西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 21   2014年12月号
長沢 利明
東京のダイダラボッチ
 web上で表現できない文字は?となっております
 ダイダラボッチという名の巨人がかつていて、大きな山を運んだり、その足跡の窪地に水が溜まって湖や池沼ができたりしたとの伝説が各地に伝えられている。ダイラボッチ・デーダラボッチなどとも呼ばれるが、その語源は柳田国男によれば「大太郎法師(だいだろうほうし)」であったろうとされ[柳田,1962:pp.320-322]、南方熊楠もほぼ同様の説を述べていた[南方,1971:p.10]。ダイダラボッチに関する伝承地は、関東から中部地方にかけて広く見られるが、東京都内はとりわけその伝承が濃厚に見られた地域なのであって、意外な印象を持たれる人々も多いだろう。東日本の中でも関東地方は、ダイダラボッチ伝承の集中分布地域で、中でも東京都内には特に多くの伝承地が存在する。東京都は実は、ダイダラボッチ伝説のメッカなのだ。私は都内にあるダイダラボッチの伝承地を、ほぼすべてこの足で歩いて訪ねてみたことがあるけれども、その数は30ヶ所にも及ぶ。これは群馬県や山梨県に並ぶ、全国でもトップクラスの数だ。かの柳田国男も、「東京市は我日本の巨人傳説の一箇の中心地といふことが出来る」と述べていたほどである[柳田,1962:p.306]。ここ東京都内において、ダイダラボッチ伝説はどのように語られ、どんな遺跡が残されてきたのか。私の調べてきたところを、ここに紹介させていただきたい。
 まず最初にあげておくべきは23区の北の端、北区豊島にあった「ダイダボッチの塚」の事例だろう。北区と足立区との境界を流れる隅田川が、大きく蛇行する部分に架かっている橋が豊島橋なのだが、近世期にはそこに橋はなく、渡し場があって「豊島の渡し」と呼ばれていた。北区側から見た、その渡し場の手前西側の畑の中に、ごく小さな塚がかつてあって、それがダイダボッチの墓なのだと言われていた。近世期にはすでに、それに関する報告として大浄敬順の『十方庵遊歴雑記』があり、次のような記述がそこには収録されていて、『北区史』の解説も、ただこれを現代語訳したに過ぎない[北区役所(編),1951:pp.891-892]。

 武州豊嶋郡沼田村へわたり越さんといふ豊嶋の渉しの手前西側畑の中に大道法師(ダイドウホウシ)の塚あり。世上の流布語に大道法師(ダイダボッチ)と稱する是なり。土人の説に大道ぼつちの草鞋につきし土砂落ちたりしが塚になりしといひ傳ふ。里俗ハこれを稲荷塚とも稱し、或ハ此あたりを小名に呼て代田ともいえり。是音のかよふを以て土人認め傳へしにや。又此側に小さき塚壱つ中古までありしを畑主破壊し、圃に引ならしたるに馬骨とも覚しき物夥しく出しが、その祟りにや畑主は年久しく煩ひたれバ、恐れて大道法師の塚へハ鎌さへも入すとなん。大道法師といふもの、いかなる人にや怪しき巷談ながら見聞せしままを記す。周圍凡三間余もあらん、圖の如し。

 ここではダイダラボッチのことを「ダイドウホウシ」もしくは「ダイダボッチ」と表記しているが、地元での呼称はおそらくその後者だったろう。漢字で書く場合、「大道法師」の字があてられる。付近の小字名を「代田」といったのは、後述する世田谷区の代田と同じで、ダイダラボッチを語源とする地名事例のもうひとつがここにもあった。巨人のワラジについた土砂が落ちて、この塚ができたというのだが、おそらくは古墳(円墳)がもともとそこにあったのだろう。他地方ではこの巨人が大きな山を築いたとか、富士山に腰かけたとかの、スケールの大きい話がよく聞かれるものだが、それらに比べればそれは周囲わずか3間ほどの、あまりにささやかな規模の小古墳だったので、ワラジについた少々の土砂が積もったということにしたのだろう。ワラジに付着したごくわずかな砂でさえ、地に落ちれば小丘をなしたというわけで、墳丘の小さな高まりは、かえって巨人の図体の巨大さを強調してもいる。
大浄敬順の描いたその塚のスケッチを見ると、塚はいびつな形をした小丘で、全体が草むらで覆われ、木などは一本も生えていない(写真39)。

写真39 ダイドウホウシの塚(十方庵遊歴雑記 )
 稲荷塚とも呼ばれていたとあるから、丘の上に稲荷祠が祀られていたのかも知れない。このような塚がかつて、付近にもうひとつあり、それを掘り崩したところ馬の骨のようなものがたくさん出てきて、地主はその祟りで長年の病に伏したといい、そのようなことがあったので、ダイダラボッチの塚の方には、いくら草茫々であっても鎌を入れることがなかったという。時が流れてそのようなタブーも忘れ去られ、いつしかその塚も取り崩されてしまって跡形もなくなり、今ではもうその場所さえわからなくなっている。
 次にあげられるのは世田谷区旧代田村にあった代田橋の事例だ。これも近世期からよく知られてきたもので、戸田茂睡の著した江戸の随筆記『紫の一本』にも次のように記されているし、小山田與清の『松屋筆記』、山崎美成の『海録』、蜀山人の『壬戌紀行』などにも、これのことが触れられていた。

