からもうかなりの迫力で、気迫が感じられる。優勝候補のベテランが、中学生に胸を貸すパフォーマンスもなされるが、斜めに構えたベテランに中学生が全力で正面からぶつかり、土俵際までズズズと押していく。これを2往復ほど繰り返し、2〜3名のベテランが稽古をつけてくれるのだが、これまたなかなか迫力があった。本部テント前では、対戦相手を決める抽選がなされ、出場者の人数分、用意された割箸に番号がつけてあって、一人ずつそれを引く。出場者登録名簿上にある自分の名前の所にその番号を書き入れていき、それをもとにしてトーナメント表ができあがるというわけだ。
一般の部からは本格的な相撲勝負の態勢が取られ、審判団も編成されて、土俵上の行司のほかにも、四方に審判が座って目を光らせる。出場選手は土俵に上がる際、用意された塩をひとつかみ取ってまき、土俵上を清める。個々の取組もまさに真剣勝負そのもので、2人の大男が立ち会いでぶつかり合う時の、ドンという大きな音が響き渡る。きわどい勝負となった時には、さっそく土俵下の審判団から物言いがつき、4人の審判が土俵上に集まって協議がなされて、「取り直し」とか「行司差し違え」とかの判定が下されるシーンは、日頃テレビで見慣れた大相撲とまったく同じだ。こうして1回戦が一通り終わると、2回戦となり、ここからは有力シード選手も加わるので、さらに白熱した勝負となる。3回戦が済むと準決勝、その次は決勝戦だ。見物する観衆らの声援も最高潮に高まり、熱気のうちにチャンピオンが決定される。なお3位決定戦はおこなわれないので、銅メダルは2名に与えられ、メダリストは計4名となる。表彰式には4人のメダリストが土俵上に並び、宮司よりメダルが授与される。ここまで終わって午後3時頃となるが、さらにこの後も、たとえば大國魂神社奉賛会会長杯などと銘打ったトーナメント戦や、敗者復活戦なども、いろいろおこなわれることなっている。
(4) 八朔相撲とその意味
府中市の大國魂神社で毎年8月1日におこなわれてきた八朔相撲祭の、本来のその意義と意味とは何だったのかという問題について、少しここで考えてみることにしよう。たとえば、一体なぜに八朔の日に相撲を取る必要があったのかという、もっとも基本的な問題がまずあり、そのあたりから検討をすすめてみる必要があろう。八朔の日に相撲を取るという民俗事例は、東京都内でいうと葛飾区東水元の日枝神社の例があったが[堀,2000:p.5]、戦後まもなく廃れてしまっており、今も続けられている八朔相撲は府中市の大國魂神社が唯一の事例となっている。他県にはいくつか例があって、たとえば新潟県刈羽郡北条町では、八朔の日に豊作を祈願して餅をつき、神社では草相撲がおこなわれていた。同県糸魚川市砂場でも、八朔は農休みの日となっていて、やはり草相撲がなされていたという[堀・坂井,2000:pp.17-18]。これから秋の収穫期・農繁期を迎えるにあたっての、最後の休暇日の娯楽として、八朔の日の相撲がなされていたということなのかもしれないが、豊作祈願あるいは神前への奉納相撲という意味合いも、そこに込められていたようだ。
ここ江戸東京の地は、もちろん今さらいうまでもなく、きわめてさかんに興業相撲・草相撲のおこなわれてきた土地であり、その風土の中から今日の大相撲が生み出されてきたのでもあった。今でも境内に相撲場や土俵を持つ神社が、都内には何ヶ所もあるし、世田谷区宮坂の八幡神社や渋谷区東の氷川神社などのそれは、とりわけ立派な相撲場として知られている[長沢,1999b:pp.348-353]。足立区・葛飾区・江戸川区、そして多摩地方などは特に草相撲がさかんな所であったし、今でもそれがおこなわれている所もある[堀,2000:pp.4-8]。これらの東京都内の草相撲のなされていた季節を調べてみると、概して秋8〜9月頃が多く、神社の秋祭りといえば余興の相撲見物と決まっていた、という例がよく見られた。そういう意味からすれば、八朔の日の相撲というのは別段、特別なことではなかったともいえる。この季節になると、方々の神社で草相撲がおこなわれたので、力自慢たちはあちこちの相撲場へ出かけていって勝負をしたものだと、府中市の古老らは語っているし、逆に他所の強者らも府中の八朔相撲によくやってきていたという。特に八王子や川崎方面の草相撲と府中のそれとの間で、さかんな若者の行き来があったといい、各地の相撲場で勝ち抜いて名をあげた「相撲場荒らし」のような人物すらいたそうで、事実、近年でも府中の八朔相撲からはプロ力士も輩出されている。そのあたりの事情は、1974年版『府中市史』にも少し解説されているので、以下に引用してみよう。
