西郊民俗談話会 

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連載 江戸東京歳時記をたずねて  1
   2017年5月号
長沢 利明
鯉のぼりの今昔
 web上で表現できない文字は?となっております
(1)最近の鯉のぼり事情

端午の節供のシンボルといえば、何といっても鯉のぼりだ。ゴールデンウイークの頃のさわやかに晴れあがった青空のまん中に、初夏の風をいっぱいに受けて何匹もの鯉が元気に泳ぐさまは、何とも晴れがましくて素晴らしい(写真1〜3)。のぼり竿のてっぺんにある矢車が風に吹かれて回転しながら鳴る、あのカラカラという乾いた音などもまた何とも心地よく、いい季節になったものだなあと、しみじみと私たちに感じさせてくれる。ところが最近、この鯉のぼりというものを、めっきり見かけなくなったのは、どうしたことなのだろう。1980年代頃までは、鯉のぼりを揚げている家が23区内でも結構見られたもので、ましてや郊外の多摩地域にまで足を延ばせば、農家の庭先に高い丸太竿を立てて、立派な鯉のぼりを空に泳がせている家が、いくらでも見られた。一戸建ての家に住んでいない都心部の家々では、庭がないのでそれを飾れないという事情もよくわかるが、それならそれでマンションや団地向けのベランダ用の鯉のぼりというものもあるはずなのに(写真4)、近年はそれすらあまりみかけなくなった。
 写真1 鯉のぼり(世田谷区喜多見)

 写真2 鯉のぼり(狛江市和泉))

 写真3 鯉のぼり(府中市宮町)

 写真4 団地用鯉のぼり(国立市富士見台)
 その理由は、集合住宅の場合、ベランダの手すりより高い所に物を置くと風でそれが吹き飛ばされる危険性があるうえ、美観も損ねるといって、洗濯物・布団を干したり、鯉のぼりを飾ったりすることが、マンションの管理規約などで禁止されるようになってきたためなのだという。
日本人形協会によると、東京都内では1994年頃からベランダ用鯉のぼりが増加したものの、2010年代以降は室内に飾るタイプのものが増えているという。また、日本鯉のぼり協会の調査によると2014年現在、室内用の鯉のぼりの出荷は全体の15%を占め、5年前の3倍にまで達しているそうで、日本橋高島屋では今でも売上の8割がベランダ用だが、最近は10万円を超えるような本格的な室内用の高級品の人気が高まってきているとのことだ。日本鯉のぼり協会によると、地方ではなお屋外にポールを立てて空を泳がせる昔ながらの鯉のぼりが、なお健在であるとはいうものの、鯉の大きさはかつての7〜8mサイズのものから、今では2〜5mサイズのものに移行しつつあるそうで、小型化が進んでいるらしい[田中,2014]。
こうしてみると、鯉のぼりというものが東京の都心部から、決して消え去ってしまったわけでもなく、もっぱら室内でそれが飾られるようになったため、外からは見えないので、私たちの目につかなくなったというだけのことらしい。いかに少子化の時代になったとはいえ、男児の出生を祝う伝統行事が簡単に廃れてしまうわけもないが、五月節供行事そのものの衰退傾向は確かにあらわれてきている。サントリー不易流行研究所が1992年、全国の366家族を対象に実施した調査の結果を見てみると、家々での端午の節供の実施率は約3割にとどまり、三月節供の5割よりも低くなっているという[西村,1994]。しかもそこでは、五月節供行事に欠かすことのできない鯉のぼりというものが屋外に飾られることがなくなりつつあって、いわば「外飾りの内飾り化」現象とでもいうべき変化があらわれてきている。とはいえ、室内版の鯉のぼりなどというみみっちいやり方にはあきたらず、逆にそんな時代であればこそいっそ景気よく、派手で盛大なやり方で五月節供を祝おうという心意気を示す旧家などもあって、鯉のぼり以前の復古調の巨大な旗のぼりを毎年、堂々と庭に掲げている家も見られるのは素晴らしい(写真5〜6)。特に国分寺市の豪農家、小坂長吉家のそれなどは、まるで戦国時代の合戦のぼりのごとくで、当主のお孫さんが生まれた時にこれを新調したのだという(写真6)。
 写真5 旗のぼり(港区白金台)