だいた橋、だいたぼっちが掛たる橋のよし云伝ふる。四ッ谷新町の先、笹塚の手前なり。肥後国八代の領の内に百合若塚と云あり。塚の上に大木あり、所の者云、百合若は賤しき者なり。大臣と云は大人なり。大太とも云。大人にて大力ありて強弓を引き、よく礫を打つ。今大太ぼっちと云は百合若の事、ぼっちとは礫の事なりとぞ云々。

 ここでの巨人の呼び名は「ダイタボッチ(大多ぼっち)」で、各地に伝わる巨人伝説の主人公、百合若大臣のことだとされている。巨人の架けた橋が代田橋で、ダイダボッチが掛けた橋なので「代田橋」と呼ばれているというのだ。「代田(だいだ)」というかつての集落名もそこから来ており、先の北区の代田と同じことであった。村の名と橋の名の語源が、ダイダラボッチにあったということは、一般にはあまり知られてこなかったことだろう。今では京王線の駅名の「代田橋」が、このあたり一帯の広域的な地称となっている。『世田谷区史』では、この巨人のことを「ダイタラボッチ」と呼んでおり、その足跡は大人が大股で歩いて30歩分以上もあったといい、その足跡の窪地が代田橋の付近にあると記している[世田谷区(編),1962:p.1400]。
 つまり、ここにはダイダラボッチの架けた橋と、その足跡である窪地とが残されているわけで、その橋は甲州街道と玉川上水の交差する場所にあり、街道が上水をまたぐために架けられた橋であった。現在の玉川上水は、京王線代田橋駅のホームの下を流れており、駅から北へとその水流をさかのぼると、上水は甲州街道とぶつかることとなる。現在、上水のその部分は暗渠化されていて街道の下をくぐっており、その暗渠トンネルがいわば現代の代田橋ということになるが(写真40)、上水の流路はその後に変更されているので、近世の代田橋のあった場所と今のトンネルの位置とは、同じではない[杉並区役所(編),1955:p.1611]。
 
写真40 代田橋(東京都世田谷区)
 代田村に残された巨人伝説に関わる橋と足跡の窪地のことは、古くからよく知られてきたため、かの柳田国男氏もわざわざこの地を訪ねにきたくらいで、それは1920年(大正9年)1月のことであったらしい。その時の回想記を、彼は次のように記している。

甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多(だいた)ぼっちが架けたる橋のよしいひ傳ふ云々とある。即ち現在の京王電車線、代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としては甚だ振はぬものである。しかし村の名の代田(だいた)は偶然でないと思ふ上に、現に大きな足跡が殘ってゐるのだから争はれぬ。私は到底その舊跡に對して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて氣樂になったとき、早速日を卜してこれを尋ねて見たのである。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が藥研になって居り、踵の處まで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に涌き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである[柳田,1962:pp.306-307]。

 大正時代の代田村はこのように片田舎の田園地帯で、一面に広がる畑地の中に、長さ100間もの巨人の右片足足跡の窪地が残されており、窪地の底からは湧水が湧き出て池になっていたという。今、私たちがそのあたりをたずねてみても、畑などはもう見られないし、そこには一面の密集住宅地が広がっているだけで、巨人の足跡とおぼしき大きな窪地地形を、かろうじて認めることができるとはいうものの、柳田氏の眺めたような昔日の田園景観を思い浮かべることなど、すでにできない。柳田氏はその代田村の足跡窪地を見た後、さらに旧駒沢村にまで足をのばして、そこにもあるという別の2ヶ所の巨人の足跡を見に行ったというのだから、何たる健脚であったろうか。広大な畑中の田舎道を、一人とぼとぼと歩くカンカン帽を被った柳田氏の姿を想像してみると、「私は到底その舊跡に對して冷淡であり得なかった」との思いが伝わってくるだろう。その駒沢村に残る2ヶ所の巨人の足跡の見聞記を、彼は次のようにしたためている。

 あの頃發行せられた武藏野會の雜誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。それを讀んでゐた自分はこの日さらに地圖をたどりつヽ、そちらに向って巡禮を續けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小學校と村社との中程にあった。これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれてゐる。それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でもこれから東南へなほ七八町も隔てた雜木林のあひだであった。附近にいはゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をしてゐたから、或ひはすでに湮滅したかも知れぬ。これは周圍の林地よりわづか低い沼地であって、自分が見た時にもはや足跡に似た點はちっとも無く、住民は新地主で、尋ねても言ひ傳へを知らなかった[同:p.307]。

