西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 24   2017年5月号
長沢 利明
力神の神像
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 東京都新宿区西大久保にある稲荷鬼王神社は、鬼を祀る神社としてよく知られている。ここに祀られてきた鬼はかつて鬼王権現と呼ばれ、諸病一切の平癒に霊験あらたかな福神とされており、災厄をもたらす恐ろしい鬼神とはとらえられていない。鬼を崇める神社なので、節分祭の豆まきにも「鬼は外」とは決していわず、「福は内、鬼は内」と唱えることになっている[長沢,1999:pp.25-35]。境内の井戸の脇にある手水鉢は変わった形をしていて、筋骨隆々の鬼のような姿の石像が、頭の上に手水鉢の石盥を載せて支えている(写真70)。
 
写真70 稲荷鬼王神社の手水鉢(東京都新宿区) 
 神社に伝わる言い伝えによると、この石像は文政年間(1818〜1830年)の頃より江戸幕府の幕臣、加賀美家の邸内に祀られていたものなのだという。ある時、同家の邸内で、何者かが井戸から水を汲んで浴びる音が夜な夜な聞こえるので、さてはこの像のしわざであろうと、当主が名刀鬼切丸で像を斬りつけたところ、水浴びの音は消えたが、家人がしきりに病にかかるようになった。そこで天保4年(1833年)5月、石像と鬼切丸とを当社に奉納することとなった。それ以来、この石像の肩に残る刀傷に水を注いで祈れば、熱病や子供の夜泣きが治るといって、多くの人々が参拝するようになったという。
いかにも鬼を祀る神社にふさわしい伝説で、この話の内容からすればこの石像は鬼そのもの、もしくは鬼神の姿を石に刻んだのだということになる。なるほど確かに、石像の頭上には2本の角が生えていて、まさにこれは鬼の像だ。けれども、当社の神職家ではこの石像を鬼とは呼ばず、昔から「力様(りきさま)」とか「力石(ちからいし)」と称してきたという。力様というのは、いわゆる力神(りきじん)のことで、力神とは要するに力持ちの神のことだ。強い力で重い手水鉢を支えているから、力石とも呼ばれてきたのだろう。力神の姿を刻んだ石像・木像は、まずたいてい、重い物を頭上に持ち上げたポーズを取っているもので、当社の石像はその典型的な形態といってよい。青森県の津軽地方にも鬼を祀る神社がよく見られるが、そうした神社の鳥居にはオニコ(鬼子)と呼ばれる鬼神像が取り付けられている。鳥居の束木部分に怖ろしい鬼の木像がはめ込まれているのだが、その鬼は鳥居の笠木を両手で持ち上げて支えており、稲荷鬼王神社の力神と同じなのだ。
稲荷鬼王神社は鬼を祀る神社ではあるものの、公式には主祭神として天手力男命(あめのたぢからおのみこと)を祀るという形になっている。とはいえ、天手力男命と鬼との間には何の関係もなく不自然で、それを鬼神にあてる必然性はない。それを祭神にあてたのは意外にも、この神社の境内に力神の石像があったからではないだろうか。天手力男命といえばいうまでもなく、天岩戸の堅牢な扉を開いたとされる怪力の持ち主で、力持ちということでは力神に通じるものがあろう。力神から天手力男命が連想されたというのは、何とも安易な感じもするけれども、おそらくはそれが真相だったにちがいない。神能の一曲に「絵馬」というものがあるが、その後場に天照大神(後シテ)・天女(ツレ)・力神(ツレ)の三神がそろって登場し、岩戸隠れの有様を演じる舞がある。後シテは宝生・喜多流では男体だが、観世・金剛流では女体だ[竹本,2013]。いずれにせよ、それは岩戸隠れのシーンなのだから当然、ツレの天女は天鈿女命(あめのうずめのみこと)、力神は天手力男命をあらわしている。この場合は、天手力男命から力神が連想されているわけで、割合にそれは自然な発想だったのではなかろうか。
力神の石像は、東京都青梅市の武州御嶽山にもある。御嶽山の山頂直下には、御嶽御師の集落があり、28戸の御師坊が軒をつらねている[長沢,2000:pp.4-16]。それらの御師坊の中でも筆頭的地位にあるのが金井家で、かつては金井坊とも呼ばれていた。金井家は御師家であるとともに旧宮司家でもあって、御嶽山神社の宮司職を代々つとめてきた家筋だった。
 

