西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 22   2015年7月号
長沢 利明
国定忠治の伝承
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 国定忠治という侠客のことは大抵の人々が知っており、その人気は今でも非常に高い。忠治(忠次とも書く)の生きた時代には、各地に博徒の大親分がおり、遠州の清水次郎長、甲州の黒駒勝蔵・竹居吃安、上総および下総の飯岡助五郎・笹川繁三、武州の赤尾林蔵、江戸の新門辰五郎などが著名であるが、特に上州には国定忠治を始め、大前田栄五郎・観音丹治・安中草三・江戸屋虎五郎・桐生市郎兵衛など多くの侠客がいた。もちろんそれらの筆頭は何といっても忠治であって、全国的な知名度からみても、国定忠治は清水次郎長に次ぐ、第2位の地位を占めていることにまちがいはなかろう。出身地の群馬県内にあってはその人気はまさに絶大なものがあって、疑いもなく彼は郷土の英雄そのものだ。上州に生まれ育ったこの私も当然、幼い頃から忠治のことをよく聞かされてきた。何しろ身の回りには上州名物「忠治煎餅」とか、漬物の「忠治漬け」とかがあったし、三度笠に縞合羽の股旅者が背に赤子を背負った姿の、「忠治こけし(実は浅太郎こけし)」という風変わりな人形などが、どこの家の茶の間にも飾られていた。赤城山麓には「忠治温泉」があって、そこには彼が公儀の追手から逃れて潜んだという「忠治の岩屋」という名所洞窟がある。そういうものに囲まれて育ってきたのだから、ごく自然に彼を故郷のヒーローとして私たちが受け入れてきたのは自然なことで、群馬の子供たちはみなそうだったろう。
 とはいえ忠治の一代記を客観的に見れば、この親分はかなり粗暴で残忍な薄情者だったようにも思えるし、所詮は一介の極道者・ヤクザ者に過ぎなかったのだろう。彼の故郷である上州国定村の隣村、伊与久村の御用達深町北荘(重右衛門)は当時、国定忠治について次のように記していた。

忠や(忠次は)、生来遊隋を事とし、逆走横行山また川、広瀬川上に酒銭を掠め、掠奪攻盗至らざるはなし。昼は山壑に隠れて捕吏を避け、夜は徒卒を引いて通衢を侵す。処女暴に遭うて婚義を廃し、娶婦節を失って且つ共に泣く。横行誰か妨げん十年の際[伊勢崎市(編),1993:pp.533-534]。

 実際のところはこんなところであったに違いないとはいえ、伝説の美化作用はそのようなアウトローさえも故郷の英雄に仕立ててしまう。上州生まれのこの私なども、そのようにしてごく自然に忠治を歴史上のヒーローと思ってきたし、伝説がまた伝説を生み、それが史実であろうがなかろうが、忠治に関するさまざまな美談的な言い伝えが数多く流布していくこととなった。いわく、富める者から金銭を奪って貧しい人々に分け与えた、天保の飢饉の時に私財を投げ打って農民を助けた、堅気の衆には決して危害をくわえなかった、などなどの逸話はまずはもっとも一般的なもので、ヤクザ者が義賊のように扱われて英雄視をされるのは日本の伝統でもあったろう。良家の子弟が賭場に来ても中には入れず、家に連れて行って訓戒をしたなどともいい[躍進群馬信交会(編),1955:p.78]、任侠道をつらぬくがゆえに、決して二足のワラジを履くことがなかったなどともいわれている。子分の板割浅太郎が忠治の心遣いに気付かず、伯父の三室勘助を斬殺したなどと語り伝えられてはいるものの、実際には忠治が子分8人を同行させ、十手持ちの勘助を無理やり浅太郎に殺させたというのが真相だろう[斎藤(編),1997:p.65]。勘助の幼な子を引き取って忠治が養育してやったなどともいい、それがいわゆる「赤城の子守唄」の美談となって、先の「忠治こけし」を生み出したとはいえ、実際には父子もろとも浅太郎に殺さている。そして、三度笠を胸にあて、手を離しても笠が落ちなかったほど歩くのが速かったなどというエピソードまでをも含め[読売新聞社(編),2015:p.1]、伝説の主人公が民間でどのように語られ、伝承されてきたのかということ自体は、民俗学の研究テーマにもなりうる。そうした諸伝説は物語面のみにとどまらず、各地にいろいろな名所旧跡地をも生み出し、民謡や芝居などの芸能にも取り入れられていって、国定忠治に関する一大伝承複合が完成されていくこととなった。これについて、少し取り上げていってみることにしよう。
 私たちのような上州生まれの人間が幼少時に、いかにして忠治の物語を心に刷り込まれていったかというと、まずは芸能面での影響力がきわめて大きい。祭りの演芸大会などで見た忠治一代記の物語芝居や、浪曲師の語る「名月赤城山」の名調子なども子供心には強烈な印象だったし、観客の大人たちが感涙をしぼっているのを横で見ていて、何だかよくわからないが、自分までつられて感動をしていたのだった。だから、「赤城の山も今宵限り、可愛い子分のおめえたちとも離れ離れになる門出だ…」とか、「俺には生涯(しょうげえ)、てめえという強い味方があったのだ…」の名台詞を、私たちはすっかりそらんじていた。家の玄関先で、外出しようとする兄に向かい、弟の私が「親分、どこへ行きなさる!」などとしゃべって、両親に大笑いをされたこともある。そうした雰囲気の中で上州の子供たちに、この故郷のヒーローがどれほど波乱万丈な生涯を送り、いかにその侠気をつらぬいたのかを刷り込んでいく、決定的な作用をもたらしたのは、何といっても八木節民謡のパフォーマンスだったろう。
 日本全国、民謡踊りは数々あれど、この上州の八木節ほど郷土の若者たちをふるい立たせたものはないと、私は心から思うけれども、それは地元びいきゆえでは決してない。こんなに速いテンポのリズムの民謡は他地方にはほとんど見られないし、楽器のメロディは横笛一本だけで、太鼓や三味線などはいっさい用いられず、演奏者のほとんど全員が酒樽や鼓を叩くという、パーカッション主体の演奏というのも珍しい。リズム重視のハイテンポの演奏ゆえの迫力がそこにあって、今の世でいうロックンロールに通じるものがある。一人の歌い手(「音頭取り」という)が酒樽の縁を撥で叩きながら、かん高い声を張り上げて歌うボーカル・ソロ部分と、その合間に挿入される威勢の良い間奏の囃子部分との掛け合いは、静と動との、めりはりのある繰り返しで進行する。囃子は笛1人・鼓3人・鉦1人が基本だが、3人の若者が小鼓を片手に持ち、細い撥でそれを乱打するというスタイルもまことに小気味良く、ほかに例を見ない。尻っぱしょりの踊り手4人または8人が、唐傘や花笠を振り回して舞うパフォーマンスも、また見事なものだ。この八木節音頭の軽快なリズムとメロディに乗せて語られるのが、国定忠治の一代記なのだった。
 もちろん八木節の曲目レパートリーの中には、「白井権八」・「青物づくし」・「八百屋お七」などといった演目もあって[高崎市(編),1995:pp.169-171]、「ピエロ踊り」というくだけたものもかつてはあり、最近では子供向けの「交通安全八木節」などもあって、小学校の運動会のダンスにも広く取り入れられている。しかし、やはり八木節といえば何といっても、「ここに忠治のその物語、国はどこよと尋ねたなれば、国は上州佐位郡(さいごおり)にて〜」なのであって、その語りが始まれば聴衆の血は騒ぎ出す。参考までに、その忠治八木節のさわり部分を、以下に紹介してみよう。