 写真6 旗のぼり(国分寺市東元町)
 のぼりには、戦国武将の勇壮な姿が描かれている。同家の庭先には、これを立てるための頑丈な沓石が設置されていて、そこに白木丸太と支え木をはめ込んで立てられる旗のぼりは、神社の祭礼のぼりとまるで変わらない。
山梨県などに行くと、端午の節供のぼりは旗のぼりの方がむしろ普通で、当然のことながら、そこに描かれているのは郷土の英雄、武田信玄の雄姿だ。東京風の鯉のぼりなどはほとんど見られず、旗のぼりが当たり前で、中部地方は概してそうだったのではなかろうか。私の故郷である群馬県でもかつては大体そうで、1960年代頃までは旗のぼりが主流だったように思うし、節供が近づくと染物屋が注文を受けて染め上げたばかりの家紋入りの旗のぼりを、小川の水流に浸して糊落としをしたり、それを庭先で日に干したりしているのを、よく見かけたものだ。旗のぼりを作る染物屋は今も各地に残っていて、静岡県駿東郡小山町の小林捺染工所などは、その最大手だろう。そこでは年間約3500枚もの旗のぼりが作られており、全国に発送されている。のぼりは「武者絵のぼり」と呼ばれ、戦国武将の勇壮な姿がやはり描かれているが、幅1m・長さ6〜9mほどの木綿布の生地に顔料を用いて、職人が一枚一枚それを描く。注文があれば、子供の名前や家紋も書き入れてくれるという[読売新聞社(編),2011]。福島県須賀川市にはかつて7軒もの旗のぼりを作る染物屋があったのだが、今は吉野屋という工房が1軒残るのみで、6代目当主である大野青峯氏が今もその技術を伝えている。当地では旗のぼりのことを「絵のぼり」といっており、長さ6mの布に金太郎や鐘馗の絵を描く。須賀川市では今から240年前もの昔から、端午の節供に絵のぼりを揚げる習慣があったといい、吉野屋には例年20〜30枚もの注文が寄せられていたというが、東日本大震災にともなう原発事故の後はそれが半減してしまったというから、まことに残念だ[小林,2014]。
節供のぼりの古い形はもともと、このような旗のぼりであったわけで、上記のように地方では今でもその習慣が残っている。それが鯉のぼりというものに発展していったのは近世中期の頃で、江戸の庶民たちがそれを始めたといわれている。鯉のぼりが登場する以前の時代、男児の成長祝いに揚げられていた旗のぼりは本来、武家の行事習俗で、しだいにそれが庶民にも取り入れられていき、やがて鯉のぼりというものへ発展していったということになる。そこで、江戸の節供のぼり・鯉のぼりの歴史を、少し見直していってみることにしよう。