写真71 御嶽山御師家の力神(東京都青梅市)
 この家の広い屋敷内に、苔むした古い力神の石像があって(写真71)、金井家ではこれを「お力様(おりきさま)」と呼んでおり、屋敷神のような存在で、つねに供物などがささげられており、家人は毎日の拝礼を欠かしたことがない。私は昔、この金井家に泊めていただいたことがあるのだが、老当主の金井俊雄氏がまだ健在だった時代のことだ。同氏は御嶽山を代表する文化人・知識人として知られた人で、実に威厳と貫禄のある老神職だったが、この私を力神像の前まで自ら案内され、像の由来などについていろいろ説明して下さったことが、思い出される。それによると、この力神像は一体いつ頃そこに祀られたのか、さっぱりわからぬほど古い時代からここにあり、金井家では代々これを大切にしてきたという。もとは石像の頭上に鉄製の水盤が載せられており、力神が両手でそれを持ち上げていたのだが、戦時中の金属製品の供出で水盤が失われてしまい、石像だけがここに残されているとのことだった。なるほど確かに、石像のてっぺんは平らになっていて、そこに水盤が載せられていたことは、容易に察することができる。つまり、この力神像は形態的には、先の稲荷鬼王神社のものとほとんど変わらないのだ。
石造物としての力神像は大変珍しいもので、今のところ上記の2例以外に私は知らない。しかし、木像の作例は結構多く、寺院建築の妻飾りや山車屋台彫刻などに、よくそれが見られる。山梨県山梨市一町田中にある称名院という浄土宗寺院には、男女1対2体の力神の木像が祀られていて、このような形のものは非常に珍しい。当寺の本堂正面の、屋根の庇の下に、ぶら下げるような形で2体の大きな木像が掲げられているのだが、それが力神像なのだ[長沢,2004:p.1663・2001:pp.164-167・2005:p.453]。木像は、何とも不思議な姿をした魔物のような怖い表情をしており、同寺によるとそれは夫婦の力神像なのだという。なるほど、像を下から見上げてみると、男性器・女性器がそれぞれにきちんとついており、男女の別がはっきりとわかる。像は堂外にあるので大変目立ち、遠くからもよく見える。寺のシンボルのような存在で、檀家の人々は俗にこれを、ジキジイサン・ジキジンサン・リキジンサンなどと呼んでいるが、もちろんそれらの呼称は「力神様」から来ている。
この力神像は実は、もともと称名院にあったものではない。かつて一町田中にあって、後に廃寺となった宝珠庵という寺院の、その境内にあった薬師堂に、それは祀られていた。おそらくそれらは、薬師堂の屋根の切妻部分にはめ込まれていたものなのだろう。左右両側の妻部分に夫と妻の力神がおり、夫婦で堂の屋根を支えていたものと思われる。堂の本尊である薬師如来を守る、仁王の代わりをしていた神像だったともいわれている。宝珠庵が廃寺となり、薬師堂が取り壊される時、2体の力神像は本尊の薬師如来像とともに、称名院へ引き取られることとなったが、夫婦の力神は今では、称名院の本堂の屋根を支えているというわけだ。称名院の力神夫婦は、一町田中の住民たちにも親しまれており、昔から子供が悪さをすると、その親たちは「ジキジンサンに怒られるぞ」といって子供を叱ったものだという。力神は子供らに恐れられる、大変怖い存在だったのだ。
寺の屋根を支える力神の像は、各地に見られる。たとえば東京都台東区浅草の浅草寺観音堂の力神はことに有名で、やはり堂の切妻部分に木像がはめ込まれていた。浅草寺の観音堂は慶安年間(1648〜1652年)に建てられたもので、旧国宝に指定されていたが、残念なことに1945年3月の東京大空襲によって焼失してしまった。『新撰東京名所図会』に載せられた焼失前の観音堂の絵図には、屋根の上の力神像がきちんと描かれている(図12)。

 



図12 明治時代の浅草観音堂 『新撰東京名所図会』より
 とはいえ、浅草寺ではこれを力神とは呼ばず、天邪鬼(あまのじゃく)と称しているのだが、浅草に住む江戸っ子たちは、俗にこれを「力士(りきし)」と呼んできたのであって、力士とは金剛力士のことなのかも知れないが、力神の転訛だった可能性も考えられよう。戦後になって再建された観音堂には、天邪鬼・力士像がきちんと復元されているけれども、今のものはセメント製なのだそうだ(写真72)。
 

