西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 18   2013年7月号
長沢 利明
種子島の瀬風呂・岩穴風呂
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 鹿児島県の種子島には、不思議な風呂がかつては見られた。そこでおこなわれてきた、まことに古風な入浴法は今ではまったく廃れてしまったけれども、経験者がまだ何人か健在で、当時の話を聞くことができる。その不思議な風呂には二タイプがあって、まずは「瀬風呂(せぶろ)」であり、海岸の露天風呂なのであって、海水を沸かした風呂に入浴する。もうひとつは「岩穴(いわな)」とか「湯穴(ゆな)」とか呼ばれ、こちらはいわゆる蒸し風呂で湯には浸からず、洞穴の密室内で火を燃やして高温にし、そこにこもって汗を流す。こうしたやり方で風呂を焚くことを、「瀬風呂焚き」・「岩穴焚き」といった。どちらも今ではおこなわれていないが、その施設跡が島内各地に残っており、当時をしのぶことができる。また、それらの施設はいずれも、家々の所有するものではなく、集落全体の共有設備なのでもあった。つまりは、共同浴場だったというわけなのだ。
 最初に瀬風呂の方から見てみよう。瀬風呂とは先述の通り、海浜に設けられた露天浴場なのだが、その浴槽は人が作ったものでは本来なく、自然が作った天然の岩のくぼみだった。種子島の四周の海岸には、遠浅の砂浜海岸というものがあまり多くない。もちろん北種子地域には、少しはそれがあって海水浴場などにもなっているし、南種子地域の竹崎海岸や広田海岸などは実に広大な砂丘地帯なのだが、砂浜の奥には岩場が結構あって、九十九里浜とか三保の松原とかの感じではない。島内の多くの海岸は、ゴツゴツとした岩場の続く磯浜海岸なのであって、ちょうど伊豆半島のような印象なのだ。そうした海岸の岩場には、大きな岩の割れ目やくぼみがよくあって、そういう場所が瀬風呂に用いられた。とはいえ満潮時に海中に没し、干潮時に潮溜まり池になって残されるようなタイドプールでは、海藻が生えていたりしてあまり適さない。きれいで清潔な天然浴槽でなければならないのだから、波打ち際からある程度離れた場所にある渇いた窪地がよい。満潮時にも海中に没することのない、汀線から少し遠ざかった所にある岩のくぼみが、瀬風呂として用いられることとなるが、例外もまた少しは見られる。
 単なる岩のくぼみを浴槽に変えるためには、そこに海水を満たさねばならない。村の男たちが集まって労力を提供し、集団でまずは海水を汲む。桶やバケツを用い、ひたすら海から海水を汲んで岩のくぼみまで運び、そこに海水を溜めていく。1時間ほどかけて、ようやく岩のくぼみに充分な海水が溜まり、池のようになると、今度はその海水を沸かして湯にしなければならない。海岸に打ち上げられている流木を集め、さらには山から運んできた薪を、かたわらに積み上げて盛大な焚火を焚く。焚火の中には、その辺に転がっている海岸の石をどんどん放り込み、石を熱して要するに焼け石を作る。よく焼けて高温を帯びた石は非常に熱いので、木の枝ではさんで焚火の中から取り出し、そのまま溜めた海水の池の中に投じる。焼け石はジュワッと音をたてて水中に沈んでいくが、熱を放出して海水を温める。冷めた焼石は取り出して、再び火中に投ずる。何度もこれを繰り返していくうちに、溜められた海水はどんどん熱くなっていって、風呂の湯となるのだ。焼石にする浜石は、木の枝で挾んで運べる程度の重量の石でなければならず、せいぜい直径20pくらいのサイズで、それを20〜30個も放り込めば、充分に熱い湯になった。