(一)アーアアーアーさても一座の皆様方よ、わしのようなる三角野郎が、四角四面の櫓の上で、音頭取るとは憚りながら、しばし御免を蒙りまして、何か一言読み上げまする、文句違いや仮名間違いは、平にその儀はお許しなされ、許しなされば文句にかかるがオーイサネー[町田・浅野(編),1960:p.133]

 これはよく知られた一番の「歌い出し」で、ここでの「わしのようなる三角野郎が」の部分が、通常は「ちょいと出ました三角野郎が」となるのが一般的だ。引き続く二番以降は次のような展開で、忠治の前半生が語られる。

(二)アーアアーアー国は上州佐位郡(さいごおり)にて、音に聞こえし国定村の、博徒忠治の生立こそは、親の代には名主を勤め、人にゃ知られし大身者(たいしんもの)で、大事息子が即ち忠治、蝶よ花よと育てるうちに、幼けれども剣術柔術(やわら)、人に優れて目録以上、明けて十六春頃よりも、ふっと博奕(ばくえき)張りはじめから、今日も明日(あした)も明日も今日も、負けることなく勝負に強く、遂にゃ悪事と無宿が渡世(囃子)。
(三)アーアアーアー二十歳(はたち)余りの売出し男、背は六尺肉付きァ太く、器量骨柄(こつがら)万人すぐれ、男伊達にてまことの美男、一の子分が三木(みつぎ)の文蔵、それに続いて大亀源吾、ぶきな与作にひょろ松なんぞ、鬼の喜助によめごの権太、いずれ劣らぬ強者ばかり、子分子方を持ったといえど、人に情と慈悲善根の感じ入ったる若親方に、今は日の出に魔がさしたるか、二十五歳の厄年なれば、総て万事に大事をとれど(囃子)。
(四)アーアアーアー丁度その頃無宿の頭、音に聞えし島村伊三郎(いさぶ)、これと争うその始まりは、かすり場につき三度も四度も、恥をかいたが遺恨の元よ、そこで忠治は我慢をしたが、一の子分の文蔵が聞かぬ、或る日文蔵が忠治に向かい、首を的(めあて)に引導船を、腰に差したる商売ならば、飯の食い上げ捨て置かれぬと、聞いて忠治は小首をかしげ、さらばこれから喧嘩の用意、何れ頼むは強者ばかり(囃子)。
(五)アーアアーアー頃は午年七月二日、鎖帷子着込(きこみ)を着し、手勢すぐって境の町へ、様子窺う忍びの人数、それと知らずに島親分は、子分引連れ一力島(いちりきじま)の五人連れにて馴染みの茶屋で、酒を注がせる銚子の口が、もげて盃ァ微塵に砕け、稀有な事じゃと顔色変えて、酒手払うてお茶屋を出でる、さても今夜は用心せんと、左右前後に守護する子分(以下略)[同:pp.133-134]。

 二番では忠治の生い立ちが語られるが、上州佐位郡国定村、すなわち後の群馬県佐波郡境町国定、現在の同県伊勢崎市国定の旧名主家、長岡家に忠治は生まれた。父親は与五左衛門(与五兵衛とも)、母親は伊代といい、友蔵という弟がいた。正式には「忠次」もしくは「忠次郎」と称したらしく(忠二とされることも)、それならば次男坊だったろうとも思われるが、早くに兄を亡くして嫡男となっていたのかも知れない。本名は長岡忠次郎だったに違いなく、記録類にもたいていはそのように記されている。父は1819年(文政2年)に、母は1845年(弘化2年)に没しているが、無宿人となる忠治が長岡家を継ぐことはなく、弟の友蔵が家督を相続した。要するに忠治は裕福な家に育ったボンボン息子で、貧しい階級の出だったために道を踏み外して、ヤクザ者になったというわけでは決してなかったのは、清水次郎長などと同じだ。大前田栄五郎・黒駒勝蔵・竹居安五郎などもまた、生家は代々名主級の家だった[萩原,1980:p.197]。農民の出でありながら剣術の稽古に明け暮れ、隣の赤堀村にあった馬庭念流直門の本間道場に通ったといい、寺小屋は隣の伊与久村の私塾、五惇堂で論語や孟子を学んだとも伝えられている。しかし、16歳(一説には13歳)になった頃から博徒の道へと入り、17歳の時に無宿人となった。「無宿」というのは五人組帳からその名を抹消された「帳はずれ」になることで、上州では寛政〜文政期(1789〜1829年)に無宿人が非常に増えた[伊勢崎市(編),1993:p.530]。20歳の頃には何人もの子分を抱える親分格になったという。一の子分は三木(みつぎ)の文蔵、二の子分が大亀源吾だ。
 なお、ここに掲げた八木節の三番では忠治の姿恰好について、身長は6尺(約180p)ほどで骨格・肉づきがよく、やや太り気味で美男子だったと語られている。当時の人相書によると、「国定村無宿忠次郎、寅三十歳余。一、中丈、殊之外ふとり、顔丸ク鼻筋通り色白き方、髪大たぶさ、眉毛こく、其外常躰角力取体ニ相見候」とある。背丈は中ぐらい、色白で太っており、相撲取りのような立派な体格だったというのだが、唯一残る肖像画にもまったくその通りの姿でそれが描かれている[群馬県立博物館(編),1968:p.2]。この肖像画は下野国足利の絵師、田崎草雲の描いたもので、この絵師は実際に忠治と茶店ですれ違ったことがあるといい、その時の記憶をもとにこれを描いたというから、かなり正確なものだろう。たくましい体つき、鋭い眼光、何ともふてぶてしい面構え、全身にあふれる貫禄とオーラは、まさしく伝説的な侠客の風格をしのぶに充分だ。腰に差した長脇差は、まさしく「上州長脇差」のシンボルで、通常の脇差は1〜2尺の長さだが、侠客の用いたそれは2尺5寸ほどの長さだった。武士ではないので当然、一本挿しなのだ。忠治の逮捕に実際に立ち会った当時の役人が、維新後に語った証言によれば、「忠次を召捕て參りましたから見ましたが、定めて大惡人の相貌あらんと思ふて居りましたら、案外柔弱の様子で、柄も小作りでおとなしい男で、まづ人惚れのする恰好でありました」と述べられている[小川(編),1891:p.109]。
 八木節の四番・五番では、宿敵島村伊三郎一家との対決シーンがくわしく語られているが、伊三郎とは国定村の東方、島村(後の境町内)・木崎(後の新田町内)方面に縄張りを持つ博徒の親分だ。その伊三郎一家の賭場で、忠治の一の子分三ッ木文蔵(三ッ木は新田郡世良田村の地名)が一家に殴られたことの意趣返しに、殴り込みの決闘が展開されることとなった。そうして伊三郎は世良田村北岡の原山で忠治一家によって討たれたのだが、それは1834年(天保5年)7月2日のことだった。八木節音頭に語られる忠治の一代記は、この後も延々と続くのだが、長くなるので省略するものの、最後の「歌い止め」の部分だけは、以下に引用しておこう。

アーアアーアーもっとこの先読みたいけれど、上手で長いは又よけれども、下手で長いは穏座(おんざ)の邪魔よ、やめろやめろの声なきうちに、ここらあたりで段切りまするがオーイサネー[同:p.134]