 駒沢村の足跡のうち、1ヶ所は窪地の底からやはり水が湧き出して、田に流れ込んでいたといい、もう1ヶ所は雑木林の中の沼地になっていたという。なお、ここにいう「武蔵野会の雑誌」とは、同会の出していた季刊誌『武蔵野』のことで、同誌2巻2号における鈴木堅次郎氏の、さらには2巻3号における谷川磐雄氏の報告を、柳田は読んだのだろう。それは以下のような記事であった。

 ダイダクボといふ凹地がある。三四段の地域で最も深い所に池があり古來灌漑用の水源となってゐる。傳説に曰く此處はタイダラボッチの足跡で此の凹地に入り土地を掘り木を伐ると罰が當ると、蓋し水源保護の爲めであらふ。(中略)此の足跡は荏原郡碑衾村大字衾より此處を經て世田谷村大字代田に飛んで其間隔半里以上ある[鈴木,1919]。
駒澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもあるよし(中略)、これ等は何れも窪地の足形をなしてゐるところで太古ダイダラボッチの歩いた足跡であると傳へている。又これは自分がある農夫から聞いたのであるが荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山といふ所と、千束村狢窪といふ所に窪地があって、そこは昔しダイダラボッチが足をふんばった所でその時その杖をついた跡が今の洗足池となった。その際ダイダラボッチが片手で一方の土をとり一方に置くとその土をとった跡は品川の海となり土を置いた所は富士山となったといひ傳へてゐる[谷川,1919:p.35]。

 これらから推察するかぎり、旧駒沢村にあった2ヶ所の足跡とは、@同村内馬引沢・A同野沢の窪地で、@は「ダイダクボ」と呼ばれており、柳田氏が見たのはこれらであったろうと思われる。また、B碑衾村谷畑にもそれがあって、ダイダラボッチはBから@Aへ、さらには先の代田村の窪地へと歩を進めて順番に足をおろし、足跡を残したともいう。散在する足跡群を、このように一連のものととらえつつ連続的に結びつけ、巨人の進行ルートを説明しようとする伝承は、各地で聞かれたことでもあった。
 上記の谷川磐雄氏の報告では、さらに今の大田区内洗足池周辺の事例についても触れられているが、旧衾村大岡山摺鉢山・旧千束村狢窪にもダイダラボッチの足跡があり、巨人が杖を突いた跡が洗足池となったという(写真41)。
 

写真41 洗足池 (東京都大田区)
 土を掘った跡が東京湾で、土を盛ったのが富士山だとまで言っている。これらについては、戦後の民俗調査の成果をまとめた『大田区史』における次の記述が、参考になるだろう。

[ダイダラボッチの小便]昔、ダイダラボッチという大男が歩いてきた。千束の辺り(現南・北千束)で杖をつき、ふんばって小便をした。右足をふんばって盛り上がったところが摺鉢山(東急の大岡山付近)、左足でくぼんだところが狢窪(むじなくぼ・千束の小字名で現北千束二丁目付近)になり、杖をついた穴が小池で、小便がたまったのが洗足池だという。[ダイダラボッチの貝塚]また、久ヶ原貝塚にダイダラボッチという右手の長い巨人の一族が住んでいた。ダイダラボッチは毎日海へ行き、手で探して貝を採ったので手が長くなったという。貝塚はその食べた貝殻を捨てたところだといわれている[亀山・他(編),1983:p.484]。

 これらによると、ダイダラボッチの足跡が大岡山の摺鉢山(右足)および千束の狢窪(左足)、杖を突いた跡が小池、小便をした跡が洗足池になったといい、先の谷川磐雄氏の報告とは若干内容を異にするとはいうものの、今の大田区内の北部地域に、巨人伝説地がいくつか集中して見られたことがわかる。長い手を海まで伸ばして貝を採って食べ、捨てられた貝殻が積もって久ヶ原貝塚ができたとの説明は、『常陸国風土記』にある貝塚伝承とも通じ、手長足長神の伝承にももちろん通じている。風土記時代の古い伝承が、東京都内の片隅にまで伝えられていたとするならば、誠に興味深いことといえる。
 東京23区内に関わる巨人伝説の実像は、おおよそ以上のような状況であったが、ここからは、この私の住むホームグラウンドであるところの、多摩地方に目を転じてみることにしよう。多摩地方こそは、東京におけるダイダラボッチ伝説の最大のメッカである。そもそも東京都そのものが、全国最大のダイダラボッチの伝承地なのだからして、多摩地方はメッカ中のメッカということになる。この地方における伝説の分布集中地域はほぼ四つあって、第一は北多摩東部地域(武蔵野・三鷹市域)、第二は北部の狭山丘陵地域(東大和市・武蔵村山市域)、第三は南端の南多摩地域(町田市・八王子市域)、第四はそれらの中間に位置する立川市域だ。
 まずは東の方から見ていってみるが、武蔵野市中町八丁に巨人の足跡とされる大きな窪地があって、今もそれが残されている。それは今、同市内に立地する有数の大企業、横河電機製作所の所有する付属グラウンドとなっていて、現在では著名な少年サッカー・クラブの専用練習場として利用されている。これに関する伝説は次の通りであった。