 海を目の前にして、天然の岩風呂に浸かる爽快感は、何ものにも代えがたいものがあるだろう。温泉地の露天風呂でリラックスするのと、それは同じことだ。田植えや稲刈り、サトウキビ刈りなど、農繁期のきつい労働の開けた後には、集落ごとに1週間から10日間ほど連日の瀬風呂を沸かして皆で入浴し、疲れを取った。したがって瀬風呂とは、おもに夏に入浴するものなのであって、ただでさえ暑いのだから、それほど高温に湯を沸かす必要もなかった。そして瀬風呂の本来の入浴目的は、諸病の治癒ということにあり、その点でも温泉の湯治と同じだった。瀬風呂は婦人病や皮膚病の治療にとても効果があったといい、そういう病いをかかえる老人や婦人たちが、毎日集まったという。海藻のホンダワラなどを瀬風呂に放り込んでおくと、エキスがにじみ出て薬用効果が高まるともいう。けれども、真に大切なことは大自然の中で露天風呂に入浴してゆったりするということだったろうし、その精神的な癒し効果の方が、ずっと重要だったのではないだろうか。露天風呂に浸かって、心身ともにリラックスするという習慣は、日本人以外には見られなかったことだ。ボーリング掘削技術が進歩したおかげで、今では種子島の島内にも何ヶ所か温泉地が出現したけれども、かつてはなかった。瀬風呂はそれに代わる湯治場だったものと思われる。
瀬風呂にはいろいろな形態があって、そのもっとも素朴な形と思われるものは南種子町茎永の川尻海岸にあった瀬風呂だろう。実に小さな海岸の岩のくぼみ、というよりも割れ目であって、大人2人がやっと横になって入れる程度のサイズだ。そこに海水を汲んで満たすだけの風呂で、焼け石で湯に沸かすことをしない。真夏であれば、太陽に照らされた岩の表面がかなり熱くなって、瀬風呂の湯もぬるま湯程度には温まった。もし、ぬる過ぎるということなら、そばの岩の上に裸で寝そべっていれば充分に身体が温まり、熱過ぎるほどだったという。要するに身体を温めるというのが目的で、夏風邪やハシカにかかった子供らが、親に連れられて入浴に来る。1950年代の中頃生まれ以前の世代ならば、誰でも幼少時にここで瀬風呂を浴びた経験があるはずだ。あせも・肌荒れ・皮膚病などにも効いたという。このように、まったく湯を沸かさない瀬風呂というものもあった。
 茎永にはそのほか、大崎・竹崎海岸にも瀬風呂があって、海岸の平らな岩場にある天然の潮溜まりを瀬風呂として利用した。適当な潮溜まりがない場合には、砂岩層の柔らかい岩場に穴を掘って海水を満たしたという。そこに焼け石を放り込んで湯を沸かし、かわるがわる入浴した。破傷風や切り傷の治癒に効果があったという[中村,1974:p.253]。竹崎海岸のものは私も見にいったが、種子島宇宙センターのすぐ隣の海岸に、その遺跡が残っている。科学の最先端を行く日本の宇宙開発の最前線の地に、こんな古風な風呂跡が残っているのもおもしろい。今では利用されなくなり、しかも海砂でほとんど埋まってしまっているけれども、台風による高波で洗われて、時折は地上へそれが露出する。見たところでは、風呂は人工的に岩を掘って作られた四角いくぼみで、柔らかい岩なのでツルハシで結構簡単に掘れたという。浴槽の広さはほぼ畳2畳分、深さは約50pほどで、すわって入ると全身を湯に沈めることができない。半身浴のようなもので、幼児用のプールだと思えばよい。横になって手足を伸ばせば、何とか全身が浸かることができる。海水は海から汲み、焼け石を投じて沸かしたが、夏なのですぐに海水が熱くなったそうだ。皮膚病によく効いたが、他集落の瀬風呂のように、海藻を湯の中に入れて薬効を高めるようなことはしなかった。1950年代まで使用されていたという。
