西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 14  2012年12月号
長沢 利明
角大師と豆大師
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 天台宗の寺院をおとずれると、庫裡の玄関柱などに何やら恐ろしげな怪物のような、鬼神のような魔物のようなものの姿の刷られた札が、貼られているのをよく目にする。檀徒家の玄関口にもよく貼られているのを見ると、おそらくそれが寺から配られたもので、家々の魔除けとされているのだろうと、誰しもが察するに違いない。それが、いわゆる「角大師(つのだいし)」と呼ばれる祈?札・護符で、天台宗の総本山である比叡山延暦寺の高僧にして、宗門の最高指導者である天台座主(てんだいざす)の地位にもあった、慈惠(じえ)大師良源大僧正の姿を写してあらわしたものなのだという。慈惠大師・良源といわれてわからなくとも、元三大師(がんざんだいし)といわれれば多くの人々が、その名を知っており、この人は正月三日に入滅したので、「元三大師」と呼ばれている。この元三大師は、33体の小さな御影の集合体として表現されることもあり、豆粒のごとくに多数の僧形の描かれた御影なので、こちらの方は俗に「豆大師(まめだいし)」と呼ばれている。「魔減大師(まめだいし)」などと当て字されることもあり[天納,1934:p.3]、「魔を滅する」札というわけだ。角大師は厄除け札で、豆大師は農作物の虫除け札だとされることもあった[松浦,2005:p.78]。角大師札と豆大師札とが一組となって、玄関の両側に貼られることもよくあり(写真15)、家々の魔除け札としての役割を果たしている。


写真15 戸口に貼られた角大師・豆大師札(埼玉県川越市)
 この角大師・豆大師について詠まれた江戸の川柳もたくさんあるので、いくつか紹介してみよう。
角大師湯番をにじる御姿
角大師寝させて大工水を盛り
子供らが切り抜きたがる豆大師
ぐわんぜなさ切り抜てゐる豆大師
豆大師ほど雪踏の鋲の跡
五月雨の軒にひやけた豆大師
日なし貸豆大師など数へて居[松永,1932:p.98・岡田,1958:pp.265-266]
最初の句は銭湯で湯番に文句を言っている湯客に角大師の姿が似ているという意味で、なるほど納得できる。二句目は角大師の貼られた雨戸を横にして、大工が戸のゆがみを点検しているとの意味だ。三句目以降は、豆大師について詠まれている。天台宗の寺院では、寺々の住職が年頭の檀家回りの時などに、檀徒の家々によくこの角大師・豆大師の札を配る例が見られ、独自の版木を伝える寺院も数多い。たとえば福島県下では正月3日の年始に、天台宗寺院の住職が檀家回りをおこない、角大師札を配り歩くそうで、俗にそれを「元三大師のお札」といって、家々の戸口に貼り、厄除けにしたという[鹿野,2004:p.50]。
 元三大師というのは、もちろん俗称・愛称のようなもので、良源の正式な名ではない。そのほかにも、御影大師・降魔大師・御廟(みみょう)大師・木葉(もくよう)大師・御鏡大師などと呼ばれることもあった[天納,1934:p.3]。そして、もっぱら俗称の方で広く呼ばれてきたこと自体、それほど広くこの高僧の存在が、庶民大衆に受け入れられてきたことの証拠でもある。この人の正式な名は先述のように良源といい、没後は慈惠大師という諱号が贈られているので、かしこまった言い方で言えば「慈惠大師良源大僧正」とするのが本来の言い方なのだろう。しかし庶民大衆にとっては、元三大師でよかったのだ。良源は912年(延喜12年)9月3日に、近江国浅井郡岳本郷に生まれた。923年(建長元年)に12歳で比叡山に登って修行生活に入り、55歳で第18代天台座主となった。そして、相次ぐ大火で堂塔が焼け落ち、荒廃していた比叡山の復興をなしとげ、本山の経済的基礎を確立し、山内における宗学の奨励および綱紀粛正をはかって、比叡山中興の祖と呼ばれるまでになり、弟子や門弟は3千人にも及んだという。985年(寛和元年)1月3日に74歳で入滅し、今も比叡山で眠っている。そして没後は、大師を敬慕して敬いつつ、その超人的な神通力ということが言われるようになって、元三大師信仰が生み出されることとなった。角大師・豆大師札はその顕著なシンボルということになろう。