 三鷹駅から北へ向かって歩いていくと、5分くらいで水道道路にぶつかります。その手前の右手に、横河電機製作所のグラウンドがあります。じつは、このグラウンドには、次のような伝説があるのです。「昔、むかしのことです。どこから来たのかわかりませんが、大変大きな人が武蔵野を通り、歩くたびに土地がへこみました。1歩目は善福寺で、水がわき出て池となり、2歩目の八丁(今の中町1丁目付近)は、へこんでくぼ地となりました。足について、こぼれ落ちた土の一かたまりが八丁大塚となりました。3歩目は井の頭、ここも水がわき出て池となりました」。この大きな人は「へいたらぼっち」とか「大太(だいだ)法師」と呼ばれる日本の伝説に出てくる巨人の一人です。三多摩にもとことどころ泉がわき出るとところがあり、「大太法師」の伝説が残っています。現在、八丁くぼ地は埋めたてられ、横河電機のグラウンドだけが、くぼ地の姿をとどめています。八丁大塚も井之頭小学校の体育館ができる時、けずられてしまい、今では見ることができません[武蔵野市企画広報課(編),1982:p.16]。

 この第一地域に関するわずかな事例は、巨人伝説の集中する多摩地方西部(第二〜第四地域)と東京23区地域との中間域に、伝承地が孤立的に位置している点で興味深いものがある。第一地域の存在によって、23区と多摩西部の伝説群はつながっていくのであって、それがなければ、ここに一大空白地帯が生じてしまう。巨人の呼び名を「ヘイタラボッチ」とするのもこの地域の特色で、唯一の事例といってよい。距離を置いて散らばる足跡群を一歩二歩三歩と、巨人の歩いた順路で一括説明している点も、先の世田谷区・大田区の例と通じていておもしろい。それによると、巨人がまず第一歩目を記したのは杉並区の善福寺池で(写真42)、2歩目が武蔵野市の八丁窪地、三歩目が三鷹市の井の頭池となり(写真43)、北から南へと巨人は歩いていったことになる。足の裏からこぼれた土が積もってできたのが八丁大塚だとするのは、いわゆる「土こぼれ型」の典型事例で、この古墳も今はないが、3歩分の足跡の窪地と池はすべて今も残されている。
 

写真42 善福寺池 (東京都杉並区) 

 

写真43 井の頭池 (東京都三鷹市)
 埼玉県境に接する狭山丘陵地域一帯は第二地域にあたり、古くから巨人伝説が濃厚に伝えられてきた地域で、その巨人のことを概してデエダラボッチと称している。巨人の足跡から水が湧き出したという古井戸や、担いできてそこに置き去りにされた小山とかの伝説地が、あちこちに残されている。東大和市芋窪には、「ダイダラボッチがモッコで土を運び來る折その所でモッコ破れ土が落ちて丘となった」という小山があるというが[谷川,1919:p.35]、大正時代の記録にもそれが次のように記されていた。

隣村芋窪村に抵(いた)り(中略)途中小高き獨立したる丘が見へる。南側は松林と北側は禿山とに分れしを誰やらが?灣坊主の様なりと呼べる其山は丸山とて昔ダイダラ法師が擔いで來たるものなりとの傳説がある。山には藤蔓が生へない。又生へても弱く切れて仕舞ふと云って居る[福島,1918:p.54]。

 巨人の運んできた山には藤蔓が生えないとあることがここでは重要で、いわゆる「藤蔓型」巨人伝説の形を示しているのであるが、なぜ藤蔓が生えなくなったのかについては、説明不足である。この話型は実はこの第二・第三地域の大きな特色をなすものなのだ。なお、この小山の名をここでは丸山としており、それは後述の武蔵村山市内の丸山のことと思われるので、芋窪村(現東大和市内)というのは誤記だろう。東大和市内北部にある多摩湖(村山貯水池)は、東京都民の水がめとして建設された巨大な人造湖であるけれども、その湖岸地域もまた巨人伝説の伝承地に含まれる。貯水池を見下ろす北岸の東大和市多摩湖3丁目には、「湖底の村」と呼ばれる小公園があって、貯水池建設のために水没した村々の民俗にちなんだ樹木などが植えられているが、公園内の一角にある小丘は「大多羅法師(ダイダラボッチ)の丘」と呼ばれ、ダイダラボッチの頭部のみを刻んだ巨石像が安置されている(写真44)。あたかもイースター島のモアイ像のごとくで、もちろん近年に作られた新しいモニュメント像なのだが、その解説看板を見ると「大多羅法師はここで、都民の水がめである多摩湖の水を涸らさないように見守っているのです」などと書かれていて、なかなかおもしろい。貯水池の湖底に水没した東大和市内堀に、かつて「デンドロの井戸」と呼ばれた古井戸があったそうで、どんな日照りの時でも決して水が涸れることがなかったと伝えられている。「デンデロ」とは「ダイダラ」の転訛で、ダイダラボッチの足跡の窪地から湧き出した井戸がそれなのだといわれてきた。湖底の村の大多羅法師像は、その伝承にもとづいて設置されたものなのだ。
  