 南種子町恵美ノ江の瀬風呂も切り傷・破傷風に効能があり、幼児のあせもの治療にも用いられた。子供が海で泳ぎ疲れたり、冷えた時などにも、瀬風呂で温まると回復するという。縦80p・横120p・深さ50pほどの小さな岩のくぼみに海水を入れ、焼け石で沸かした[向井,1989:p.82]。同町内広田の海岸にあった瀬風呂は、もっとも立派なものだったといえるかも知れない。下野敏見著『種子島の民俗・T』には、その写真が載っているが[下野,1982:p.39]、それを見ると海岸の岩場に石を積んでセメントで固め、円型のプール状に露天風呂を作っており、なかなか凝った造りで、まさに温泉場の岩風呂そのものだ。傷や婦人病平癒の効能で知られ、焼け石を作るために薪を焚く世話役が何人か置かれていて、「棟梁」と呼ばれていたそうだ。私は、この広田の瀬風呂をぜひ見てみたいと思っていた。さいわい「種子島の番人」を自称する名物タクシー運転手、伊藤敏夫氏という案内人がおり、どこでも私の行きたい所に連れていって下さったので、さっそく車を飛ばしてもらった。ところが広田海岸に着くと、どこを見渡してみても瀬風呂が見えない。「おかしいなあ、この辺にあったんだがなあ」と伊藤氏も不思議がっていた。地元の人にたずねてみると、先の台風で浜の景観が一変してしまい、高波の運んだ海砂でそれは完全に埋没してしまったとのことだ。ということで、広田の瀬風呂跡は残念ながら見ることができなかった。
 そこで私たちは次に、西海岸の大川という所の瀬風呂を見に行ったが、こちらはその残骸が何とか残っており、観察することができた(写真28)。


写真28 瀬風呂跡(鹿児島県南種子町大川)

写真29 湯穴風呂(鹿児島県南種子町広田)
 これも、なかなかに凝った造りで、波打ち際の岩のくぼみをセメントで固め、2×1.8mほどの方形の浴槽が整えられており、中が土砂で埋まっているので底は見えないが、おそらく50pほどの深さだったろう。この浴槽内には隔壁があって二つに仕切られており、熱い湯とぬるめの湯とに分けられていたらしい。かたわらにはコンクリートでできたタタキと4本の柱の根元部分が残っており、屋根があったこともわかる。屋根つきの瀬風呂とは大変珍しい。屋根があれば、夏の強い日差しを避けることができるし、雨の日でも入浴できる。実に立派な露天風呂がここにあったのだが、これまた台風の高波ですべて破壊されてしまい、土台の部分のみが今残っている。地元の古老に聞いたところ、この大川の瀬風呂は戦後の1970年代頃まで使用されていたといい、集落の老人たちがゲートボールをやった後に皆で入浴して汗を流していたそうだ。疲れがよく取れ、足腰の打ち身・打撲の治癒にも効果があったといい、湯を沸かす際に浴槽内に海藻のホンダワラなどを一束放り込んでおくと、薬用効果がさらに高まったという。まず最初に婦人たちが入浴し、その後は男性陣が交替して入ったというから、混浴ではなかった。瀬風呂の脇の岩峰上にはエビス神を祀った小祠もあって、多少は信仰的な意味もあったかも知れない。
 島内北部の西之表市住吉・深川・竹屋野などでも、数十年前までさかんに瀬風呂が焚かれていて、あちこちの瀬に赤く焼けた痕跡が残されている。竹屋野の場合、満潮時に潮の掛かる汀線間際の岩のくぼみを利用し、少し手を加えて2×1.5mのものと1×1mのものとの、二つの浴槽を設けていて、深さはいずれも60pほどだったという。周辺はヤキ灰(焼いた石灰岩を水に溶かしてセメントのようにしたもの)を塗って固めていた。風呂は満潮時には海面下に没し、干潮時にはそこに海水が溜まったまま残るので、そこに焼け石を投じて湯に沸かした[小山田,1963:p.51]。この方式だとバケツで海水を汲む必要がないので、楽ではあったろうが、干潮の間しか入浴できないという点は短所ではなかったろうか。なお同市内の住吉里・沖ヶ浜田では、かつて「砂風呂」・「床燃し」という入浴法も見られたそうで、庭に細長い穴を浅く掘り、焼け石を中に並べ、海砂と草を上にかぶせ、その上に人が寝転んで身体を温める方式だった。