相撲祭。八月一日には相撲祭がおこなわれる。八朔の相撲といっている。神社で神主による祭式がおこなわれ、そのところのあたりの人々が集って境内の土俵で相撲をとった。 草相撲であったが、幕下の力士に来てもらって、いろいろのとり方を習ったものである。また相撲に横綱や大関の制度もあって、昔は力自慢も少なくなかった。このような相撲は八王子や川崎にもあり、その方から勝負に来る人もあり、こちらから出かけてゆくこともあって、昔は相撲が盛んであったが、最近は下火になっている。八朔の相撲は風邪除けのためのものであったという。古くからおこなわれた行事であった[府中市史編さん委員会(編),1974:pp.1176-1177]。
八朔相撲は「風邪除け」の意味もあったと、ここには述べられているけれども、8月という季節で風邪除け祈願というのもおかしな話で、おそらくこれは「風除け」のまちがいだろう。多摩地方各地の鎮守社では、8〜9月頃に「風祭り」の行事をおこなうことが広く見られ、それはこれから迎える台風シーズンに、農作物が暴風雨害を受けることがないようにと鎮守神に祈るための、すなわち風除け祈願のための祭りなのだった。多くの場合、風祭りは9月1日になされてきたのだったが、8月中におこなう所もあり、たとえば国立市の谷保天満宮では8月25日がその祭日となっていて、その日には神前での神事ももちろんなされるが、祭りの中心は神楽殿でおこなわれる余興の芸能大会に置かれていて、氏子らにとっては収穫期前の重要な娯楽機会となっていた[長沢,2002:pp.12-13]。
府中の八朔にもやはり、この風祭りの娯楽の意味が込められていたのは、まことに自然なことで、そこでの娯楽慰安は相撲見物という形が取られてきたのだった。草相撲というものは概して秋になされるものなのだったが、いかにも多摩地域らしく、風祭りの性格をも帯びながら、娯楽慰安の場として、八朔という日が選ばれてきたのだろう。その日がちょうど、徳川家康の江戸入府日にあたっていたことは、この相撲祭のはえある由緒を語るのに、まことに充分な条件を与えることともなった。
(5) 田面の神事と八朔相撲
そして、その八朔という日は、いわゆる「たのみの節供」のおこなわれる日でもあったわけで、そこに八朔相撲の持つもうひとつの意味と側面とがあることも、忘れてはならない。府中の八朔相撲のことを記録した最古の資料は、六所宮(現在の大國魂神社)の神主日記と思われるが、1778年(安永7年)8月1日の記録に「宮ノ女神前ニて角力有之、手前狭(桟)敷畳遣申候、別也之畳也六畳程」とあり、境内社である宮之刀iみやのめ)神社の社前が相撲場となり、桟敷席をそこに設置したと述べられている。1784年(天明4年)8月1日の記録にも、「角力場四たれ弐門、半んし竹串幣」とあり、相撲場に祀られる幣束を神主が用意したと述べられている[府中市郷土の森(編),1988:p.10;101]。これらは当時の六所宮の宮司、猿渡盛房によって記されたものだ。1812年(文化9年)の『嘉陵紀行』にも、「八月朔日神楽、神事角力」がおこなわれていたとある。1794年(寛政6年)の『四神地名録』には「八月朔日御神事」、1780年(安永9年)の『武蔵演路』にも「八月朔日同断神事」とのみあって、六所宮で八朔の日の神事がなされていたことはわかるが、相撲を取ったとは書かれていない。1818年(文政元年)の『十方庵遊歴雑記』には「八月朔日神楽、神事角力ありて都鄙の人々爰に集ひ群集山をなせり」とあり、1827年(文政10年)の『武蔵野話』にも「八月一日神事角力」とあって、神事相撲のことも触れられている。
問題は、相撲をともなって挙行されていた8月1日のこの神事を、一体何と呼んでいたかということなのだが、1823年(文政6年)の『武蔵名勝図会』には「八月朔、田面の神事、終日祭儀、庭上において角觝の儀あり」とあり、「田面の神事」という言葉が初めて出てくることには注目すべきだろう。「田面(たのも)」とは、もちろん「たのみ」の転訛であって、八朔の別称「たのみの節供」のことをいっている。引き続く1836年(天保7年)の『江戸名所図会』には、きわめて明確にこれを「田面神事(たのものしんじ)」とルビ付きで表記しており、「八月朔日終日神楽を奏す。参詣の輩、其年の豊熟を祈る。此日、角力を興業せり」との解説を載せているのだ。八朔の「たのみ」行事は、このように「たのも」と発音されることもあり、「田の面」・「田の実」・「田の見」・「憑み」・「恃怙」などと書かれることもよくある。「たのみの節供」というのは要するに、八朔の日におこなわれた田の稔りを祈念するための作頼みの儀礼のことで、府中の六所宮では江戸時代、それがひとつの神事として挙行されていたのだ。その時におこなわれる相撲はしたがって、稲の豊作を祈願するための農耕儀礼としての意味をも帯びていたわけで、相撲というものが単なる競技ではなく、神聖な神事儀礼のひとつでもあったことをよく裏付けている。
葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員である堀 充宏氏らは、府中六所宮の八朔相撲は、同社の御田植神事の相撲とも深い関わりを持っており、それらはともに重要な農耕儀礼としての性格を帯びていたと述べておられるが、実に的確な指摘といえよう[堀・坂井,2000:pp.17-19]。御田植神事というのは、同社の年間最大の祭礼であるいわゆる暗闇祭りの翌日にあたる5月6日に、同社の神田で挙行されていた神事のことだ。六所宮の神田は現在の東京競馬場のあたりにあった神饌田で、「御田(みた)」と呼ばれており、『江戸名所図会』に次のように記されている。
御田。六所の宮の後の小径を過て百歩はかりにあり。豁然たる稲田なり。東ハ悠遠にして眺望分明ならず。南ハ多磨川の流を隔てヽ長岡の上に短松の立するを見る。世に所謂向ふか岡是なり。此地、北ハ府中の驛舎にして六所の林叢鬱然たり。
さらに同書には、この御田で5月6日におこなわれていた御田植神事(おんたうえのしんじ)についても、以下のような解説と挿絵とを載せている(図11)。 |
図11 六所宮の御田植え祭り 『江戸名所図会』より |
同(五月)六日に修行す。祠後百歩あまりを隔てヽ南の方の稲田においてこれを行ふ。此日、當國の人民當社に詣、神田の豊熟我上におよハむ事を願ふか故に秧(なへ)を持し来りて田上に集り、一朝に挿終(うゑをハ)りて後、或ハ躍り、或ハ角力を催し、其興とりとりなり。依て秧ことことく泥に浸すといへとも明旦に至れハ勃然として起、又其種を異にすといへとも終に穂を同くし、節の進退により違あるも歳として順ならさる事なく、水旱蝗螟の災難なし。俗傅へて當社七奇事の一とす。
この日の御田には武蔵国一円から農民が集まり、持ち寄った稲の苗をそこに植えるならわしが古くからあって、俗に「六所の田植え」などと呼ばれていた。田植え後の御田の中では何と子供らが相撲を取ったり、踊ったりして苗を倒し、さんざんに田を荒らすのだが、翌日にはきれいに元に戻っているといわれていた[長沢,1999a:pp.107-120・府中市史編さん委員会(編),1974:p.1158]。名所図会の挿絵を見ると、御田の中に立てられた忌竹のシメ縄の中で、子供らが素裸で相撲を取るシーンが描かれている。つまり、5月の御田植神事の相撲は土俵の上ではなく神田の泥の中で、しかも子供らがおこなったのであり、8月の八朔相撲とは相当に様子を異にするものの、両者はともに農耕儀礼としての意味を持った神事相撲なのだった。5月の田植え時、そして8月の収穫前という重要な区切り目の時に、相撲が取られ、豊作祈願がなされていたことになる。相撲というものには、実に奥深い意味が込められていたのだ。
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文 献 府中市郷土の森(編),1988『六所宮神主日記』,府中市教育委員会.
府中市史編さん委員会(編),1974『府中市史』下巻,府中市.
堀 充宏,2000「東京東郊の草相撲」『怪力伝説―東京近郊の草相撲と力持ち―』,葛飾郷土と天文の博物館.
堀 充宏・坂井郁子,2000「東京西部の草相撲」『怪力伝説―東京近郊の草相撲と力持ち―』,葛飾郷土と天文の博物館.
長沢利明,1999a「六所宮と田植え禁忌―府中市大国魂神社―」『江戸東京の年中行事』,三弥井書店.
長沢利明,1999b「渋谷区の年中行事」『江戸東京の年中行事』,三弥井書店.
長沢利明,2002「くにたちの神社年中行事―神事暦からみた国立市の一年―」『くにたち郷土文化館研究紀要』bS,くにたち郷土文化館.
読売新聞社(編),2003「八朔相撲祭―府中の大国魂神社―」『読売新聞』8月3日号朝刊多摩版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2005「大国魂神社で八朔相撲祭」『読売新聞』8月2日号朝刊多摩版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2006「小学生が土俵で熱戦―府中大国魂神社で相撲祭―」『読売新聞』8月3日号朝刊多摩版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2007「『八朔相撲』競い合う―府中の大国魂神社―」『読売新聞』8月2日号朝刊多摩版,読売新聞社.
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