写真44 ダイダラボッチの石像(東京都東大和市))
 ダイダラボッチの井戸と称するものは、隣の武蔵村山市内にもいくつかあって、それらは狭山丘陵地域の巨人伝説の特色をもなしていた。たとえば、杉本林志という郷土史家が1939年に著した『狭山之栞』という地誌を見ると、次のような記述がある。
丸山の井と呼ぶあり、常に水溢れ旱魃の折は村人朝夕の用水となす。四季とも水増減せざるは奇と云ふべし。是と同じ井、山の頂にも一つあり。此の山に藤生ぜざるは如何なる理なるか。傳説に依れば天地開闢の時大多羅法師(虚説なり)藤の蔓にて此山を背負ひ來りしが、此處にて藤蔓切れたまヽ捨て去りしなりと。井は當時法師の踏みし足跡なりといふ[杉本,1939:p.98・清水,1985:pp.10-11]。
ここにいう「丸山の井」とは、現在の住居表示でいうところの武蔵村山市神明2-113-9にあたる磯崎一素家の敷地内にあり、私有地の民家の庭先に今もそれが残されている(写真45)。
  

写真45 丸山の井戸(東京都武蔵村山市神明ヶ谷戸)
 しかしながら、今見るその井戸は鉄板の蓋で塞がれ、井戸枠全体がブロック塀の中に埋もれて囲まれてしまった状態にあるので、これがその井戸跡だと指摘されぬかぎり、気づく人はまずいないだろう。ごく浅い井戸で、四季を通じて水位が一定しており、どんな旱魃の年にも水が涸れることなく、地元民の生活用水として長年利用されてきたというのであるが、まさにその通りで、古老に話を聞くと水が湧き出るというよりも、井戸の底を豊富な湧き水が流れているかのようであったといい、地下水脈の本流の直上に井戸が開口していたのだろう。神明地区の開発が進んだ1990年代、丸山の井戸の周辺は土地造成が大規模になされ、新設された駐車場の片隅にポツンとこの井戸が残されてきたのだが[田中,1999:p.318]、その後の宅地開発を通じて駐車場用地が新住民に売却され、今ではそこに家が建ち、井戸は鉄板で塞がれてその民家の庭先に埋もれているという状態になった。由緒ある伝説の古井戸なのに、どうして市当局がこれをきちんと保存してくれなかったのかと、嘆く地元民も多い。
 この丸山の井戸の西側には、かつて丸山(向山・東山ともいった)と呼ばれる小山があって全山が雑木林で覆われ、神明ヶ谷戸の鎮守神である神明神社がそこに鎮座していた(写真46)。
 

写真46 丸山(東京都武蔵村山市神明ヶ谷戸)
 『武蔵村山市史・民俗編』の編さんのため、この筆者らが当地区の民俗調査に従事していた1990年代には、まだそういう緑豊かな自然環境が残っていたものだが、その後の急速な宅地開発によって丸山は切り崩され、山そのものがほぼ消滅してしまい、雑木林も消え失せて鎮守の社は丸裸にされてしまった。旧住民によるならば、かつての丸山には豊かな自然が残されていて、雑木林の林下には春ともなるとスズランが咲き乱れて、桃源郷のような場所だったという。それは私たちもよく知るところだ。伝説の巨人は当地でもデエダラボッチと呼ばれているが、藤蔓で山を縛り、背中に背負ってここまでやってきたものの、藤蔓が切れてしまって山は地に落ち、そのままここに残ざれて丸山になったという。それ以来、丸山には藤が生えないというのだが、筆者が地元民に聞いた話では、藤蔓が切れて山を運ぶことができなくなったデエダラボッチが、怒りのあまり全山の藤を全部抜き去ってしまったということだった。
 いずれにせよ、先の芋窪村の事例における説明不足は、ようやくここで補われたことになる。山を背負ってきた藤蔓が切れてしまったので、もうこれ以上は山を運ぶことができなくなり、怒った巨人が全山の藤蔓を消し去ってしまった、以来そこには藤が生えないというのが、「藤蔓型」伝説の本来のストーリーであったことがわかる。そして、その丸山の頂上には、もうひとつのデエダラボッチの井戸がかつてあり、先の『狭山之栞』に記されていた通りなのだが、それももう今はなく、現在そこにはマンションが建っている。この神明ヶ谷戸には、デエダラボッチの運んできた小山と、デエダラボッチにちなむ2ヶ所の井戸があったということになる。その2ヶ所の井戸は、伝説の巨人が掘った井戸だとも、あるいはその足跡の窪地から水が湧き出したものだとも、伝えられている。
 神明ヶ谷戸集落から西にやや離れた「入(い)り」と呼ばれる集落の最奥には、小谷の源流部の沢水を堰き止めた「番太の池」と呼ばれる溜池があって、その池の南東側にある民家の裏手にもかつて古井戸があり、これまたデエダラボッチの掘りあてた井戸とされてきたのだが、今はない。さらに、そこから山をひとつ越した赤堀集落の鎮守である日吉神社の境内東側にある古井戸もまた、デエダラボッチの掘った井戸といわれ、これは現存する(写真47)。
  