指宿温泉の砂風呂のようなもので、打ち身・神経痛によく効いたという[川崎,1969a:p.6]。島内南部の場合、『南種子町郷土誌』によれば、島間地区に4ヶ所(中之町・田尾・後の湊小平山・上方)、西海地区に4ヶ所(下立石・上立石・大川・牛野)、西之地区に6ヶ所(本村・小田・野尻・木原・砂坂・下西目)、下中地区に2ヶ所(長瀬の峯・水たまり)、茎永地区に5ヶ所(川尻・竹崎・大崎など)、平山地区に2ヶ所(浜田・広田)、瀬風呂があったと記録されている[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:pp.1377-1378]。
 さて、今度は岩穴風呂について見てみよう。それは冒頭にも述べたように、崖などに掘られた洞穴を利用した蒸し風呂なのだが[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:pp.1379-1380]、いろいろな岩穴焚きの方法があった。洞穴の中で火を焚いて燠を作り、バショウ・クスノキ・ゲットウ・ショウブ・ニッケイなどの葉をかぶせ[向井,1989:pp.81-82]、その上に人がすわったり腹ばいになったりして汗を流すという方式があったし、燠を囲んで輪になって温まるというやり方もあった。いずれにしても洞穴の入口は扉でふさがれ、熱が外に逃げないようにした。これはいわゆる「石風呂」というもので、乾燥浴方式の蒸し風呂といってよく、要するにサウナ風呂と同じだ。瀬風呂が夏の入浴法であったのに対し、岩穴風呂はもっぱら冬の風呂だった。また、海岸部では瀬風呂が、海から離れた所では岩穴風呂がよく用いられた[下野(編),1995]。瀬風呂と同様、岩穴風呂も種子島の全島に広く見られたものなのだが、今ではまったくおこなわれていない。しかし、その岩穴は今でも各地によく残っている。それを手掛かりにして、各地の岩穴風呂のかつての利用実態を、詳細に調べた研究者がいる。南島民俗研究会の川崎晃稔氏がその人で、島内28ヶ所の岩穴風呂の遺跡を調査された[川崎,1969a;1969b;1970]。その成果を整理してまとめ直してみたのが表2および図6だ。

表2 種子島の岩穴風呂遺跡一覧
所在地 立地 規模 功能 備考
1 西之表市国上湊 丘の中腹  −  −  −
2  〃 沖ヶ浜田部 神社の付近 内部は6尺四方 破傷風・出来物・淋病 真ん中に火を焚き、背を向けて汗を流す。水桶を置き、暑ければ飲む。硫黄を焚くことも。大正中期まで使用。
3  〃 大崎花里崎 山中 内部は畳3帖ほど 天然痘 火を焚き硫黄を燃やして養生。すでに経験者はいない。
4  〃 安城大野 神社の付近 入口の高さ5尺度。内部は径2尋。 草ぶるい 中央で火を焚き、身体をあぶって汗を流す。道路建設で破壊された。
5  〃 安城下之町  −  −  − 火を焚いて身体をぬくめた。周辺の地名を「湯穴のくぼ」といい、古くからある。
6  〃 現和武部  −  −  − 自然洞を利用。士族らも湯治に用いたと伝える。
7 中種子町泊久今熊野  −  −  − 病気の治療目的ではなく単なる蒸し風呂。男女とも裸で入浴。大正時代まで使用。
8  〃 坂井熊野 畑の脇 入口は縦1.05m・横0.95m、内部は2.1m×3.1m。  − 入口の穴の上に蓋(扉)をくくりつけるための小孔がうがたれている。
9 南種子町平山冷水 山中 入口は縦4尺・横2尺、内部は2m×1.8m。  − 戦時中は防空壕として利用。内部は大人が5〜6人程度座れる広さ。
10  〃 平山広田 海岸付近 入口は縦1.3m。内部は2m四方。高1.5m。 破傷風・神経痛・リューマチ 戦前まで焚いた。南種子町の文化財(史跡)に指定されている。