この私が角大師札を初めて見たのは、大学1年の夏休みに長崎県対馬で長期間の民俗調査に従事していた際のことだ。私は対馬の厳原にある醴泉院という天台宗寺院の御住職の御好意に甘えつつ、只でそこに寝泊まりさせていただいていたのだが、居候の身なので、せめて境内の掃除などを毎朝やらせてもらっており、その時に山門の柱に奇妙な札の貼られているのを見つけた。「一体あの札は何なのですか」と、私がさっそく住職にたずねてみたところ、元三大師良源の物語を、師は長々と私に聞かせてくれた。いわく、若き日の良源は日々きびしい修行に明けくれ、仏前での読経三昧を続けていた。そのようにして良源が解脱の域に達し、立派な僧侶として完成してしまうと、誠に困るのが悪鬼・邪鬼の類で、彼らは良源の修業をしきりに妨害しようとし、妖術を使って世俗的な誘惑をさまざまなやり方で仕掛け、修業をやめさせようとこころみる。しかるに良源は食を絶って不断の読経と瞑想とを続け、やせ衰えて骨と皮だけの身となり、自らも鬼のごとくの姿に化して悪鬼・邪鬼の妨害をはねのけ、ついに解脱を達成した。角大師は、その時の良源を描いたもので、鬼神と化した異様な姿の放つ霊力で妖魔を撃退する、だから寺の山門や檀徒家の玄関口にそれを貼って、魔除けとするようになった、とのことだった。
すぐれた求道者が、妖魔による物欲や色欲での誘惑に打ち勝ち、修業を果たすという物語はいろいろある。菩提樹の樹下で瞑想修業する釈尊に、悪魔や夜叉がさまざまな誘惑を仕掛ける話が仏典に語られているが、それがいわゆる「降魔成道(ごうまじょうどう)」の説話で、もちろん釈尊はそれに屈することなどなかった。新約聖書でいえば、「荒れ野の誘惑」というのがそれにあたり、ヨルダン川での洗礼を受けたイエス・キリストが、洞窟内で40日間の断食修業を続けていた時に、サタンの手による種々の誘惑に打ち勝つ。偉大な宗教的指導者というものは誰でも、そうしたきびしい試練を乗り越えてきたのだろう。良源元三大師もまたしかりだった。断食修業を経た釈尊は、骨と皮ばかりの痩せ衰えたミイラのごとくの肢体となり、それを描いたガンダーラ仏彫刻が著名な「釈迦苦行像」だ。元三大師もまた同じで、角大師札の図像を見みると、あばら骨が浮くほどに痩せこけた大師の身体は、あたかも餓えた餓鬼の姿を思わせる。しかもその虚ろな両眼は妖怪変化のごとくで、何とも異様で不気味でおどろおどろしいし、どう見てもこれは魔物の姿に見える。しかもその頭上には、長く伸びた2本の角まで生えており、これではまるで鬼そのものであって、ガンダーラ仏の誇張すら超えている。
一体どうして、これが偉大なる元三大師像なのか。屈指の高僧だった元三大師良源が、なぜにこのようなみすぼらしくも怖ろしい姿の御影として描かれねばならなかったのか。私たちは理解に苦しむ。松尾芭蕉の俳句に、「角大師井手の蛙のひぼし哉」というのがあるそうで、大田南畝や山中共古は、芭蕉らしくない句だと言っている。まったくその通りで、井戸端で干上がってミイラになった蛙が角大師のようだというのだが、「古池や」の蛙とは大違いで、まるで情緒がない。山中共古はさらに、「そはともかくも、角大師豆大師の御影には中々古風なるものあり。角大師の眼二重輪にならず、手足太く、角短く、面横巾ありて耳大きく(中略)、此の類の御影多くあれど、井手の蛙のひぼし哉と詠れし如きは前記の古御影ならんか」とも述べている[山中,1985:p.154]。良源が長らく暮らし、今もそこに眠る比叡山内の聖地、横川(よかわ)の四季講堂(元三大師堂)では、角大師の由来を次のように説明しているので、以下に紹介してみよう。
永観二年、全国に疫病が流行して、ちまたでは疫病の神が徘徊し、多くの人々が次々と全身を冒されていった。お大師さまは、この人々の難儀を救おうと大きな鏡に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ、禅定(坐禅)に入られるとお大師さまの姿はだんだんと変わり骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中でただ一人の明音阿闍梨だけが、このお姿を見事に写しとられた。お大師さまは写しとった絵を見て版木でお札を刷るように命じられ、自らもお札を開眼された。出来上がったお札を一時も早く人々に配布して、各家の戸口に貼り付けるように再び命じられ、病魔退散の実を示されたのであった。やがて、このお札(角大師の影像)のあるところの病魔は怖がられて、よりつかず一切の厄難から逃れることが出来た。以来、千余年このお札を角大師と称し、元三大師の護符としてあらゆる病気の手本と厄難の消除に霊験を顕し、全国に崇めらているのである[鹿野,2004:pp.50-51]。