写真47 日吉神社の井戸(東京都武蔵村山市赤堀)
 井戸というよりは湧水地であって、崖下の窪地からこんこんと地下水が湧き出しており、今でもその湧水量に衰えはないという。そこで現在では、湧水池全体をコンクリートで覆って塞ぎ、これを防火用水の水源地としており、井戸はマンホールの下に隠されてしまっている。しかし、マンホールの蓋を開ければ、そこには常に満々と湧水が溜まっており、火災発生時にはそこから消火用の水が供給されることになっている。その意味では、これは立派な現役の井戸なのだともいえよう。
こ の赤堀集落のある谷戸の最奥部にあたる山林中には、もうひとつのデエダラボッチの井戸がある。そこは小谷の源頭部にあたる崖下で、そこを通る山道のかたわらの窪地に、やはり清水が湧き出しており、かつては皆がここまで水を汲みに来ていたといい、地域住民の生活用水として利用されていたという(写真48)。
  

写真48 ダイダラボッチの井戸(武蔵村山市赤堀)
 今見るかぎり、井戸の底にはまったく水が湧き出ておらず、すでに涸れ井戸となってしまったようだ。武蔵村山市内に数あるデエダラボッチの井戸の中でも、唯一これだけが昔のままの状態で残されて(というよりも放置されて)きたという点が功を奏したのだろう。この井戸だけが現在、史跡として保護されており、今では井戸の周囲が木柵で囲まれ、解説の看板も立っている。看板の標題には

「大多羅法師(だいだらぼっち)の井戸」とあり、「大多羅法師という大男が、藤づるで丸山を背負い歩いた足跡が井戸になったという伝説が残されています。『でびいしゃら井戸』とも呼ばれ日照が続いても涸れたことがない湧水で、古くは飲料水として使われていました」

と解説されている。しかしながら、こんなへんぴな所にまでたずねて来る見学者はほとんどいないと思うし、地元民でもこの井戸のことを知らぬ人は結構いて、巨人伝説由来の井戸としては、あまりメジャーな存在とは思われない。先の「丸山の井戸」や、赤堀の日吉神社の井戸をこそ保存・整備して、一般に公開すべきであったろうと、筆者は思う。
 なお、武蔵村山市内にはもうひとつ、岸地区にある須賀神社の南側にも、かつて「デエダラボウのアシッコ(足跡)の池」があり、水飢饉の時には村人たちが皆でそこに水を汲みに来ていたが、決して水が涸れることがなかったと伝えられる。残念ながら、これは埋めたてられてしまって現存しない。以上のように、狭山丘陵地帯の東京都側には(東大和市・武蔵村山市内)、計8ヶ所もの巨人伝説地が存在し、伝承の一大集中地域がそこに形成されていた。特に武蔵村山市内の伝説地群を地図上に示してみると、これらがほぼ東西一直線上に並ぶ形となり、一本の地下水脈上にそれらが配置されているかのようにも見えるし[田中,2000:p.688]、あたかも巨人が一本の線上を歩いていって、足跡列を残したかのようにも見えるだろう。大変興味深い現象ともいえるが、単なる偶然なのか否か、正確なことはよくわかっていない。
 さて狭山丘陵から南へと移動して、多摩川べり近くまで下っていくと、第四地域にあたる立川市内の2ヶ所の伝承地に行きつく。同市内富士見町にある富士塚と弁天池とがそれで、その前者はデエダラボッチの履いていた下駄の歯の間にはさまった土が、ポトンとそこに落ちてできた小丘であるという(写真49)。
  

写真49 富士塚(東京都立川市)
 先の北区の例の、草鞋についた土砂が落ちて積もったというのと同じで、草鞋と下駄の違いがそこにあるに過ぎない。下駄の歯の隙間にはさまったわずかな量の土でさえ、それが積もれば直径10m・高さ5〜6mの小丘をなしたというわけなのだ。その富士塚は現在、富士見町1-23番地の富士塚公園内にあり、周囲を石垣とフェンスとで囲まれ、良好な状態で保護されていることは喜ばしいことで、「土こぼれ型」の話型にもとづいて生み出された各地の多くの墳丘が、いまやほとんど失われてしまったことは、今まで見てきた通りだ。ここでの伝説は、次のようなものだった。

でえだらぼっち(でえだらぼう)は、大男だ。でかいのでかくないの、歩いていると、頭が雲の中に入って、見えないくらいだ。どこからか、でっかいでえだらぼっちが、でっかい下駄をはいて、のっし、のっしと歩いてきた。むかしの、山中のあたり(いまの富士見町)まであるいてくると、下駄の歯の間に、土がいっぱいつまってしまって、とても歩きにくい。でえだらぼっちは、足をあげて、下駄の土をぽとんと落とした。そこに、塚ができた。これが、富士塚だ。でえだらぼっちが、歩いたあとに、穴ができて、そこに雨水がたまって、池ができた。これが、富士見町三丁目の崖の下にある弁天池だ。でえだらぼっちは、また向うのほうへ、のっし、のっしと歩いていってしまった[原田,1974:pp.164-165]。