11  〃 平山浜田 海岸付近  −  − 自然洞穴に木や竹を組んだ人工的な壁(表面に粘土を塗る)を付け足して広くし、10人くらい入れるようにした。昭和初期まで使用。
12  〃 平山徳瀬  −  −  − 1949年頃まで使用。
13  〃 平山前田(ムタダ)  −  −  − 「湯中のうと」という所にあり冬の農閑期に7〜10日間焚く。午前中に4〜5人の世話人が薪を運び洞内で焚く。午後は浴衣などを着て2〜3回入浴。手弁当で湯穴上りする。米1升ずつ持ち寄って世話人に謝礼。
14  〃 平山仲之町 山中  −  −  −
15  〃 茎永阿多惜経 @山中・A墓地脇 Aの方は一度に10人くらい入れる広さ。  − @のある山を柳弓場塩入(やなぎゆみばしおいり)という。1907年頃まで使用。Aはそれ以前に休止。田植え上がりの閑期や盆の前後に1週間ほど焚く。老人2〜3人が周囲5尺の薪5〜6束を燃やす。燠の上にクスノキ・バショウの葉を敷き、午後入浴。「上がり」は酒肴を持ち寄って歌舞で賑わった。
16  〃 茎永仲之町 山麓 入口は縦1.5m・横1m。洞内は幅2m、奥行3m。 草ぶるい 1921年頃までやった。年に2〜3回焚き、1週間続ける。生木を中心に焚き、燠の上に木の葉を敷く。最終日に「湯穴上がり」。
17  〃 茎永雨田  −  −  − 1918〜1919年頃まで焚いた。
18  〃 茎永松原  −  −  − 銭木という所にあった。
19  〃 下中夏田 山中  −  − 1907年頃まで焚いた。年に1回、田植え前に焚いた。洞内で火を焚き、生柴を敷いた。
20  〃 下中里 川沿い 洞内は畳2帖ほどの広さで、一度に6〜7人が入れた。 身体のだるさ・神経痛・草ぶるい・喘息 1929〜1930年頃まで焚いた。2〜3人の老人が発起して2時間かけて焚く。年に2〜3回、農閑期に10日間焚く。燠の上にクス・イゲシの葉を敷く。15分間を2〜3回入浴。「湯穴上がり」は御馳走を持ち寄り酒盛り。
21  〃 西之田代 神社境内 入口は縦1.2m・横1m。洞内は直径2mの円形。  − 粘土層を掘った洞穴。4人くらい入ると満員になった。
22  〃 西之中西目  −  −  − 1897年頃まで焚いた。
23  〃 島間牛原  −  −  −  −
24  〃 島間上方  −  −  −  −
25  〃 島間田尾  −  −  −  −
26  〃 上里  −  −  − 夏と冬の農閑期に老人らが中心となって焚く。洞内にドロ石を敷いて火を焚いた男は褌一つ、女は腰巻だけで入浴。「湯穴上がり」もしたらしい。
27  〃 河内  −  −  − 大正末期まで焚いた。2ヶ所あった。責任者の老人を「火竿取り」といい朝から焚き始める。昼から入浴し1日に3回くらい入る。
28 西之表市現和武部  − 入口は縦2m・横3m、内部は1×3.5m。  − 明治時代まで利用。洞穴内で火を焚き、床にイカダを組んで、その上に裸で寝る。
注)川崎,1969a:pp.1-6;1969b:pp.1-8;1970:pp.6-7をもとに作成。次図も同様。
 

図6
 これらの中で、初めて私が目にしたのは南種子町茎永のもので(表2の16)、茎南小学校のすぐ裏手の道端に、今でもそれが残っている。崖面の砂岩層に掘られた小さな洞穴で、入口は非常にせまいものの、中が少しは広くなっているのは、熱を逃がさぬための工夫だろう。5〜6人も入れば一杯になりそうなせまさで、こんな穴の中で火を焚けば相当に中は熱くなるに違いない。よく一酸化中毒にならなかったものだ、とも思う。茎永の松原や馬宇都にも、かつて岩穴風呂があったというが[近藤,1995:p.302・中村,1974:p.315]、今ではもうすっかり荒れ果てていたり、場所さえわからなくなってしまっている。