大師の瞑想苦行は、984年(永観2年)における疫病の流行から大衆を救うために、なされたというのがここでの説明で、私が対馬の寺で聞いた話とは少し異なり、悪鬼による苦行の妨害・誘惑のことなどは、ここでは語られていない。比叡山横川は元三大師信仰の発祥の地なのだから、おそらくはこちらの話の方が本拠地に伝えられた本来の由来説話だったのだろう。それにしても、この時代の天台宗の僧侶は座禅ということをやり、骨と皮ばかりになるほどのきびしい断食修業をしたというのだから、興味深い。その修行は鏡の前にすわってなされたので、「御鏡大師」という呼び名も生まれることとなった。
 さて、先の山中共古の指摘にもあったように、角大師・豆大師の図像にはさまざまなものがあり、寺ごとに独自の版木が用いられてきたために、いろいろなヴァリエーションが存在する。それらを見比べてみるのも、なかなか楽しいので、いくつか紹介してみよう。私の持っているコレクションの中から、代表的なものを選んでまとめてみたのが、図3である。
 



  まず図中の1は秋田県男鹿市の真山神社から出されていたもので、専門の彫り師が版木を彫ったものとは思われないが、その分ユーモラスな印象のある鬼の姿となっており、頭の角もごく小さい。神社から出されていた角大師札というのは大変珍しい。2は岩手県二戸郡浄法寺町の天台寺のものだが、これもあまり不気味さがなく、怖くないタイプの角大師といえよう。3は栃木県日光市の輪王寺のもので、「角大師御符」と呼ばれている。鬼門除け札として年頭に寺から信徒家へと配られるが、札の裏に家族全員の名前と生年月日を右から年長順に縦書きし、それを封じて居間の北東または北の方角にあたる壁に貼り、立春から翌年の節分日までの間、祀られることになっている。1年の間、その家の鬼門を守った札は、次年度の新しい札と取り換えた後、庭先で焚き上げて処分してもよいことになっている。
4は群馬県太田市世良田にある名刹、長楽寺の大判手刷り札で、江戸初期のものという古い版木を用いて刷られている。大変貴重な版木で文化財指定待ちの状態であるといい、かなり磨滅してしまっているため、極力使用を控えていて、年末に檀家に配る札の分を刷るのみとのことだ。この版木は境内のイヌザクラの木を切って彫られたともいい、今でもイヌザクラの老樹がもう1本、境内に残されている。寺ではこの2枚の元三大師札を「門札(かどふだ)」と称していて、戸口の両側に貼るのが本来の形だが、竹棒を割ってはさみ込み、田畑の境界や村境などに立てて、除災守護とされることもあったという。角大師の方は火難・盗難・厄難除けの札、豆大師の方は「魔滅大師」とも書く魔除けの札とされる。特に豆大師札は、觀音の化身である元三大師が33人の童子の分身に姿を変え、いっさいの魔を取り除くとも、寺では説明していた。
5は埼玉県川越市の喜多院(川越大師)のもので、埼玉県下には広くこれが出回っている。「川越大師」とは、弘法大師ではなく元三大師良源・慈眼大師(じげんだいし)天海とを祀る寺ということで、川崎大師や西新井大師とは意味が異なる。1月3日におこなわれる有名なダルマ市も、もともとは元三大師を祀る元三会(がんざんえ)から始まったものなのだった。この喜多院の信徒家の間には、次のようなおもしろい伝説も伝えられているので、以下に引用してみよう。
むかし、川越の宿に怖ろしい悪鬼が現われて、町の者は慄え上った。そのとき、鬼が喜多院の慈眼僧正を襲ってきたので、僧正はものすごい夜叉の形相をしてはったとにらみ、一喝した。すると、それまで、肩いからせ、町人を慄え上らせていた悪鬼が、たちまちへたへたとなり、僧正に後ろを見せてすごすごといずれへか消え去ってしまった。僧正は、寺に戻ると、鏡の前に行き、先刻眼にした鬼の姿をしてみながら、それを紙に写しとった。これが角大師のお姿である[原田,1976:pp.216-217]。