 さらに、忠治物語を手短くダイジェスト版で語る、次のような八木節の歌詞文句もあるので、これも参考までに紹介しておこう。

ハアーお集まりなされる皆さん方へ、私のようなぼんくら野郎が、よせばよいのにまた出てしゃべる、そのうえ文句は何だと聞けば、音に聞こえし国定忠治、時間くるまでつとめましょう
ハアーころは弘化の丙の午の、秋のころから大小屋かけて、夜も昼もの差別もなしに、あまり悪事が増長ゆえに、上の役人の耳にも入り、広い天下の身の置きどこは、赤城山にてうぐいす谷よ、鳥も通わぬ砦の中で、女房お徳に眼掛け妾のお鶴、どちらの劣らぬ強者揃い、敵は大勢味方は無勢、やむなく忠治は涙をのんで、赤城山をば後にする
ハアーもっとこの先よみたいけれど、事はこまかにおわかりでしょう、もはやわたしの受け持ち時間、後は先生にお頼み申す[伊勢崎市(編),1989:pp.573-574]

 国定忠治の一代記は八木節の歌詞のほか、さまざまな資料にも記録されており、かなり正確な事実が判明している。ここで、それらをまとめて年表に整理してみるならば、次のようになるだろう。通常の年表ならば、その人物主人公が一生を終えるまでを記述すればよいけれども、ここでは1850年(嘉永3年)12月21日に忠治が処刑された後の時代におけるできごとをもカバーし、平成時代の今日に至るまでを記してみた。すなわち、刑死後の忠治が人々にどのように受け入れていったのかということを含めて、この年表は作成されている。すなわち刑死直後から早くも始まる一代記の編さん、墓や地蔵の建立、娯楽芸能作品の発表へと至る、いわば死後の忠治の一人歩きの軌跡という側面も、取り上げられていかねばならない。さまざまな形を取って生み出された大正から昭和にかけての、娯楽作品の存在は、とりわけ重要だろう。講談の「馬方忠治」・「岩鼻代官殺し」・「赤城の子守唄」などがまず生まれ、大正時代には松竹キネマの手で初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」がすでに作られている。その後、浪曲でいえば広沢虎造、歌謡曲でいえば東海林太郎が活躍し、「名月赤城山」・「赤城の子守唄」などが大ヒットを見せた。主人公の忠治を演じた名優は、新国劇でいえば沢田正二郎・島田正吾・辰巳柳太郎ら、映画でいえば市川雷蔵・阪東妻三郎・片岡千恵蔵・三船敏郎らなのだった[中島,2008:pp.222-223]。

表4 国定忠治関連年表 
ここか表をクリックしてPDFファイルをご覧ください。
 
 
 さて、この年表に見るように、忠治一家が旗揚げをしたのは1830年(天保元年)頃のことだったようだが、その縄張りの経営のやり方は、多くの子分衆を「代貸元」として抱えつつ各地に配して賭場を開き、忠治自らは「博奕渡世頭取(ばくちとせいとうどり)」あるいは「差配(さはい)」などと名乗って君臨し、各地の賭場から利益を上納させるというシステムだった。縄張りが広域化していくにつれ、隣接の同業者たちとの対立やトラブルが起きるのも当然で、先の島村伊三郎との対決も避けられなかったことなのだろう。伊三郎一家への殴り込み事件のことまでは、八木節音頭の歌詞を引きながらすでに触れてみたけれども、その後はどうなったのだろうか。伊三郎の事件後、忠治一家は信州へと逃げ、赤城山山中にも身を隠したと伝えられが、当然公儀もこれを放ってはおかない。忠治一家は関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)より追われる身となるが、その間の動向について近年、新しい記録が見つかっているので紹介してみよう。その記録は山田郡大間々町(現在のみどり市)の修験者、大泉院良賢の残した日記史料で、以下のように記されている。

[天保9年(1838年)3月29日]
国定村忠治手当之所逃去り行衛相知不申所、いまた遠く逃去事ニ者無之、此辺之山ニ隠れ居り可申趣ニ而、村々宿々より人足多分差出し狩出し可申旨、御取締出役方より急廻文之御触有之、当町よりも今朝町役人相始メ百人余も出候由
[同年4月7日]
国定村忠治所々村々野山御尋之所、いまた相知不申ニ付御取締方五頭、当所大塚宅江御泊りニ而、今日も人足多分出厳重なる御手当之由
[同年閏4月6日]
国定村忠次かり込一件入用かヽり、組合村々割合勘定有之候由ニ而、権右衛門代として小文太来り立寄る[大間々町誌編さん室(編),1996:pp.224-228]

 1838年(天保9年)の3月から4月にかけて、忠治一家は上州の東部地方に潜伏していたらしいことがわかるが、関東取締出役ら100人もの人足を出動させ、大がかりな山狩りをこころみたものの、逮捕することはできなかった。捜索に要した多額の費用は、村々の大変な負担にもなっていたらしい。なお、文中にいう「御取締出役」というのが、関東取締出役のことで、いわゆる「関八州取締出役」・「八州廻り」のことだ。1805年(文化2年)に幕府勘定奉行の配下に創設された警察機構で、今風にいうなら、いわば広域暴力団取締本部ということになり、天領・私領の区別なく警察権を行使することができた。
 忠治が赤城山に隠れたということは、広く語り伝えられてきたことだが、その潜伏場所とされる山中の洞窟3ヶ所が、伝説地として今も残されている。ひとつは冒頭にも触れた赤城南麓忠治温泉の「忠治の岩屋」で、不動滝の上にあるその洞窟がもっともよく知られている。もうひとつは赤城山中北西の鈴ヶ岳にある洞窟で、大正時代に志賀直哉がここをおとずれている。さらにもうひとつが、南麓の勢多郡新里村新川にある善昌寺裏山の洞窟で、いずれも地元では忠治の潜伏地と伝えられてきたのだったが、実際に3ヶ所とも用いられていたのかも知れない[萩原,1980:pp.197-198]。3ヶ所をたくみに移動しながら、点々と潜伏先を変えていた可能性もあるということだ。
 その4年後の1842年(天保13年)、いわゆる浅太郎事件が起きて、一家はさらに公儀に追い詰められていく。その5年前に田部井村の賭場が大規模な手入れを受けた時、その場に居合わせなかった子分の板割浅太郎(浅次郎とも)の、公儀への内通が疑われることとなった。浅太郎の伯父、三室勘助は二足のワラジを履く同業者だったため、浅太郎が勘助に密告をしたのではないかというわけだ。浅太郎は身の潔白を証明するため、勘助とその子の太郎吉(勘太郎とも)を殺す。芝居などでは、浅太郎は太郎吉を背負って赤城山に逃げたということになっており、「赤城の子守唄」の物語はそこから生まれたわけだが、もちろん事実ではない。この事件の後、忠治一家はまたしても信州への逃亡をくわだてることとなり、その際に浅太郎と日光の円蔵は八州廻りに捕えられてしまう。浅太郎は死罪になったというが、最近になって信州から相州へと落ちのび、天寿をまっとうしたとの説も出されてきている[伊勢崎市(編),1993:pp.540-541]。なお、浅太郎に殺された勘助・太郎吉父子の墓は、伊勢崎市上諏訪町に今もあり、父親の墓のすぐそばに並んで立っている太郎吉の小さな墓石が何とも哀れで、同情を誘う。勘助の墓石には「天保十三寅年九月八日、三室村中島勘助、行年四十三歳」、太郎吉の墓石には「天保十三寅年九月八日、覚然童子三室村中島太郎吉」との銘文が見られる。同市内立作には、忠治に殺された先の島村伊三郎や、一の子分だった三ツ木文蔵らの墓も残されている。
 1850年(嘉永 3年)8月24日、田部井村(後の佐波郡東村)の名主宇右衛門宅にかくまわれていた忠治は、密告によってついに縄を受けることとなった。持病の中風で、ほとんど動けない状態だったという。江戸送りとなり、吟味を受けた忠治に下された判決文は、勘定奉行池田播磨守の処刑一件として残されており、これは捨札として刑場にも掲げられた。以下に引用してみよう。