 ここでいう弁天池は、富士塚に近いハケ下の富士見町3-138番地にあり、直径5〜6mのごく小さな池ではあるが、巨人の足跡に水が溜まってできた池とされている(写真50)。
  

写真50 弁天池(東京都立川市)
 「土こぼれ型」伝説にもとづいて説明される富士塚、「足跡型」伝説の典型例としてとらえられる弁天池の2ヶ所の事例が、第四地域における巨人伝承であったということになる。最後に第三地域にあたる南多摩の八王子市・町田市内の諸事例について見てみよう。特に八王子市内には、巨人の足跡から生じた池沼や、「藤蔓型」の伝説地がいくつか見られ、一例を次に引用してみよう。

 南多摩郡由井村の池の窪というのがそれです。昔大多羅法師という大男があって或る時富士山を背負おうと考え相模の山中かけ廻り、手頃の藤蔓を見つけようとしたがうまく富士山を背負う程の太い強いのが見当たらないので地だんだ踏んで口惜しがった。すると其の跡に出来たのが今の鹿沼と菖蒲沼だということです。そこで富士山を背負うことをあきらめた法師は別の小山を一つ背負って川口村まで来ると生憎、縄が切れて小山が地に落ちた。同村の縄切(なぎれ)という所がそこだということです。剛情な法師は今一度小山を背負い直そうとして又手頃の藤蔓を探しましたが、どうも今度は思うように見つからないので、とうとう持前の癇癪を起し「もう此の山には藤蔓を生やさないぞ」と怒鳴りました。そのため今でもこの小山には決して藤が生えないと申します[清水,1985:p.11]。
由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫へ越える坂道に、池の窪と呼ばるヽ凹地がある。長さは十五六間に幅十間ほど、梅雨の時だけ水が溜って池になる。これもデエダラボッチが富士山の山を背負はんとして、一跨ぎに踏張った片足の痕で、今一方は駿河の國にあるさうだ。なるほど足跡だといへばさうも見えぬことはない。また同郡川口村の山入といふ部落では、縄切と書いてナギレと訓む字に、附近の山から獨立した小山が一つある。これはデエダラボッチが背に負うてやって來たところ、縄が切れてこヽへ落ちた。その縄を繋ぐためにふぢ蔓を探したが見えぬので、大いにくやしがって今からこの山にふぢは生えるなといったさうで、今日でも山はこの地に残り、ふぢは成長せぬと傳えてゐる。ただしそのふぢといふのは葛のことであった。巨人なればこそそのやうな弱い物で、山でも擔いで持ち運ぶことが出来たのである[柳田,1962:p.309]。

 巨人は富士山を背負おうとして藤蔓を探したが見つからず、地だんだを踏んでくやしがる。その時にできた足跡の窪地が池の窪、そして二つの沼になったというのだが、鹿沼・菖蒲沼は実は八王子市内にはなく、南に山ひとつを越した神奈川県相模原市内にある。その後、巨人は小山を背負って今の八王子市内川口町まで歩いたが、そこで縄が切れて小山は地に落ち、今もそこに残っているという。「縄切(なぎれ)」という地名の由来を「藤蔓型」のストーリーで説明しているわけだが、この縄切の地には確かに、周辺の山々から孤立した小山がぽっこりと立っており、まさに巨人がそこに置き忘れていったかのように見える。思いを果たせなかった巨人の怒りの力で、山中の藤が消え失せたというのも、「藤蔓型」の決まった結末なのだった。この結末部分については、地元の川口町から次のような伝承が得られている。

川口町の秋川街道から下げ坂(正確には下さげ坂)を通って美山町へ入ると「縄切(なぎ)れ」という所へ出ます。おお昔、山をかついで来たら縄が切れて、その切れ端がここへ飛んで来た、という伝説からきたもので、ダイタラ様、或いはデイタラ様という巨人が富士山をかつぎ、足をふみしめたところ(中略)です。ここには、いかにもそこへポツンと置いたと思われるような地形の山があります[高澤,1985:p.158]。

 ここでの池の窪の伝説と同じ内容の巨人伝説は、八王子市別所の長池溜池についても伝えられているとのことで[清水,1985:p.11]、多摩ニュータウンのはずれにある長池自然公園内の一番奥まった所にあるこの長池は、『武蔵名勝図会』に「形長きゆえ、長池と号す。(中略)長さ凡そ一町程。幅十間或は廿間もあり。沼地にて、蓴(ぬなわ)または河骨(こうほね)など生茂すること多し」とある。長池は見事な足跡型をした池で、足跡伝説地にふさわしい(写真51)。
  