(2)鯉のぼりの始まり

近世初期の時代における江戸の節供のぼりは、もっぱら旗のぼりだった。それはもともと武家の節供祝行事で、その家の後継男児を得た喜びを、いかにも武士らしく武勇を重んじたやり方で祝い、表現したものなのだった。武士とは戦う者であり、武家の家に生まれた男児は武芸の道に生きていかねばならない。菖蒲の節供とは「尚武」そして「勝負」の節供なのだからして、そこに表現されるのは戦場・戦陣のありさまなのだ。屋敷の入口には、そこを合戦の場に見立てて、家紋入りののぼり旗を何本も立て並べる。要するに、それが節供のぼりの始まりだったといってよい。兜飾りや武具などももちろんそこには飾られることとなり、屋敷の入口がまさに合戦の陣地と化すわけなのだった。こうした武家の派手な節供装飾は、やがて商家などの町人家にも取り入れられていくようになり、武家ではなくとも家の入口に旗のぼりを立て飾る風が一般化していく。けれども、鯉のぼりというものは、まだそこになかった。
当時の武家の節供飾りには旗のぼりのほかに、実は吹き流しもよく飾られていた。風が吹くと、旗のぼりはただはためくだけだが、吹き流しが添えられてあればそれが勢いよく風に乗って空になびいたので、大変に見映えがしたのだ。吹き流しはもちろん、風向きや風の強さを知るために、合戦の戦場にも立てられることになっていた。「通例、吹流しは町家にては建つることなし」と記録にあるように[東陽堂(編),1889:p.3]、それは武家独特の習慣で、武家以外の家々ではおそれ多いことだったため、町人家ではそれを飾ることが禁じられていた。一般家の節供飾りには、旗のぼりはあっても吹き流しがなかったのだ。さらに、武家の旗のぼりにはマネキ(招き)といって、小さな流れ旗をその頂に取り付け、風になびかせることがよくあった。山梨県では今でも旗のぼりが主流であると先に述べたが、その旗のぼりの頂きにも必ずそれが付いており、その小さなマネキの小旗に「風林火山」の四文字が染め抜かれているのは、いかにも甲州流だ。そして、近世の江戸にあっては町人家の旗のぼりの頂に、マネキの小旗の代わりに鯉の形をかたどった小さな吹き流しをなびかせるスタイルが、18世紀の中頃に登場するようになった。武家流の吹き流しやマネキ旗を飾ることはさすがにはばかれたので、その代わりとして小さな鯉型の吹き流しをなびかせたのだろう。1745年(延享2年)刊の俳句集の挿絵に、すでにそれが描かれているというから[溝口,2010]、その歴史は割合に古い。要するに、それが後の鯉のぼりの原型になったわけで、鯉のぼりの起源は武家の吹き流し、そしてマネキの小旗にあったということになる。
では、どうして鯉の形の吹き流しをそこに飾ったかというと、いうまでもなくそれは中国の登竜門伝説にちなむ出世祈願の意味がそこに込められていたわけで、滝を登る鯉がやがて竜となり、天まで駆け昇るという物語を、わが子の将来に託したのだ。また、俎板の上に載せられても身動きもしないとされる、鯉のそのいさぎよさにあやかろうという意味も、もちろんそこに込められていた。明治時代の風俗史家、山下重民は次のように述べている。
鯉魚の吹流を用うるに到りしハ全く男子の勇氣と昇進とを祝するの意に出つ。人鯉魚を獲て之を俎板に置き庖刀を以て一たひ撫すれハ敢て動かす。又鍋に水を溢れ盈たし鯉を入て漸次に煎るも絶て動く事なし。其泰然死に就くの状、實に士人の鑑(かむかむ)べき所とす。(中略)嗚呼此勇氣あり、此昇進あり。以て男子を祝するに足る。近來専ら行ハるヽも亦宜ならすや。而して古人徒らに勇氣ありて剛膓なきを戒む。曰く江戸兒ハさつきの鯉の吹流と[山下,1893:p.5]。
ここにいう「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し」というたとえは、腹の中に何もない、さっぱりとした気質のことを言っている。その小さな鯉の吹き流しのついているのが町人家の旗のぼりで、マネキの小旗と通常の吹き流しが付いているのが武家のそれなのだったという具合に、遠くから見ても簡単にそれらの区別がついたのは、おもしろいことだったろう。町人家の鯉の吹き流しはしだいに大型化していき、旗のぼりの付属品であることを脱して独立し、ついにはそれだけを単独で立て、旗のぼりと並べて飾られるようにもなっていった。それは文化〜文政期(1804〜1829年)、もしくは文政〜天保期(1818〜1843年)の頃のことだったという。鯉のぼりというものは、かくして誕生したのだ。そして、その鯉のぼりこそが町人家の専売特許で、武家がそれを飾ることはありえなかった。逆に、吹き流しとマネキの小旗は武家の専売特許で、町人がそれを用いることははばかられたということになる。ところが天保頃になると、今度は武家の方が町人家をまねて、鯉のぼりを立てるようにもなっていったというから[川崎,1984:p.87]、これまたおもしろい。
ここで歌川広重の描いた浮世絵、「名所江戸百景」のうちの、あまりにも有名な一枚、「水道橋駿河台」を、見てみることにしよう(写真7)。
写真7 『名所江戸百景』に描かれた鯉のぼり
 5月の江戸の街並みを背景として、悠々と空を泳ぐ鯉のぼりを、大胆な構図で描いたこの浮世絵は、海外にまでよく知られた広重の代表作といえよう。この絵をよく見ると、武家と町人との節供飾りの違いがわかる[ヘンリー・スミス,1992:p.48]。絵に描かれているのは、本郷あたりから神田川越しに南西方向を望んだ風景で、右下に水道橋、左手に駿河台や番町の街並が見える。街中にはあちこちに節供のぼりや鯉のぼりが立てられているが、中央および左手に見える旗のぼり・鐘馗のぼり・吹き流しを並び立てているのが武士の家で、やや奥まった位置に見える3本の旗のぼりを立てた家も、おそらくそうだろう。一方、右手に見える2本の鯉のぼりが町人家のもので、絵の中央に大きく描かれた鯉のぼりもまた、もちろんそうだ。この絵が描かれたのは1857年(安政4年)のことなのだったが、この頃にはすでに1本立ちで鯉のぼりのみを竿に飾って立てるやり方が、すでに一般化していたこともわかる。そして、この絵の主役はいまや武家の旗のぼりではなく、町人の鯉のぼりとなっているのだ。「武士の吹流しに対抗して天高く大江戸の空をゆうゆうと泳ぐ鯉のぼりは全く町人達にとって溜飲のさがる思いであったにちがいない。威張る武士をみかえしてどうだといってみたくなる程痛快だったことであろう」という気持ちもよくわかる[川崎,1984:p.87]。