嘉永三年十二月国定忠治郎磔刑并警備記事
 嘉永三戊年十二月廿一日、大戸御関所ニ御仕置有、其捨之写御出役名前拾壱村割合控
  国定無宿忠次郎 戊四拾壱歳
此者儀無宿身分ニ而長脇差を帯、又者合口等所持、博徒数多子分ニいたし、上州田部井村たつ宅其外最寄国々所々野田山林等、又者右宇右衛門申合溜井浚ニ事寄、横行ニ小屋場取立、同類多人数手合ニいたし筒取貸元ニ成以塞(賽)博奕相催、元居村清五良・無宿安五郎等へ代貸元をも為致、其節ニてら区口之子或者上銭与名付金銀請取、其上博奕渡世頭取或者差配与唱、此者江無沙汰ニ博徒等寄合博奕相催節者、長脇差を帯踏込其場ニ有之金銀大集取、安五郎江者右差配差免、所持之落札一分通り呉遣、又者無宿佐与松手目博奕いたし、村々百姓共を欺多分之金銭掠取趣承りおよひ、博奕渡セ風儀ニ拘候抔申聞、首代与名付金子為差出、殊ニ子分之内無宿文蔵儀博奕賭銭取引之儀ニ付、無宿伊三郎与口論之上打擲ニ逢、残念之由咄シ聞を承り、子分之者右様打擲受候を捨置ならハ伊三郎之強気ニ臆ス抔、他之嘲を受候も口惜儀与心得、右憤りを可為晴文蔵へ助力ニおよひ、同国境村地内ニおゐて、同人倶々伊三郎を殺害およひ、追而右文蔵関東取締出役之ものニ召捕る?節者、文蔵を可取戻与多人数申合得物等携、右出役旅宿同国木崎宿近辺三ツ木山迄押参り、又右田部村又八宅借受、同類其外呼集博奕相催之砌、兼而此者兄弟契約いたし置、無宿浅次郎并同人子分之者共不相越不審之儀与存居候折柄、取締出役捕方として立越候趣、右宇右衛門為知越スニ驚逃去候なれ共、其節右浅次郎伯父同国八寸村勘助儀、右出役道案内ニ成罷越由追而承り込、右浅次郎及変心勘助与同道いたすより同人差口ニ而、右躰手配相成儀与疑ひ浅次郎を呼寄、右次第ヲ以相咎メ其分ニ難差置、若存命罷在度候ならハ、勘助首級を携参り申披可致抔強勢(制)申懸候故、浅次郎儀終ニ伯父勘助を殺害仕儀相成、剰無宿長兵衛儀信州路ニおゐて、同国中野村忠兵衛倅原七ニ被及殺害候趣承り込、仇討可致与子分者共多分引連鑓鉄炮等携押参候砌、右道筋大戸御関所有之往来差支候与て、右御関所を除山越いたす段不恐 公儀いたし方、殊ニ右躰品々悪事およふ、身分召捕方探索可遁ため取締出役道案内等心得居候もの共へ金子相送り、追而病気付右宇右衛門方へ罷越養生中、兼而密通いたし居候同国五目牛村仲右衛門養母とく、其外妾同様ニいたし置まちを呼寄看病為致、立隠れ罷在候始末、旁重々不届至極ニ付磔ニ行ふもの也
御仕置御出役覚
 関東御取締四頭 安原憙作様・関畝四郎様・吉岡静助様・渡辺園十郎様
 御見使     秋 汲平様
 御証文     秋葉賢治郎様

 以上のような罪状によって、「旁(かたがた)重々不届至極ニ付き、磔ニ行ふもの也」と結ばれたこの判決文には、公儀役人による次のような解説も付けられている。

十二月廿一日正辰ノ刻、大戸ニ而御仕置相済、皆人足坂上六ヶ村三百人色分八巻青赤黄白黒桃色六色八巻、六尺棒壱人壱本宛、壱番組弐番組三番組四番組五番組六番組幡(旗)ヲ立相堅め申候、誠ニ前代未聞之磔也,石川五右衛門此方也ト言、余(与)力同心四人岡引五拾弐人、かため人足弐百人ニ而江戸より大戸迄参候、又捨札正月五日以吾妻山田へ立候ト言、右忠次郎御仕(置)場ニ而一ト鑓ついてからつき仕舞迄ニ、手前愚詠致、十二鑓つき納ニ成候
 松風ニ草木もなびくあきつ(カ)すや実にありかたき御代の御仕置 素来
嘉永三庚戌年[群馬県史編さん委員会(編),1978:pp.853-854]

 江戸から上州大戸関所の刑場まで護送された忠治は、そこで磔の刑に処せられることとなるが、その処刑にあたっては江戸からは与力・同心4人、岡引52人、人足200人、地元6ヶ村からは人足300人が動員されたという。「誠ニ前代未聞之磔也,石川五右衛門此方也ト言」という言い方はまったく誇張ではなかった。刑場内には、三百人の人足を青・赤・黄・白・黒・桃色の鉢巻で区別しつつ6班に分けて配置し、警護をさせるというものものしさだ。もちろんそれは、子分たちによる忠治奪還のくわだてへの対処のためだったろうけれども、見せしめとしての意味も多分にあったに違いない。こうして衆人の見守る中、左右の脇腹から12本の槍を貫かれ、忠治は絶命するに至った。
 かくして忠治の波乱万丈の一生は幕を閉じることとなるが、その人生は巷間に広く語り伝えられて物語ができあがり、ゆかりの旧跡地の顕彰がなされていくことともなった。忠治人気の高まりは、むしろその没後に最高潮に達したといってよいのだろう。たとえば上州大戸の処刑場には、処刑直後から多くの「参詣客」がおとずれるようになった。忠治の処刑地とは先述のごとく、要するに中山道の大戸関所近辺のことで、忠治一家は1842年(天保13年)、槍・鉄砲で武装して大胆にもこの関所を公然と破り、信州へと逃れた。忠治逮捕時の直接の容疑は、公式には関所破りの罪ということなのだったから、江戸での裁きを受けた後の彼は、再びこの大戸関所へと送られて磔にされることとなる。
 大戸関所跡は現在の群馬県吾妻郡吾妻町大戸にあり、大きな記念碑が信州街道沿いに立っている。この関所は1631年(寛永8年)に設けられた中山道碓氷関所の脇関で、1869年(明治2年)に廃止されるまで、つねに4人の監吏が置かれていたという。忠治は当初、関所を破るつもりはなかったが、関所役人らが一家を怖れてみな逃げ出してしまったので、やむなく無断でそこを通り抜けたとする伝承や[斎藤(編),1997:p.179・阿部,1999:p.16]、いやそうではなく関所を避けて山越えで信州へ入ったのだとする説なども聞かれる[群馬県高等学校教育研究会歴史部会(編),2005:p.213]。なお、忠治の処刑地は関所跡から約1qほど離れた場所にあり、今そこには「忠治地蔵」と称する立派な石地蔵が祀られ、多くの人々が訪れて香華の絶えることがない。忠治の慰霊のために建てられた地蔵尊はほかにも何ヶ所かにあり、彼を慕う人々や熱烈な忠治ファンの手で、それらが維持されてきた。
 たとえば、忠治の潜伏先の信州側にも「忠治地蔵」と称するものが祀られていて、長野県須坂市上町(かんまち)の寿泉院(龍頭山・曹洞宗)という寺の境内にそれがある。博徒の親分というものは、各地に妾を囲っていることが多かったようで、忠治も本妻であるお鶴のほかに、お徳・お町・お妻といった何人かの愛人の存在が知られている。信州にいたその一人が、畔上つま(お妻)という女性で、忠治処刑の3日後にあたる1850年(嘉永3年)12月24日に、忠治の慰霊のためにこの地蔵を祀ったと伝えられる。確かに地蔵には「嘉永三年十二月二十四日、国定忠次之像、世話人畔上つま」と刻まれており、中風を病む忠治が信州の野沢温泉で湯治治療にあたっていた際、身の回りの世話をしたのが愛人つまだったといい、この石地蔵ももともとは野沢温泉に祀られていたのだが、ゆえあって1950年(昭和25年)、須坂市の寿泉院に移されている。「国定忠次之像」と刻まれているのだから、つまは忠治に似せて地蔵を彫ってもらったのだろうが、なるほどふっくらとした丸顔の石地蔵で、確かに忠治の顔立ちを思わせるものがある。1980年代に撮影されたその写真を見ると、地蔵が寒かろうと信徒が法被などをかぶせているが[笹沢・萩原,1980:p.195]、近年この石地蔵に縞の合羽と三度笠を着せ、股旅者の姿をさせるようになり、それが大変に評判を呼ぶようにもなった(写真52)。
 