同町広田には2ヶ所に岩穴風呂の跡があって、一つは田代神社の境内(表2の12)、もう一つは広田海岸に今もある(表2の10)。後者の岩穴風呂はもっとも有名なもので、1972年3月30日に南種子町の文化財(史跡)に指定されている。ここでの岩穴焚きのやり方は、次のようなものだった。まず洞穴の中で盛大に焚火をし、洞内の岩壁をよく熱して温める。次にその燠火を洞内の真ん中に集め、その四周に小枝や柴、さらにはバショウ・ゲットウの葉を敷き詰め、その上に入浴者らがすわる。稲藁を編んで作った扉で入口を塞いで蓋をし、熱気が外に漏れないようにすると、中は相当に高温となり、嫌がうえにも汗がダラダラと噴き出してくる。そのようにして汗を流すと、ヒエヒキ(破傷風)・神経痛・リューマチを治癒することができるとされていた。冬場の農閑期の10〜15日間、毎日連続して岩穴焚きがおこなわれ、地区の老人たちが毎日入浴におとずれた。それは村の社交の場としても、重要な役割を果たしてきたのだ。
 「種子島の番人」、伊藤敏夫氏に連れられて、私もこの広田の岩穴を見学することができたが、茎永のそれと同様、やはりそれは砂岩層を掘り込んで作られた人工的な洞穴だった。洞穴の入口はこれまた狭く、そこから洞内をのぞき込むと中は結構広くて、10人くらいは座ることができそうだ。ここでの岩穴焚きは長い間、廃れてしまっていたが、地元の西銘吉十郎氏らが中心となって再興・復活がなされ、1973年4月には洞穴に修理が施された。1996年12月12・14日には実際に岩穴風呂が再現され、平山小学校の児童らも1回約15分ずつ入浴して、貴重な体験をしたとのことだ[南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会(編),2010:p.14]。この広田地区においては先述のごとく、夏の瀬風呂もさかんにおこなわれ、冬はもっぱら岩穴風呂がなされてきた。どちらもかつては、「棟梁」と呼ばれる世話役が、その風呂焚きの奉仕にあたってきたのだが、その当時の様子は以下の通りだ。
 岩穴入りなどの場合、薪を炊いたりする世話役が何人かずつ任意に立ったが、これを棟梁といった。(中略)岩穴というのは、一種のサウナ風呂で、平山では広田の浜近くと徳瀬の近くにある。奥行き三メートル、高さ二メートル、幅二・五メートルほどの岩穴の奥に棟梁が火を焚き、燃え切って炭火になったところで穴に大勢入り、体を蒸し、汗を流すカラムシロブロである。チチグサ、キングサ、クビクサなどというクサフリィ(冷え症)によく効くという。岩穴は一五〜六日間、毎日焚き続けるが、そのあがりと称して、白米三升ずつを入浴した人ごとに集めて、岩穴入口の前庭で棟梁に対して慰労会をした。白米は四人の棟梁に分けて与えられた[下野,1982:pp.39-40]。
 ここにもあるように、岩穴風呂の最終日になされる棟梁の慰労会が「湯穴上がり」で、連日にわたり薪を運んで焚いてくれた世話人らの労をねぎらった。最終日は入浴時間を早めに切り上げて、この慰労会をおこなうことになっていたが、焼酎や肴を手弁当にして皆が持ち寄る。入浴した者のみならず、その家族らも連れてきてよい。野外宴は岩穴の前の広場でおこなわれ、歌や踊りまで飛び出すにぎやかなもので、村の重要な娯楽レクリエーションの機会でもあったろう。棟梁に対しては、各自米5合ないし1升ずつを手渡し、謝礼としたとのことだ[川崎,1969a:p.5]。なお言い忘れたけれども、先の瀬風呂の場合にも、最終日には「瀬風呂上がり」が催され[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:pp.1378]、やり方は岩穴風呂の時とまったく同じだったそうだ。なお、湯穴焚きにともなう信仰的側面についても、少し触れておこう。南種子町平山の岩穴風呂の場合、朝に洞穴内で薪を焚き始める際、岩穴に塩と神酒を供えて柏手を打ち、拝礼をしたという。入口両側に塩を盛り、洞口の上から神酒を垂らし、洞内にも塩をまいた[同:p.4]。シュエイ(潮井)といって、海砂を笹やシダの葉で包み、ツトにしたものをささげる所もある。種子島では何かというと神にシュエイを供える風があり、そのつど海岸へおもむいて神聖な海砂を迎えてくるのだ。