川越の町を恐ろしい悪鬼が襲い、喜多院の僧侶が法力でそれを撃退したというのだが、悪鬼を退散させたのは何と元三大師良源ではなく、慈眼大師天海であったというのだ。角大師札も、天海僧上を描いた御影ということになっている。天海にゆかりの深い地である川越に、いかにもふさわしい伝承のひとつといえようか。6は同県比企郡小川町の大聖寺(下里観音)の角大師で、「厄除け元三大師」と呼ばれている。さらに同県上川町の大光普照寺(金讃大師)も、角大師の厄除守を出すことで知られている[松浦,2005:p.74]。
 東京都内には角大師・豆大師札を出す寺がいくつもあるが、まずは7の大判札で、これは台東区の輪王寺開山堂(両大師)から出されているものだ。図像は、なぜか6の下里観音のものとそっくりだが、もちろん本家はこちらと思われる。東叡山寛永寺山内にある輪王寺開山堂は川越喜多院と同様、慈眼大師天海と慈恵大師良源との両大僧正を祀って、1644年(正保元年)に建てられた堂で、だから両大師と呼ばれる。両大師の御影像は寛永寺の子院を1ヶ月ごとに廻って安置されるならわしだったともいう[吉元,2005:p.538]。8は目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)のもの、9は調布市の深大寺のもので、深大寺には立派な元三大師堂があり、像高196.8pもある巨大な良源の木像が安置されている。この像は鎌倉時代後期から南北朝時代初期の作だが、秘仏なので50年に一度しか開帳されず、近年では1984年に開帳がなされた。とはいえ近世期には両国回向院で出開帳されたこともあって、1765年(明和2年)・1816年(文化13年)にそれがなされたとの記録が残っている。また、毎年3月の大祭時には「半開帳」といって胸の高さまで御簾を上げ、下半身のみ開帳されることになっている。深大寺こそは、東京都内最大の元三大師信仰のメッカであって、有名なダルマ市も元三会(がんざんえ)から発したものだ。大師堂の前の樹下には、角大師の姿を刻んだ像高40pほどの石仏も祀られているが(写真16)、この種の石造物は大変珍しく[松浦,2005:p.78]、おそらくこれ以外には存在しないことだろう。なお、深大寺では角大師札を「降魔札(ごうまふだ)」、豆大師札を「利生札(りしょうふだ)」と称しており、両者を戸口の両側に貼るのではなく、前者を家の出入口の外側に、後者をその内側に貼るものだとしている。


写真16 珍しい角大師の石仏(東京都調布市深大寺) 
 10は昭島市の本覚院(拝島大師)のもので、1月3日の大祭で授与され、豆大師札とセットとなっている。三多摩地方では広くこれが出回っていて、農家の玄関先の柱や戸袋などに貼られているのをよく目にする[村田,1932:p.62]。拝島大師の1月3日の大祭は、ダルマ市としてよく知られているが、これもまた川越大師や深大寺のそれと同様、要するに元三大師の命日忌である元三会から始まった。角大師を刷った縁起物の団扇もこの日に授与されるが(写真17)、農家の玄関先などにそれが祀られているのをよく見かける。これは実用品としての団扇ではなく縁起物なのであって、府中市の大国魂神社の烏団扇、八王子市の高尾山の天狗団扇などと同様、多摩地方では魔除けの団扇がいろいろ見られる。
11は愛知県知多郡南知多町の神護寺(師崎観音)のもので、右向きの角大師は唯一の例だろう。現住職の先々代が自ら版木を彫ったものといい、いかにも手造り調の画像だが、地元では俗に「鬼」と呼ばれていて、図像はまさに鬼そのものだ。節分の日に寺から信徒家に配られるそうで、家々の玄関先に貼って魔除けとされる。彫師の手によらぬ素人彫りの図像は、先の1などのほか島根県の出雲清水寺の例などにも見られる[熊谷,1978:p.20]。12は滋賀県大津市坂本本町横川の四季講堂(元三大師堂)から出されている、もっとも著名な画像の角大師札だ。いうまでもなく横川(よかわ)は、元三大師良源の手で開かれた比叡山内の重要な聖地で、大師を祀る四季講堂(元三大師堂)もその墓所も、ここにある。いわば角大師の発祥の地なのだから、ここから出されている角大師札の画像は、もっとも標準的なものであって当然で、これが基本なのだろう。13は京都府京都市上京区の蘆山寺、14は香川県丸亀市の妙法寺から出されている角大師だ。


写真17 縁起物の角大師団扇(東京都昭島市本覚院)
 