写真52 寿泉院の忠治地蔵(長野県須坂市)
 同寺の檀徒らが自ら合羽を縫い、三度笠は土産物屋から買ってきて奉納したとのことで、「忠治は侠客なのだから、やはり股旅姿がよいだろう」と考えたのだそうだ。「中風地蔵」と呼ばれることもあり、忠治の持病にちなんでいるが、中風や脳溢血の平癒を祈願するためにおとずれる信者が多く、地元の人はあまり来ないが、県外の群馬・新潟方面から熱心な信者が今でも多くたずねてくるという。この忠治地蔵の祭りは春秋の年2回(4月戸10月の第三もしくは第四日曜日)、地元上町全体でおこなわれており、町会の区長や役員一同が参列して法要をおこない、地区の平穏無事と住民の健康とを祈願することになっている。
 その後の2012年8月、忠治地蔵がもともと祀られていた下高井郡野沢温泉村に、再び忠治地蔵が新たに祀られることになり、温泉街の忠治地蔵が復活することになったのは、まだ記憶に新しい。それを報じる『信濃毎日新聞』の記事を、以下に引用してみよう。

下高井郡野沢温泉村の有志が、江戸時代後期の侠客国定忠治を供養する地蔵を温泉街に設置した。忠治は中風の治療で野沢温泉に滞在したと伝えられている。有志らは「さまざまな人を受け入れた野沢温泉の人の温かさを後世に伝えたい」とし、17日は地蔵の開眼法要をした。有志は70〜90代の約10人と協賛者約20人。呼び掛け人の村文化財保護審議会委員長富井盛雄さん(77)によると、忠治は野沢温泉に滞在し、畔上つまという女性の世話を受けた。つまは忠治が処刑された3日後に、忠治を供養する地蔵を建てたとされている。関係者らによると、この地蔵は須坂市の個人宅に移り、1950(昭和25)年、同市の寿泉院境内に安置された。同寺によると今も年2回、地域の人が参加して忠治の供養をしている。忠治の出身地群馬県からも年1回、団体が須坂市の地蔵を訪れる。「忠治やつまのこと、地蔵のことを知る人が温泉街で減ってきたので、何とかしなければと思った」と富井さん。つまが建てた地蔵は須坂で地域に根付いているため、友人と共に新たに地蔵を建てることにした。賛同者を募って資金を確保し、村内の石材店から地蔵を買った。新たな地蔵は高さ約50センチ。須坂に移った地蔵に似せて、体形や顔がふっくらとした物を選んだ。元の地蔵と同じ無人の堂のそばに置き、由来を書いた看板も掲げた。富井さんは「つまが自分の世話する人が侠客だと気付いていたかはわかりませんが、野沢の人は昔から、職業や身分を問わずに湯治客を受け入れてきました。そんな心を大事にしたい」と話していた[信濃毎日新聞社(編),2012]。

 先述のように、畔上つまの手で忠治地蔵が野沢温泉に最初に建てられたのは、忠治処刑の3日後、すなわち1850年(嘉永3年)12月24日のことだったのだが、新たに祀られた忠治地蔵は、のちに須坂市の寿泉院へ移されたものとよく似ており、丸顔の可愛らしい表情の石地蔵だという。野沢温泉での伝承によると、忠治は大笹街道の抜け道を熟知していて、何度も上州から信州へとやってきており、今の須坂市内や長野市内権堂村などを泊まり歩いていたとのことだった。
 ところで「忠治地蔵」は何と、東京都内にもあった。「あった」というのは、今はもうないということなのだが、東京都荒川区荒川7丁目の東源寺という寺の境内に、かつてそれが祀られていた。忠治を捕えた公儀の役人の子孫とされる人物がそれを建てたと伝えられる[やまひこ社(編),1987:p.19]。東源寺はごく最近、檀家の減少などによって寺院を維持できなくなり、残念なことに廃寺となって、忠治地蔵は埼玉県の方に引き取られていったと、旧住職夫人は語っておられるが、今それがどこにあるのかはよくわかっていない。注目すべきは、この東源寺の忠治地蔵を打ち欠いて行く参拝者が結構いたということで、打ち欠いた石のかけらは、勝負事に御利益があったという。賭事をする人々が、その石のかけらを御守りにして勝負にのぞむと、必勝が約束されたというのだ。多くの参拝者にその身を削られ続けたため、石地蔵の痛みは激しく、あちこちに補修の跡が見られたという。こうした信仰習俗は、もちろん博徒忠治にあやかろうとして、博打打ちが始めたことなのだったが、著名な博徒・侠客・盗賊などの墓石もまた、そうした動機からよく削られ続けたもので、そうした例があちこちに見られる[長沢,1986:p.11]。
 たとえば、静岡県静岡市の梅蔭寺にある清水次郎長の墓石もやはりさかんに削られており、そのままでは消滅してしまうので、今では金網で囲って保護しているが、その隣にある大政(山本政五郎)・小政(吉川冬吉)の墓石もまたかなり削られて、すっかり丸くなってしまっている。同じ清水一家でも、森の石松の墓は同県周知郡森町の大洞院にあるが、これもすっかり削られてほとんどなくなってしまい、今あるものはその後に建てられた二代目の墓石であるという。荒神山の決闘で有名な吉良仁吉の墓は同県幡豆郡吉良町の源徳寺にあるが、あまりに削られるのでその破片を勝々石と称し、今では寺から希望者に配るようになっているというのだから驚きだ[角南,2014:pp.1-4]。東京都内でいえば、墨田区両国の回向院にある鼠小僧次郎吉の墓石があまりにも有名で、寺では墓石を保護するため、本物の墓石の前に柔らかい石材で作られた代替墓石をいくつか建て、そちらの方を削ってくれるようにと参拝者に訴えている(写真53)。
 

写真53 鼠小僧の墓(東京都墨田区両国回向院)
 墓前には今でも毎日、ギャンブラーのみならず受験生なども多くおとずれていて、日々それは削られ続けており、今ある代替墓石は一体、何代目のものかわからないとのことだ。なお、鼠小僧次郎吉の墓は荒川区の千住回向院にもあるが、こちらも今ではすっかり磨滅してしまっており、本物の方は金網で保護されている(写真54)。
 