写真51 長池(東京都八王子市)
 最後に町田市の事例も、ここに取り上げてみよう。

太平洋の遠い沖から(中略)ざんぶざんぶと越えてきた雲つくばかりの巨漢があった。しかも富士を背負って―。(中略)丹沢山に腰かけ、相模の海に足をひたして、(中略)煙管をとり出してたばこを喫う。(中略)灰がらを海の中に払いすてた。(中略)突如として島が盛りあがり、その中ほどから噴き上げる煙は中天にとどくばかり。二服目の灰殻を足柄山に捨てたが、その火も消えずいつまでも燃えつづけたという。(中略)帯のゆるんでいるのが気になり、富士を丹沢の裏側の山に重ねおいて、締め直しにかかった。ところが近所の山神から、「こんな大それたものをすえ置かれては迷惑、すぐのけてくれ」と苦情がでた。「済まぬ。ちょっとまってくれ」といって、(中略)下帯まで解きその端を引きずった跡が細長い凹地になり、そのゆえに「ふどしくぼ」(相模原市内)とよぶのだという。再び富士を背負って歩き出した一跡歩が淵野辺の鹿沼(かぬま)であり、次が長池(八王子市別所)になったという。だいだらほっちは、武蔵野にさしかかって、この広い原野に富士をすえたら(中略)と思いつき原の頭領に申し入れた。「それは困る。―せっかく一望千里の野ッ原がふさがり、(中略)ほかの土地にしてくれ」と、ことわられた。(中略)甲斐の国にやってきた。「富士を山の仲間にしてもらいたいが―」「山また山で、そんなでっかい山を置く余地がない。たってというなら、西の国ざかいへでも」(中略)信濃からも駿河からも国ざかいに片寄せてなら―と、(中略)しかたなく甲斐と駿河の境目に富士をおろした。(中略)莨(たばこ)をふかし山の頂上になんべんも灰殻をすてた。(中略)いつまでも噴煙をあげた。富士をすえるとき、だいだらほっちが踏みしだいた足跡にしだいに水がたまり、五つの湖水になったというが、その後、だいだらほっちはどこへいってしまったのか、ようとして消息が絶えてしまったという[町田市史編纂委員会(編),1976:pp.1431-1433]。

 この話は同市内の民話集にも載せられているが[町田市文化財保護審議会(編),1997:pp.8-10]、
実に壮大なスケールの話であって、太平洋の彼方から富士山を担いでやってきた巨人は、丹沢山に腰かけて相模湾に足をひたし、落としたキセルの灰は伊豆七島の火山となった。神奈川県相模原市内のふんどし窪や鹿沼、八王子市内の先の長池、山梨県内の富士五湖などをもを生み出した後、巨人は甲斐・駿河国境に富士山を据え、どこかに去っていったという。
 東京都内におけるダイダラボッチ伝説の伝承実態を、ここではありのままに紹介してきたが、約30ヶ所もの巨人伝説の内訳が、とりあえずは明らかにされたものと思われる。伝説の主人公であるダイダラボッチという名の巨人が、民間信仰上においてどのような意味と性格とを持つ存在であったのかについては、また別途考えてみなければならない。ここでは取りあえず、その実態を提示してみたに過ぎないが、当面はそれで充分だろう。柳田国男氏は先述の通り、東京は日本の巨人伝説の一大の中心地であるとしておられたのだが、「我々の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像してゐたのである」と述べられたその実感が[柳田,1962:p.306]、今このようにして私たちの中に共有されたものと考えたい。
 
引用文献
福島竹亭,1918「夢の里」『武蔵野』Vol.1-1,武蔵野会.
原田重久,1974『武蔵野の民話と伝説(上)』,有峰書店.
亀山慶一・他(編),1983『大田区史(資料編)・民俗』,大田区.
北区役所(編),1951『北区史』,東京都北区役所.
町田市文化財保護審議会(編),1997『町田市の民話と伝承』Vol.1,町田市教育委員会.
町田市史編纂委員会(編),1976『町田市史』下巻,町田市.
南方熊楠,1971「ダイダラホウシの足跡」『南方熊楠全集』Vol.3,平凡社.
武蔵野市企画広報課(編),1982『むさしのところどころ』,武蔵野市.
清水庫之祐,1985『多摩の伝説』,清水庫之祐.
杉本林志,1939『狭山之栞』,巌松堂書店.
杉並区役所(編),1955『杉並区史』,東京都杉並区役所.
鈴木堅次郎,1919「駒沢行」『武蔵野』Vol.2-2,武蔵野会.
世田谷区(編),1962『新修世田谷区史』上巻,世田谷区.
高澤寿民,1985『史話武州多摩郡川口』,揺籃社.
田中 斉,1999「中藤の口承文芸」『武蔵村山の民俗・その四』,武蔵村山市.
田中 斉,2000「口承文芸」『武蔵村山市史・民俗編』,武蔵村山市.
谷川磐雄,1919「武蔵野の巨人民譚」『武蔵野』Vol.2-3,武蔵野会.
柳田国男,1962「ダイダラ坊の足跡」『定本柳田国男集』Vol.5,築摩書房.
 
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