(3)近代期以降の鯉のぼり

明治の世ともなると、五節供廃止令の影響を受け、行事そのものが一時衰微はしたものの、間もなくそれも復活したばかりか、軍国主義の風潮とともに尚武の風が重んぜられたこともあって、端午の祝いは再び隆盛の時代へと向かっていった。節供のぼりでいえば、もはや武家と町人との別もない時代となったが、もてはやされていったのは、かつての町人風の鯉のぼりなのだった。1本立ちの鯉のぼりはますます一般化していき、特に東京市中ではそうで、古臭い旗のぼりよりはずっと人気があった。しかし、地方では旗のぼりの習慣が根強く残り、最初に述べたように甲州などでは今もってそれが主流となっている。江戸・東京における近世から近代にかけての時代変化と節供のぼりの変遷は、おおよそ以下の記述のようにとらえておくことができるだろう。
鯉の吹流を樹ることハ近世の風俗にて、文政天保の頃に起るといひ傅ふ。但少さき鯉の形をハ幟の端に附しハありしならむか。明治以前ハ之を旗幟に添て植るか例にて、獨り此のみハ樹ることなかりしが、今ハ旗幟ハ廢れて却て此のみ樹る家多し[山下,1893:p.3]。
ここには、江戸時代には鯉のぼりのみを単独で立てることはなかったとあるものの、決してそうでもなかったことは、広重の描いた浮世絵を見ても明らかだ。明治時代の節供のぼりの実態は、『風俗画報』に次のようにも記されている。
五日は端午の節會にて七歳以下の男子ある家にては鯉の幟を戸外に建つ。(中略)男兒ある家にては戸外に家の定紋附きたる幟一對と鐘馗畫きたる幟、鯉の幟一本づヽを建つる(中略)男子生るヽ家へは初節句の祝儀として彼紙製の大鯉を贈るは猶女子生るヽ家へ雛を贈るかことし。此魚は出世の魚といへる諺によりて贈るものなるべし。この鯉を多く建る家ほど面目多きの状あり[東陽堂(編),1889:p.3]。
7歳以下の男児のいる家で鯉のぼりを立てたこと、旗のぼり・鐘馗のぼりと会わせて3本を立てる例もあったことがわかるが、三月節供の雛人形と同様に、当事家へ鯉のぼりを贈る風がみられたことは興味深い。祝いに贈る鯉のぼりは、「紙製の大鯉」であったともあるが、この時代の鯉のぼりはおもに紙製だったのであって、江戸時代もまたたいていはそうだったらしい。広重の描いた鯉のぼりも実は、紙でできたものだった可能性が大きい。