写真72 浅草寺観音堂の天邪鬼(東京都台東区)
 観音堂の再建記念誌には、これについて次のように記している。
二重の虹梁の中央部、大瓶束の位置に、笈形(おいがた)があり、そこに真赤な童子風の大天邪鬼(あまのじゃく)が、肘をはって蹲踞(そんこ)しながら、肩で虹梁を支えている形が、何ともいえずおおらかで、印象的な憎らしげのないものであった。またその下部の前包(まえづつみ)の左右の小型笈形の中にも、同じ形の小天邪鬼がうづくまって、恰度三角形に据えられ、俗に「力士」などといわれているアマノジャクの姿が忘れられない。こんどの新本堂にも中央部にだけ一鬼据えられたが、木彫と違いセメントで造られたため、慶安の邪鬼と比較して、形も小型で大分見劣りがする[金竜山浅草寺(編),1958:p.211]。
焼失前の観音堂には、大天邪鬼1体・小天邪鬼2体の3体が一組になって飾られていたようで、両側の妻を合わせれば計6体があったということになる。なるほど確かに、先の明治期の絵図を見ると、複数の邪鬼がそこに描かれている。よほど立派な木像であったらしく、それに比べると、現在のものは見劣りがするというわけなのだ。
東京都杉並区堀ノ内にある妙法寺は、「堀ノ内のお祖師様」の愛称で知られる日蓮宗の名刹だが、寺の中心をなす祖師堂は文化8年(1811年)に再建されたもので、東京都の有形文化財に指定されている巨大な建物だ。建物を飾る多くの彫刻類は、明和9年(1772年)に前身の祖師堂が建立された時のものが多く転用されているというから、屋根上の力神像もおそらく明和期の作ではなかろうか。真っ赤に塗られた大きな力神像を、今でも見ることができる(写真73)。
  

写真73 妙法寺祖師堂の力神(東京都杉並区)
 大きな建物の妻飾りに力神像が用いられることは、寺院ばかりでなく、神社の社殿についても見られた。長野県更埴市にある粟狭神社の本殿にも、「力神」と呼ばれる彫刻があって、これを「力士」とも呼ぶことがあったのは、先の浅草観音の場合と同じだ。この建物は慶応2年(1866年)に建てられたもので、特にその彫刻装飾にすぐれているのが特徴だという。本殿両側面の力神像は、2体とも二重虹梁を押し広げ、眼下を凝視するかのような形相をしているのだが、なぜか東側面のそれは左目の眼球が失われている。その理由を説明する地元の伝承は、次のようなものなのだった。
完成して間もない本殿には、力神像が目を鋭く光らせ、見る者をにらみつけるような威圧感があり話題となった。やがて、その威厳には何かの細工が施されているからだといわれるようになる。そして村ではその力神の目玉には水晶がはめ込まれているからだと噂された。それを聞きつけた泥棒が、この力神像の目玉には宝石がはめ込まれていると思い込み、ある晩に梯子をこの力神像にとどくように掛け、登ってその片目の目玉を刳り貫くという罰当りなことをしてしまった。それ以来、この力神像は片目のままとなってしまったという。(中略)それから数日後、この泥棒は山へ薪を取りに行き、小枝を折り曲げた拍子にその破片が片目に突き刺さり失明してしまった。その目は彼が目玉を刳り貫いた粟狭神社本殿の力神と同じ左目であった[伊藤,1998:pp.4-5]。
これは力神に関する数少ない伝説事例なので、貴重だろう。神社に祀られた力神の例を、もうひとつここに紹介しておくならば、東京都国分寺市西元町の本村八幡神社がそれだ。
  

写真74 本村八幡神社の力神 (東京都国分寺市)
 この神社の拝殿内には、まことにユーモラスな表情をした力神の神像が安置されていて(写真74)、祭礼の時にはこの像の前に賽銭箱が置かれ、一般に参拝させている。決して古いものではないが、おもしろい例だろう。この力神像は、頭上にケヤキの巨木の輪切りを載せ、それを持ち上げるポーズを取っており、神社の境内にあったケヤキの老木を伐採した際に、その余材を用いてこの像が彫刻されたものらしい。この神社では近年、実に立派な祭礼山車を新調しているが[長沢,2016:p.29]、その山車屋台の正面にも、大きな力神像が彫り込まれている(写真75)。
 