写真54 鼠小僧の墓(東京都荒川区千住回向院)
 そのほかの例もいくつか見てみよう。豊島区南池袋の雑司が谷霊園にある鬼薊清吉の墓石もまた、博奕打ちや受験生らに散々削られて丸くなってしまっているが、やはり勝負事の祈願がさかんになされてきていた(写真55)。清吉は1776年(安永5年)生まれの大盗賊で、1805年(文化2年)6月20日に行年30歳で没しており、その墓は元浅草吉野町の圓常寺にあったものの、1913年(大正2年)に雑司が谷霊園へ移されている。磨滅したその墓石に刻まれた、「武蔵野にはびこる程の鬼薊今日の暑さに枝葉しほるる」の辞世を、今でもかろうじて読むことができる。埼玉県内では赤尾林蔵という侠客の名がよく知られているが、同県坂戸市内にあるその墓をおとずれてみると、賽銭はたくさん上っているものの、墓石はまったく削られておらず、不思議だ(写真56)。
 博徒・盗賊の類ということではなく、吉原の著名な遊女、高尾太夫などもまた、それにあやかろうとする人々が多数いたと見え、その墓石が削られることがあった。台東区の春慶院という寺にある高尾の墓石は、削られるというよりは打ち欠かれており、随分損傷を受けている(写真57)。
 さらに墓石ではなく、神社の狛犬などもまた削られることがあった。愛知県南設楽郡鳳来町の鳳来山東照宮の狛犬がそれなのであるが、この場合は第二次大戦前の時代に、出征者らが弾丸除けの守りとして、さかんにこの狛犬を打ち欠いて行った。今あるものは三代目とのことだが、すっかり丸く削られてしまい、ほとんど原形をとどめていない。徳川家康の武運にあやかる祈願習俗だという[加藤,2000:pp.29-31]。東京都狛江市の圓住院という寺の境内に祀られている馬頭観音碑もまた、散々に削られ続けてほとんど原型をとどめていないが(写真58)、これはギャンブラーたちが削っていったものだという。狛犬や馬頭観音まで、削られることがあったというわけなのだ。
  

写真55 鬼薊清吉の墓(東京都豊島区)


 

写真56 赤尾林蔵の墓(埼玉県坂戸市)


 

写真57 高尾太夫の墓(東京都台東区春慶院)


 

写真58 博奕祈願の馬頭観音(東京都狛江市圓住院)
 それでは、ここでの国定忠治の墓の場合はどうだったのだろう。やはりそれはさかんに削られていたのであって[躍進群馬信交会(編),1955:pp.220-221]、博徒忠治の絶大な人気は、ギャンブラーたちのあこがれの対象でもあり、いわば博奕の神様としてあがめられてきた。そもそも忠治の墓は一体どこにあるかというと、それは何と三ヶ所もあり、英雄の墓というものは得てして増殖し、方々にそのコピーを生み出していくもので、時にはその本家争いが繰り広げられることもよくあった。清水次郎長の墓もまた何ヶ所かにあるし、江戸の鼠小僧次郎吉のそれも先述の通り、両国と千住の2ヶ所にあった。吉原の高尾太夫に至っては何と、7ヶ所もの墓が確認されている[長沢,1997]。国定忠治の場合は、故郷の群馬県伊勢崎市内の養寿寺と善応寺の2ヶ所、長野県長野市内に1ヶ所の計3ヶ所に墓があり、それらはきちんと分骨のなされたものと思われるので、その意味ではいずれも本物の忠治の墓とみてよい。そして3ヶ所の墓は、それぞれに忠治伝説にかかわる重要な旧跡地・伝承地としての意味をも、持ち続けてきた。これについて、次に触れてみることにしよう。
 国定忠治の墓の第一は、群馬県伊勢崎市国定(旧佐波郡境町国定)1-1247の金城山養寿寺(天台宗)の境内にある(写真59)。同寺は忠治の生家である長岡家の菩提寺なので、処刑後の遺体が実家に引き取られ、ここに埋葬されたものと思われるが、墓石が建てられたのは忠治の三十三回忌にあたる1882年(明治15年)のことだったともいう。生家の長岡家の墓地もその近くにあって、同家累代の当主がそこに眠っている。その長岡家墓地の墓碑解説によると、同家の家督を忠治が継ぐことがなかったため、分家に出ていた弟の友蔵(友造とも)の嫡男、権太が本家に戻って相続をしたといい、以来その婿養子である石次郎、その嫡男である藤之助、そのまた嫡男である光石が代々家督を継承した。忠治の父、与五右衛門から数えて6代目の子孫が現当主の長岡光石氏で、同氏は地元農協の役員なども勤めた評判の声望家だった[笹沢・萩原,1980:p.174]。養寿寺の忠治墓を見て驚くのは、先述の清水次郎長や鼠小僧の場合と同様、その墓石が徹底的に削られて、すっかり丸くなり、坊主頭のようになっているということで、法名すら読み取れない。最初の墓石はすでに完全に削り去られて消滅してしまい、新しいものをまた建てたが、それもまた削りまくられ、今あるそれは二代目なのだという。墓の周囲を念入りに鉄柵で囲い、保護をしているものの、この二代目もいつかは消え去るのではなかろうか。忠治ほどの高名な侠客ともなれば多くのファンがいて当然で、主としてギャンブル必勝・中風平癒の祈願目的に墓石が削り取られていくのだが[中島,2008:p.22]、削り取った石の粉を飲めば賭事に強くなるとさえ言われていた[斎藤,1997:p.64]。ギャンブル必勝はわかるが、中風除けの祈願とはどういうことかというと、中風を病んで情婦宅に伏せっていたという忠治の最期から生まれた信仰にもとづいている。
  

写真59 養寿寺の国定忠治墓(群馬県伊勢崎市国定)
 1930年(昭和5年)に養寿寺の忠治墓をたずねた同郷の詩人、萩原朔太郎は、その時の様子を次のように記している[竹内,1980:p.191]。

烈風の砂礫を突いて国定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるえて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。我れ此処を低徊して、始めて更に上州の?殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る[萩原,1976b:pp.138-139]。
詩人の眼前におそらく、まだ初代の忠治の墓石が立っていたのだろう。その墓前で作ったという彼の詩、「忠治の墓」は次のようなものだった。
わがこの村に来りし時/上州の蚕すでに終りて/農家みな冬の閾(しきゐ)を閉したり。/太陽は埃に暗く/悽而たる竹藪の影/人生の貧しき惨苦を感ずるなり。/見よ此処に無用の石/路傍の笹の風に吹かれて/無頼の眠りたる墓は立てり。/ああ我れ故郷に低徊して/此処に思へることは寂しきかな。/久遠に輪廻を断絶するも/ああかの荒寥たる平野の中/日月我れを投げうって去り/意思するものを亡び尽せり。/いかんぞ残生を新たにするも/冬の?条(せうぜう)たる墓石の下に/汝はその認識をも無用とせむ。―上州国定村にて―[萩原,1976a:pp.127-128]

 養寿寺の忠治墓の隣には、黒ボク石を積み上げた大きな築山が設けられ、その頂きには高さ4mもの巨大な石碑が立っていて、正面に「長岡忠治之墓(碧雲書)」と刻まれている。裏面には忠治の法名があって、「長岡院法誉花楽居士、嘉永三年十二月二十一日没、明治四十二年十二月二十一日、建石者長岡利喜松・長岡波三郎・長岡石次郎、沼田藤三郎刻」との銘文があるが、ここに記された長岡一族の手で忠治の没後60年忌の年にあたる1909年(明治42年)にこの碑が建てられたことがわかる。各地の八木節愛好者らが建てた八木節記念碑などもそのかたわらにあり、養寿寺の本堂隣には忠治の遺品陳列館などもあって、彼の愛用した道中合羽・短筒(拳銃)・長脇差・武具や等身大の木像などが展示されている。