 図1 写鯉のぼり作り職人 花涙生,1898:p.33
 図1は鯉のぼり作りの職人の作業風景を描いたものだが、できあがった製品に直接、刷毛で彩色をほどこしているから、これも布製ではなく紙製と思われる。解説を見ると、「五月幟職。菖蒲葺く五月ともなりぬれば、うちひさす都大路より賎の伏屋に至る迄、のぼりを樹つるは今も其例然り、布製あり紙製あり、大なるは身長一丈二丈もあるべし。?剌として一躍龍門に登らむかな。さてまた忌まはしきは廣言吐きて腸の見透く愚かさを、五月の鯉幟とはいふぞかし」とある[花涙生,1898:p.33]。なお、先の山下重民氏も、明治の鯉のぼり事情を次のように述べているので、これも参考までに記しておこう。
旗竿ハ風の爲めに折るヽを忌む。若し折るヽことあれハ其年凶事ありといふ。故に旗竿ハ最も注意して其強きを擇ふか例なり。初生の男兒ある家ハ初節供とて殊に之を祝し、親戚よりも旗幟を贈るの慣習なり。之を樹るハ七歳を限とす。其女子のみにて男兒なき者ハ常に五月の天を睨して茫然たり。余も亦其一人なれハ此稿を艸するに臨みて積感の胸臆に逼なき能ハす。只菖蒲酒ありて聊か之を慰するのみ[山下,1893:p.5]。
男児なき家では鯉のぼりを立てることもなく、五月の空をうらめしく眺めていたといい、山下氏自身もそうだったので、それを嘆いている。跡取り男児に恵まれるということは、何にもかえがたい喜びだったわけで、この時代のそうした風潮は、今の世の感覚からは想像もできないことなのだった。
 さて、1895年(明治28年)は、ことに鯉のぼりが特に流行した年であったといい、その頃から今日見るような節供風景が一般化していったといえるかも知れない。この年の『風俗画報』の記事を、次に引用してみよう。
 本年は鯉魚の吹流し特に流行し、家々競ふて之を樹てり。晴日試みに樓上に登りて市内を望めは、大小の三十六鱗、齋しく風を孕みて空中に遊泳するさま、勇しなむといふばかりなく、其數幾百千頭なるを知らす[鶯陵,1895:p.29]。
ちなみに、この13年後にあたる1908年(明治41年)の時点における鯉のぼりの価格相場に関する記録も残されているので、それも紹介してみよう。まず通常ののぼり旗は一組で1円50銭〜30円とかなり価格に幅があり、鯉のぼりについて見ると、「金巾鯉」という布製のものの場合、6尺サイズで50銭〜1円、5間サイズで11〜23円であったという。それが紙製になると3尺サイズで2銭5厘〜10銭、5間サイズで3円50銭〜13円となり、赤い緋鯉になるとその2割高となった。竿の先に飾る矢車は1尺5寸サイズで40銭〜5円、3尺サイズで1〜13円となっている[東洋堂(編),1908:p.38]。現在の貨幣価値に換算するとどのくらいの額になるのか、正確にはわからないが、布製の鯉のぼりは決して安いものではなかったようで、紙製のそれは布製の半額程度だったらしいこともわかる。