写真75 山車彫刻の力神(東京都国分寺市)
 「山車彫刻に登場する力神ということでは、東海地方の祭礼山車によくそれが見られ、立川流と呼ばれた信州諏訪の彫刻師一派の木彫作品が多く残されている[水野,2013:pp.83-106]。特に知多半島の半田市・常滑市・知多市・大府市・美浜町・南知多町・武豊町・阿久比町などの祭礼山車には、多くのすぐれた力神の彫刻が見られ、独特なものとなっている。この地方の祭礼山車の場合、山車屋台の土台部分のことを「檀箱」と呼び、そこに精巧な彫刻がほどこされることになっているが、その檀箱の四隅を肩で背負って支える雌雄の力神像が、たいてい取り付けられている。力神はまさに縁の下の力持ちとしての役割を果たしているのであるが、余談ながらこの「縁の下の力持ち」という言葉の語源についても、少し触れておくと、この言葉はもともと「縁の下」ではなく「椽の下」と書いた。「椽」とは「たるき」とも読み、要するに屋根の垂木のことだから、「椽の下」とは床下ではなく屋根の下という意味だった。大阪府大阪市の四天王寺で毎年10月に、経供養という儀式がおこなわれるのだが、その時に太子殿の前庭で演じられるのが「椽の下の舞」という舞楽で、まったく一般には見せない秘儀として知られていた。1960年代頃からようやく公開されるようになったのだが、人知れずなされる重要な儀式や仕事のことを、いつしか「椽の下の舞」と言うようになった。それが転じて、陰ながら努力することをそう呼ぶようになり、やがて字と言葉も変化して「縁の下の力持ち」と言うようになった[わぐり,2011]。寺院の屋根を支える力神は、まさに「椽の下の力持ち」だが、祭礼山車の檀箱を支えるそれは「縁の下の力持ち」ということになるだろう。
さて力神というものについて、いろいろ見てきたけれども、そもそもこの神は一体どこから出てきた神なのだろうか。日本の古代神話にも力神は登場しないし、記紀にもそれに関する記述は見られない。仏教説話には似たような神は出てくるけれども、経典の中に力神のことは特に触れられていない。純然たる民俗神であるとしても、それはあまりにマイナー過ぎる存在だ。「ちからがみ」と訓読みをせず、あえて「りきじん」と音読みをさせるのも、不可解なことではなかったろうか。よくわからない神様なのだけれども、重い物を持ち上げ、建物の屋台骨を支え続けるという大切な仕事を、ごく控えめな形で彼らは地道に果してきた。「縁の下の力持ち」というのは、まさに彼らのためにあるような言葉だ。まことに愛すべきこの神は時に、天手力男命や天邪鬼などにもあてられてきたわけなのだが、この私のイメージするところでは、力神はギリシャ神話に登場する、あのやはり力持ちの巨人神、アトラスに重なるものがあると思う。彼はオリンポスの神々と争って敗れ、その罰として両手で天を支え続ける宿命を課せられた。地理学者メルカトルの作った地図帳の表紙に描かれたアトラスは、天に代わって地球を支える姿となっている。以来、地図帳の表紙にはたいていそれが描かれるようになり、地図帳そのもののことをアトラスと呼ぶようにもなった。洋の東西を問わず、同じようなキャラクターが生み出されてきたことは、まことに面白いことだ。
引用文献
伊藤友久,1998「仕組まれた伝承」『長野県民俗の会通信』147,長野県民俗の会.
金竜山浅草寺(編),1958『昭和本堂再建誌』,金竜山浅草寺.
水野耕嗣,2013「『力神』彫刻の山車への受容―とくに立川富作の力神塑像をめぐって―」『飯田市美術博物館研究紀要』23,飯田市美術博物館.
長沢利明,1999「鬼の節分―新宿区稲荷鬼王神社―」『江戸東京の年中行事』,三弥井書店.
長沢利明,2000「御嶽山の御師集落」『西郊民俗』170,西郊民俗談話会.
長沢利明,2001「民間信仰」『山梨市史民俗調査報告書―日川の民俗―』,山梨市史編さん委員会.
長沢利明,2004「山梨市日川地区の信仰民俗(]X)」『アゼリア通信』139,有限会社長沢事務所.
長沢利明,2005「信仰」『山梨市史・民俗編』,山梨市.
長沢利明,2016『国分寺市本村八幡神社の山車』,本村八幡神社氏子会.
竹本幹夫,2013「五尉能」『読売新聞』1月28日号夕刊全国版,読売新聞社.
わぐりたかし,2011「語源ハンター・縁の下の力持ち」『読売新聞』10月28日号夕刊全国版,読売新聞社.

 
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