 忠治の墓の第二は、群馬県伊勢崎市曲輪10-11の施無畏山鏡泉院善応寺(天台宗)の境内にある(写真60)。
 

写真60 善応寺の国定忠治墓(長野県伊勢崎市曲輪)
 JR両毛線伊勢崎駅に近い同寺の本堂前に、今その墓は立っているが、寺にほど近い旧五目牛(ごめうし)村に住んでいた忠治の愛人の一人、お徳が役人の目を逃れて自宅裏にひっそりと建てたのがこの墓だったという。お徳は刑場から忠治の遺体の片腕を持ち帰り、この墓に葬ったとも伝えられる[萩原,1980:p.199]。その後、同村内にあった末寺のヤブの中に移されて、誰の目にも触れることなく、ひそかに供養が続けられてきたとのことだ。明治維新後にその末寺が無住になった後も、親寺の善応寺から年に一度は住職が墓前におもむいて読経を続けてきたそうだが、のちに墓石が親寺へ引き取られて、現位置に安置された。そのような経緯のゆえか、墓石はギャンブラーたちに削られることなく、今も江戸時代のままの姿で守られており、養寿寺の方の墓石がすっかり消滅してしまったことに対し、善応寺のそれは全く当時のままのものなのだから、貴重な文化財といえよう。忠治の墓詣でといえば、誰しも養寿寺の方ばかりに行くものだが、ぜひ善応寺の方にも立ち寄って、唯一残る建立時のままの忠治の墓を拝んでもらいたいものだが、墓石を削るのはぜひ遠慮していただきたい。
 なお、この善応寺の墓石の正面には「遊道花楽居士」との法名が刻まれていて、養寿寺のそれとは少し異なっている。養寿寺の院号付きの立派な戒名よりもこちらの方が、いかにも忠治にふさわしいものではないかと、私などは思う。墓石の右側面には「嘉永三戌年十二月廿一日、長岡忘」とあり、忠治の処刑日の日付が見てとれるが、俗名をそのまま刻まずに「長岡忘(某)」としてあるのは、人目をはばかったためだろうか。なるほど、墓石の左側面・裏面には「念仏百万遍供養」・「以念仏感得・衆畢悉除滅・甚深修行者・安宝生安養」とも刻まれていて、この石塔は表向きは百万遍念仏供養塔の形を取っている。石塔の裏面が形式的には表面だったわけで、裏に回れば忠治の墓石であることがわかり、今では裏を表にして安置されている。一種の偽装措置が取られているわけなのだ。台座の手前に置かれた銭箱をかたどった石造の賽銭箱なども凝った造りだが、そこに刻まれた「情深墳」の3文字にも注目されよう。「情の深かった人の墳墓」であるというのだが、「遊道を貫き、花のように楽しい人生を送った人」という先の法名をも含め、愛妾お徳さんの気持ちがそこに込められている。

 忠治の墓の第三は、長野県長野市権堂町の四条霊社の境内にある(写真61)。
  

写真61 長野市の国定忠治墓(長野県長野市権堂)
 そこはにぎやかな商店街の一角で、大きな自然石を立てた立派な墓が立っている。墓石の正面には「国定忠治之墓」と刻まれているが、善光寺貫主大僧正玄妙師の揮毫によるものだという。裏面にある「長岡院法誉花楽居士」の法名は第一の墓である養寿院のものと同じで、台座には「昭和42年5月14日、寄贈権堂町中山寛蔵」とある。権堂村(現在の長野市権堂町)は忠治ゆかりの地で、彼はこの地を数回おとずれており、先述の愛人畔上つまを当地に囲っていたともいう。1967年(昭和42年)5月14日に善光寺の特別開帳がなされた際、その記念行事として、ゆかりの地で「国定忠治祭り」がおこなわれることとなり、約百人の市民が忠治一家に扮して仮装行列をおこなった。それを機会に、故郷の上州旧国定村の養寿院から忠治の分骨を迎えて、権堂町に忠治の墓が設けられることとなった。そのようにして第三の墓が生み出された。なお、権堂村滞在時のエピソードとして、「忠治柳」の伝説が地元では語られており、やはり忠治ゆかりの柳の木が権堂町の鎮守社境内に残っていて(写真62)、かたわらに立つ解説板には次のように述べられている。
  

写真62 忠治柳(長野県長野市権堂)
忠治柳の由来。長岡の百姓喜右衛門が、娘お福を五十両の前借金で一年間山形屋に奉公に出した。山形屋藤蔵は手下をまわして帰路に喜右衛門から五十両を奪い取った。権堂の宿でこれをきいた忠治は、山形屋へ乗りこんで五十両を取り戻してやった。その時のかけ合いに忠治は柳の小枝を投げて去った。藤蔵の女房おれんが挿しておいた忠治の柳が大きくなったものと伝えている。今より百二十年程前からの伝説を柳の枝がふわりふわりと物語っている。          昭和三十二年十二月廿一日 宮沢草美 記

 さて最後に忠治の磔刑の実態について、参考ながら紹介しておこう。大戸の刑場での忠治処刑の様子を、実にくわしく記した史料が、吾妻郡嬬恋村今井の唐沢治夫家文書や吾妻町須賀尾の高橋真道家文書(大戸区長文書)に残されており、少々長いけれども興味深い記録なので引用してみる。