 種子島の岩穴風呂は、いわゆる「蒸し風呂」・「石風呂」にあたるものだ。厳密にいうと蒸し風呂は、蒸気浴方式と乾燥浴方式とに分かれる。前者は密室内を蒸気で満たす湿式の風呂で、古い寺院や温泉地などにその施設が残っている。後者は蒸気を用いず、熱だけで発汗をうながす乾式の風呂で、種子島の岩穴風呂はこれにあたり、北欧の本場のサウナ風呂も本来、この方式なのだった。蒸気浴方式・乾燥浴方式の両者を含む、いわゆる石風呂というものは西日本の各地、特に瀬戸内海沿岸地方に多く見られたもので、あちこちにその遺跡が残っている。私の知るところでは、たとえば三重県度会郡玉城町宮古にそれがあり、現存するものとしては三重県内唯一の例で、県の有形民俗文化財にも指定されている。一坪ほどの広さの浴室内の床石を、下から薪を燃やして焼き、水を掛けて大量の蒸気を発生させる仕組みの風呂なので、これは蒸気浴方式だ。御頭神事の獅子舞の舞手がここで入浴・潔斎をしたというから、神事用の蒸し風呂なのだった。同県安芸郡安芸町にもかつて、宇気比神社の神事に使用した石風呂が四ヶ所あったというが、いずれも蒸気浴方式で、三重県の石風呂はみなそうだったらしい。愛媛県今治市の「桜井の石風呂」も、洞穴内で松やシダを燃やし、海水に浸したムシロをかぶせて蒸気を発生させる方式だった。神経痛・リューマチ・肩凝り・喘息の治癒に効果があったそうで、今も用いられている。同市内にはほかに、「湊石風呂」もあった。徳島県名西郡石井町利包にある石風呂は石を積んで赤土で固め、石室を作ったもので、薬師庵という寺院が運営し、諸病の治療に用いられた。石室内で松葉を燃やし、それを掻き出して水をまき、蒸気を発生させた。同様なものは、徳島市大原町篭にもある。
 山口県山口市の「加茂石風呂」も、焼石に水を掛けて蒸気を立たせる方式だ。同市内徳地の「野谷の石風呂」は、国の史跡に指定されている。徳地には「岸見の石風呂」もあり、重源上人ゆかりの史跡でもあった。同県大島郡周防大島町の「久賀の石風呂」は、国指定の有形民俗文化財で、西日本最古の石風呂跡とされ、1186年(文治2年)に築造されたと伝えられている。周防大島には「家房(かぼう)の石風呂」もあり、浴室内に海藻を敷き詰めて入浴するのが特徴だった。同県防府市阿弥陀寺の「湯原石風呂」の場合は、浴室内のムシロの下にヨモギ・セキショウ・ビワの葉などの薬草を敷き、効能を高めている。大分県豊後大野市の緒方町地区は石風呂の集中地帯で、@尾崎の石風呂(小宛)、A辻川原石風呂(辻長瀬)、B市穴石風呂(原尻市穴)、C中原石風呂(井上中原)、D上戸石風呂(原尻)、E平の石石風呂(原尻)、F大塚石風呂(大化)、G麻生石風呂(軸丸北)、H野仲石風呂(野仲)、I下自在石風呂(下自在)、J徳尾石風呂(平石)、K瀬の口石風呂(池田石殿)の12ヶ所があった。@は緒方町の、Aは辻区の、それ以外は個人の所有だったという。こうして見てくると、西日本の各地にあった石風呂の多くは蒸気浴方式で、種子島の岩穴風呂とは対照的だ。分布の上でも種子島は、瀬戸内中心の石風呂の集中地帯からは遠く南へ隔たっており、広義の蒸し風呂の南限にあたるものかも知れない。いずれにしても種子島のそれは、かなり独自性を持ったものだったといえるだろう。