(4)鯉のぼりの新機軸と新時代

明治維新からおよそ百年を経た昭和時代になると、もっぱら鯉のぼりのみが空に泳ぐようになり、それ以外のものが見られなくなったというのが東京の実態で、もはやいうまでもないことだろう。「屋根より高い鯉のぼり、大きな真鯉はお父さん、小さい緋鯉は子供たち〜」という童謡は、誰しもが知るところとなった。1本の竿に何匹もの鯉を飾るようにもなったが、一番上に吹き流し、その次に真鯉、さらにその次に緋鯉、それらの下には小さな鯉を泳がせるという標準形式も、一般化していく。そのようにして、今日の鯉のぼりの飾り方の基本ができあがり、定着していったということになる。
そして、引き続く平成時代に入ると、外飾りとしての鯉のぼりそのものがしだいに廃れていって、それが屋内装飾化していくこととなったのは、すでに触れてきた通りだ。とはいえ、それはおもに東京都心部で起きている近年の現象なのであって、郊外地域や農村部では、まだ少しは鯉のぼりが空を泳いでいる。各地のメーカーもまだまだ元気で、年間推計70万匹もの鯉のぼりの生産・出荷が維持されている。全国最大の鯉のぼり産地として知られる埼玉県加須市では、春ともなれば鯉のぼり作りの最盛期を迎えて毎年多忙であり、年明けから5月の節供まで休日返上での作業が続くというから、すごいものだ。創業101年を誇る当地の老舗メーカー、橋本弥喜智商店(橋本隆代表)では、10人の職人らが真っ白な木綿の生地を縫い合わせて鯉の形を作り、赤・黒・青などの顔料でそこに美しい模様を描き入れていく作業がこの季節、連日続く。大は長さ10mもの大型サイズから、小さなマンション世帯向けのものまで、いろいろ作っているが、近年は小さめのサイズが売れ筋だという[読売新聞社(編),2010]。
一方、加須市内の別の老舗メーカーである佐藤丑五郎商店(佐藤吉正社長)では近年、「金箔鯉のぼり」という新製品を売り出すようになり、好評を博している。これは、黄金色の薄く伸ばした金属板を鯉の鱗や目のまわりの布地に貼り付けた新タイプで、陽光を浴びるとキラキラと光る豪華絢爛な鯉のぼりだ。価格は真鯉が10mサイズの大型セットで約30万円となっており、通常品の2倍の値段なのだが、高級志向という需要への対応をねらったものといえよう。同商店ではさらに、真鯉の胴体部分に真っ赤な金太郎の絵を描き入れた新製品なども開発していて、買い替え需要の掘り起こしにも力を入れている[読売新聞社(編),1997]。
こうした新たな動きは、室内用の鯉のぼりにもいろいろあらわれていて、たとえば高さ1.2mほどの床置き型ポール上に2匹の鯉を取り付け、電動で尻尾を動かして泳いでいるように見せるものなども登場しており、これは大田区で精密機械工場を営む福井六郎氏が発明したものだ[田中,2014]。江戸川区の玩具メーカー、ナカジマ・コーポレーションの売り出した「ウキウキ鯉のぼり」というものは、風船型の室内用鯉のぼりで、ふわふわと空中に浮くようになっている。価格は1380円と安く、年間20万個を販売しているという。長さ50pの真鯉・緋鯉はナイロン・フィルムでできていて、付属のスプレー缶からヘリウム・ガスを注入すると、1〜2週間はタコ糸につながれて室内に浮いているとのことだ[読売新聞社(編),1997]。こうした新機軸が登場することの一方で、伝統的な紙の鯉のぼりもなお健在で、富山県富山市にある和紙製造会社、桂樹舎(吉田泰樹社長)では、室内用の紙製の鯉のぼりを今でも年間2000匹ほど全国に出荷している。サイズは約90p・80p・60pの3種類があり、赤・青・黒の絵の具で1匹ずつていねいに彩色される。手作り品なので、1日に20匹ほどしか作れないそうだが、1匹4725〜6300円ほどで販売されている[読売新聞社(編),2009]。江戸以来の紙製の鯉のぼりの生産が、このような形で今も続けられているのは、素晴らしいことだろう。東京都内では港区の覚林寺で毎年5月5日におこなわれる清正公大祭で、現在でも紙製の鯉のぼりが売られている(写真8)[長沢,2003:p.5]。
  