無宿国定忠次郎仕置につき人足其外控
嘉永三庚戌年十二月 国定無宿忠次郎御仕置ニ付人足其外控 大戸宿
十二月十一日 夜中名主市郎左衛門様、岩鼻御陣屋より御帰り、翌十二日七組一統会合。
十二月十二日 在与(組)江廻状遣ス。九左衛門、甚五右衛門。
同日 萩生・本宿江、庄左衛門。
同日 村役人衆不残。
十三日 人足六人、いなた(稲田)外才料壱人。  人足六人、平与(組)外才料壱人。
 人足六人、てこ丸(手子丸)外才料壱人。 人足六人、上大戸外才料壱人。
 人足五人、後所谷戸下村。      人足拾四人、町外弐人畑主吉三・平吉。
同日 村役人衆不残。
同日 廻状継、本宿村へ与五兵衛、萩生村へ庄五郎。
十四日 上大戸より中村迄廻状継、七右衛門。
同日 御仕置場所結ひ人足弐拾人本宿、同弐拾人萩生、外ニ才料壱人宛、村方壱組六人宛、組頭衆才料、まつひら(松平)三人、町より拾四人、才料同断。
同日 玉子・きじ。人足弐人、三之丞・長五郎。
十五日 人足拾七人萩生村、人足拾五人本宿村、村方在与(組)壱組五人宛、町方拾人、才料村役人衆。
十六日 御支配様御手代三倉御泊り江、御機嫌伺ニ与頭代平兵衛・五郎兵衛ヲ遣ス。
十七日 御支配様三倉より御出、御通行先ニ而御仕置場御見分、直ニ弾左衛門へ場所御引渡し被成候。
十八日 人足村方より在組より七人宛、町方より拾人、萩生・本宿より拾五人宛。
十七日(ママ) 夜中御証文并御先触共萩生村より参り、名主市郎左衛門様より萩生村名主茂兵衛様方へ、請取御遣し罷成候。
廿日 昼四ッ半時囚人着。御検使様并八州様四頭御手先五拾人余、御宿旅籠之内ニ而手先之衆泊り。囚人ニ御附添御役人様外手先衆七人、都合十三人新井や初右衛門宅ニ泊り。八州様四頭御手先拾九人、年寄丈四郎様方ニ泊り。御検使元〆様上下七人、加部安左衛門様方ニ十七日より廿日昼迄御泊り。
廿日 昼より夜中警固人足村々より弐拾人宛、大戸村・萩生村・本宿村・大柏木村・須賀尾村・三島村。外ニ村々役人衆不残。浅草弾左衛門出役之もの上下拾八人、外棒つき穢多共迄都合八拾人余、下町惣右衛門方ニ止宿いたス。
廿一日 朝、囚人御仕置場江参り候節、村々棒つき人足、其外鉄炮打共壱ヶ村より三人宛、都合猟師人拾八人場所江詰合。
廿一日 巳ノ中刻、御仕置仕舞、御見分御役人様方場所より不残御帰り被成、尤八州様弐頭者厚田村継ニ而中之条方へ御越被成候。外御検使様八州弐頭共ニ三倉之方へ御越被成候。
十二月廿一日 御仕置被仰付。
廿三日迄 二夜三日晒中別状無之、晒中相済死骸并罪木等取片付、其段弾左衛門より申付置候。番人とも并当所穢多非人より当番役元江届出、御餝鑓御捕道具六尺棒共名主先江持参、名主元ニ而請取置。
翌廿四日 朝、名主元より岩鼻御役所江御用状相認メ、右御餝鑓御捕道具六尺棒共、刻付ヲ以宿村継ニ而継送り申候ニ付、萩生村迄人足長右衛門豊十郎為持遣ス。(中略)
亥正月廿一日 捨札取除之義、当村穢多非人江申付、取片付いたし、其段同日、岩鼻御役所江名主市郎左衛門様御用状ニ而御届被成候。尤宿村継ヲ以刻付ニ而萩生村迄継送り、継人足与五兵衛。
戌十二月廿一日より日々所々より御仕置場江参詣人夥敷参ル。
無宿忠次郎江戸御差立之砌、中山道板橋宿ニ止宿してはへる。「いままては くらき故郷の山桜 ちり行末は武蔵野の土」。当所ニおゐて、同人はへる。「見てハ楽 しては苦労の世の中に しまじきものは賭の諸勝負」。警固人足目印。但しはちまきニいたス。赤色、大戸村。白、萩生村。黄、本宿村。もも色、大柏木村。浅黄、須賀尾村。黒、三島村。幟壱本宛村々。大戸村。但シ村々、如斯ニ仕立、村名記之。御関所橋場より御仕置場迄、見物之人々きれ間なく続き、村方始りてよりヶ様成事有之間敷様ニ人々申なり。
嘉永三庚戌年村役人衆覚
名主市郎左衛門・年寄加部安左衛門・同丈四郎・組頭七郎兵衛・同勘左衛門・同五郎右衛門・いなた同長蔵・平同佐衛門・手こ丸同庄三郎・上大戸同嘉兵衛・百姓代町長兵衛・同いなた長太郎[群馬県史編さん委員会(編),1980:pp.930-933]

 処刑の10日前から地元名主らが綿密な準備を始め、刑場を設置しつつ、江戸からぞくぞくと到着する八州出役の役人らを出迎えながら、刑の執行日に至るまでのドキュメンタリーが、ここには忠実に記録されている。先述したように6班構成の人足が刑場をかため、鉄砲撃ちまで配置して護衛にあたらせるという、実にものものしい様子も見てとれる。忠治の遺体は3日間、そこにさらされたが、「日々所々より御仕置場江参詣人夥敷参ル」という状況だったという。見物人の中には、忠治を慕う人々も随分いたことだろう。
 国定忠治が果たして本当に、人に慕われて尊敬されるような人物だったのか否かということは、最後にもう一度、検討されておかねばならないことだろう。忠治が処刑されてから早くもその翌年にあたる1851年(嘉永4年)、上州岩鼻陣屋代官で儒学者の羽倉簡堂(外記)は『劇盗忠二小伝』をまとめている。それは忠治逮捕から処刑に至るまでのくわしい記録で、いわゆる『赤城録(せきじょうろく)』と呼ばれた著名な資料だ。国立国会図書館蔵のその原本を見ると、1836年(天保7年)の飢饉の際、忠治は私財を投げ打って米を入手し、人々に配ったといい、「忠、資を?(つく)して賑救」ったおかげで「赤城の近地、特に餓?するものなし」とまで述べられている。しかるに自分が代官をつとめていた緑野郡内では餓死者を出すに至った、まことに恥ずかしいかぎりである、とすらそこには書かれているのだ。幕府の代官までをつとめた人がそう言っているのだから、記事の信憑性はきわめて高い。1878年(明治12年)の『国定忠治実伝』にも、天保飢饉の際に忠治が民衆に米や銭をほどこしたとか、埋まっていた溜池2ヶ所を私費で普請して、人々を旱魃から救ったとか書いてある[阿部,1999:p.18]。「悪事も働いたが、救世の熱情は買ってやるべき」だという評価は、かの『大日本史』にも記されたところだ。
 これらの記録から判断するかぎり、忠治が民衆にある程度のほどこしのようなことをしていたことは、おそらく確かな事実だったのだろう。けれども、それが果たして本当に「救世の熱情」から発したものだったかどうか、という点については、やはり疑問が残る。旧幕府代官手代で八州取締出役の役人をつとめた、宮内公美という人物は明治維新後の1891年(明治24年)に、こう語っている。「彼奴(あやつ)は土地のものに恵与(ほどこし)などがしてあったから、なかなか探偵はむつかしかったそうでございます。その頃から長脇差の類が多くなりて来たということです」[旧事諮問会(編),1986:p.80]。さらに、忠治の逮捕に実際に立ち会った当事者の元役人も、維新後に次のような証言を残している。

國定忠次の如きはまづ親分と申しても然るべきであらうかと存じます。彼は貧民を救ふと云ふ侠客でありました。召捕ふと思っても捕へることが出來ぬのでありました。何故なれば國中でも恩を被った人が澤山居りますから、貧民が忠次を召捕に來たと云ふと聞と、直に註進するので、中々?まへることが出來ませんで、十餘年間其行衛が分らずに居りました。中氣を病で妾宅に居る所を捕られたのでありました[小川(編),1891:p.109]。

 民衆によくしてやったのは密告を封じるため、そして裏稼業を維持しつつ、時には自分たちが逃げ回るためだった、ということになろうか。実際のところは、そんなものだったのだろうということは、この稿の冒頭にも書いておいた通りだ。けれども、そんなアウトローにも刑死の後、ただちに墓や地蔵を建て、「情深墳」とまでそこに刻んで慕い続けた女たちや、命までをも捧げた多くの子分たちが付き従っていたことは、忘れるわけにはいかない。忠治は一人の男として、人間として、相当に魅力的な人物だったに違いないと、私は思う。
付記]
本稿は杉並郷土史会の主催によっておこなわれた、同会の第513回例会における筆者の講演内容を筆記したものである。講演は2015年4月25日(土)に、東京都杉並区梅里1-22-32のセシオン杉並の3階会議室においておこなわれた。講演にあたっては、杉並郷土史会の新村康敏・西トミ江・原田弘の各氏ら、調査?に際しては金井塚正道氏より多大なご協力をいただいたので、ここに記して感謝申し上げる次第である。
引用文献
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