 種子島の人々は非常に湯治が好きで、村々の年寄りたちは、夏の瀬風呂と冬の岩穴風呂を本当に楽しみにしていた。東北地方などで秋の刈り入れが済むと、老人たちがこぞって近くの温泉場に出向き、自炊湯治を楽しんだのと同じだ。温泉場のなかった種子島では、それに代わる湯治のやり方として、瀬風呂・岩穴風呂という一風変わった入浴法がおこなわれてきたのだ。時には川水を沸かした風呂場を設け、入浴料を取って湯治客を集めようとする者も現れる。中種子町熊野の浦上孫次郎という人がそれで、簡単な小屋を設けて中に畳3帖ほどの大きさの湯舟を作り、小屋の外に大釜を据えて上熊野を流れる小川の水を汲み、そこで沸かして竹の樋を用い、湯舟へ流し入れるという、手の込んだ施設を作った。川底の青い泥には薬効成分が含まれているといい、それを袋に詰めて湯舟に沈めておくと、湯の中に泥が浸み出して薬効を発揮した。川水を飲んでも身体によいという。切り傷・胃腸病に効くといって、中種子・南種子両町内から多い日には12〜13人もの浴客がおとずれ、1銭ほどの風呂銭を取っていたそうで、大正時代末期までこのような湯治場があったそうだ[川崎,1970:p.7]。また,南種子町でも昭和初期、「仁志風呂」という風呂屋が開業していて、仁志という人が岩の間から湧き出る水を樋で引いて風呂桶で沸かし、湯治客に入浴させていた。神経痛・皮膚病・外傷などに薬効があったという[中村(編),1974:p.315]。さらに1901年(明治34年)には、南種子町の惠美ノ江という所で冷泉が発見され、冷泉湯治がそこでおこなわれたこともあって、怪我・神経痛・痛風・皮膚病・潰瘍・胃腸障害・月経不順などに効果があったという[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:p.1380・向井,1989:p.81]。島内唯一の冷泉湯治場が、明治期にあったということは興味深い。
 現在の種子島には河内温泉・わたり温泉・大和温泉など、いくつかの温泉場ができて公営の立派な保養施設も整備されている。町営バスも必ずそうした温泉場を通るように、路線が設定されていて、島内各地区の老人たちは毎日でも気軽に温泉入浴を楽しめるようになった。どの保養施設も連日大賑わいで、島中のお年寄りらがそこに集まってくる。種子島の人々は、本当に湯治が大好きなのであって、そこには瀬風呂・岩穴風呂時代の伝統が継承されているのだろうと、私は見ている。
引用文献
川崎晃念,1969a「タネガシマの湯穴・その一」『南島民俗』12,南島民俗研究会.
川崎晃念,1969b「タネガシマの湯穴・その二」『南島民俗』13,南島民俗研究会.
川崎晃念,1970「タネガシマの湯穴・その三」『南島民俗』16,南島民俗研究会.
近藤津代志,1995「民間療法」『南種子町の民具』,南種子町教育委員会.
南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987『南種子町郷土誌』,南種子町長中峯薫.
南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会(編),2010『南種子町の文化財』,南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会.
向井二生,1989『里のくらし―八方山と寺ン山のあわいに生きる―』,向井二生.
中村義彦(編),1974『茎永郷土誌』,茎永公民館.
小山田 忠,1963「種子島の瀬風呂」『南島民俗』16,南島民俗研究会.
下野敏見,1982『種子島の民俗・T』,法政大学出版局.
下野敏見(編),1995『南種子町の民俗』,南種子町教育委員会.
 
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