写真8 紙の鯉のぼり(港区覚林寺)
 さて、鯉のぼりをめぐる近年の新たな動きとして、最後にもうひとつあげておくならば、それは「群泳」イベントだろう。川の両岸を結んで何本もの長いワイヤーを張り、そこに家々から集められた大量の古い鯉のぼりを吊るして群泳させるイベントが、各地でおこなわれるようになった。もっとも有名なのは神奈川県相模原市の相模川で毎年5月になされているそれで、高田橋の上流に張り渡した長さ250mのワイヤーに、1200匹もの鯉のぼりをつないで集団群泳させているが、まことに壮観なもので、多くの人々が見物におとずれる。同様なイベントは茨城県水府村の竜神峡、群馬県万場町の町役場前、栃木県藤原町の川治ダム、埼玉県さいたま市の大宮ソニックシティなどでも開催されているが、東京都内でいえば江東区潮見のウッディランド東京のそれが有名だ[長沢,1997]。一見の価値があるので、ぜひ多くの人々に足を運んでいただきたい。鯉のぼりというものが東京の空からすっかり消え去ってしまったと、嘆くのはまだ早い。どっこいたくましく生き残っているところもあるのだし、そこにはさまざまな新機軸までもが生み出されている。鯉のぼりの新時代がおとずれているとも、いえないだろうか。
文 献
ヘンリー・スミス,1992『広重・名所江戸百景』,岩波書店.
花涙生,1898「江戸市中世渡り種」『風俗画報』156,東陽堂.
川崎房五郎,1884『新版江戸風物詩』,光風社出版.
小林武仁,2014「子の姿、戻る日願う」『読売新聞』4月26日号夕刊全国版,読売新聞社.
溝口 徹,2010「はじまり考―こいのぼり・江戸後期には主役に―」『読売新聞』4月27日号夕刊全国版,読売新聞社.
長沢利明,2003「江戸東京歳時記をあるく(第8回)―紙の鯉のぼり―」『柏書房ホームページ』2003年5月号,柏書房.
西村洋一,1994「端午の節句―わが家の祝い方―」『読売新聞』4月30日号朝刊全国版,読売新聞社.
田中健一郎,2014「都会の鯉のぼり、どこへ」『読売新聞』4月26日号夕刊全国版,読売新聞社.
東陽堂(編),1889「東京歳事記(五月)」『風俗画報』bT,東陽堂.
東陽堂(編),1908「今年の五月人形」『風俗画報』384,東陽堂.
鶯陵迂人,1895「五月幟と人形」『風俗画報』91,東陽堂.
山下重民,1893「端午に旗幟を樹るの説」『風俗画報』53,東陽堂.
読売新聞社(編),1997「鯉のぼり元気です―新機軸商品・各地の群泳―」『読売新聞』5月1日号夕刊全国版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2009「和紙でこいのぼり」『読売新聞』2月4日号夕刊全国版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2010「屋根より高く願い込め」『読売新聞』3月9日号朝刊全国版,読売新聞社.
読売新聞社(編),2011「勇壮に育って―武者絵のぼり制作中―」『読売新聞』2月21日号夕刊全国版,読売新聞社.

 
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