 次に豆大師について見てみよう。先に述べたように、豆大師は角大師とセットになっているのが本来の形のようで、「角」と「豆」とを家々の玄関先の両側に貼り、悪疫や災厄の侵入を防ぐものとされている。けれども実際には、豆大師を欠いて角大師だけを出す寺が多く、私の手持ちの豆大師札も次の7例にとどまっている(図4)。ざっと見てみると、まずは15に掲げる群馬県太田市世良田の長楽寺のものがあるが、手刷りの大判札で先の4と組になっている。33体の大師御影は眉毛が異常に長く描かれているが、良源大僧正は実際に、非常に眉毛の長かった人らしく、そういうことがよくいわれている[熊谷,1978:p.27]。17に掲げる東京都台東区の両大師のそれもそうで(7と組む)、何と長い眉毛だろうか。18の目黒不動(8と組む)や20の拝島不動(10と組む)、21の比叡山横川四季講堂のものも(12と組む)、それなりに眉毛が長いが、ことさらに強調されているわけでもない。ここには取り上げなかったが、群馬県渋川市の水沢寺のものなども、そうしたタイプに属する[熊谷,1978:p.44]。16の川越大師(5と組む)や19の東京都調布市の深大寺の場合は(9と組む)、まるで長くはなく、ごく普通に僧侶の姿が描かれている。山中共古によれば、「豆大師の頭の上より一筋の線様のもの出をるものが現今普通の此の影にあれど、古きものには白毫より光の線さし出でをれり」としており[山中,1985:p.154]、なるほどこの極端に長い眉毛は、眉毛ではなく額の白毫から発せられる聖なる光線だと考えればよいのかも知れない。そうだとすれば、長楽寺(15)と横川(17)のものは古版ということになり、事実、長楽寺の版木は江戸時代初期のものとされている。横川のものは、いわば本家元祖の豆大師なのだから当然、古版の御影が忠実に再現されているのだろう。「白毫光線」がいつの間にか、やや長い眉毛になってしまったものが18・21・20で、ついにはその眉毛までもなくなってしまったのが16・19であったと考えられよう。寺ごとに版木が異なるので、それぞれに個性的な御影像が出されているわけだが、角大師に比べればそのヴァリエーションは小幅なものにとどまっている。
この豆大師の画像は、横に4体ずつ7段、その上に3体・2体が乗って計33体の大師像が整然と並ぶことになっている。33体という数字は、いうまでもなく観世音菩薩が33態の姿を取って衆生を救済するとの考えから来ている。三十三ヶ所の札所巡礼と、それは同じことだ。元三大師は如意輪観音の化身ともされてきたので、そういう発想が生まれたものと思われる。「慈恵大師和讃」の冒頭部分を以下に引用してみよう。
歸命頂禮慈慧大師、本體如意輪觀世音、首楞嚴定(シュリョウゴムヂャウ)出下(デタマヒ)て、鬼畜人天化益(ケヤク)あり。慈航弘誓(グゼイ)の海深く、眞月獨朗天(ソラ)高し、歴功不思議の功徳をば、管蠡(クワンレイ)何でか測べき、偶(ワヅカ)に殘る別傳と、賛頌(サンジュ)を謹(ツツシミ)按ずるに、諱(イミナ)は良源姓は木津、近江の淺井の人ぞかし(後略)[叡山学院(編),1984:p.7]。
以下、この和讃では大師の出生と成長の物語から始まって、その一代記が延々と語られるのだが、その一番最初に大師の本体は如意輪観世音であると、いきなり唐突に述べられている。
角大師と豆大師という何とも不可思議な護符があり、天台宗系の寺院のみからそれらが授与されてきた。この宗旨には天海大僧上(慈眼大師)という傑出した指導者がかつており、時の政治権力とも結びついて、おおいに宗門を隆盛させた。天海は良源の信奉者でもあって、元三大師の御影画像に秘められた絶大な霊験のことをよく知っていた。大師ゆかりの地である比叡山横川に伝えられ、方々を流転しつつ勢州西来寺に落ちついて安置されていたその根本御影を、3代将軍家光の若君の安産祈?のためにといって天海が圧力をかけ、強引にそれを借り出した話は有名で、かくして4代将軍家綱が無事に生まれたのだから、良源・天海の両大僧正、すなわち慈惠・慈眼の両大師の名声は不動のものとなった。天海はその後、約束を反故にして二度と御影を西来寺へ返すことがなかった[西村,1984:pp.69-80]。今それは、東京都台東区上野公園の輪王寺開山堂にある。開山堂には良源・天海とが祀られ、「両大師」となった。近世における元三大師信仰の広範な拡大を生み出した重要な契機として、この事件を位置づけておくことは重要だろう。上州の長楽寺や川越の喜多院など、そして江戸上野の両大師はもちろんのこと、徳川家とゆかりの深い天台寺院には、必ず元三大師が祀られてきた。そこには天海の影が見え隠れしているではないか。
蜀山人の『奴師労之』を読むと「西國に(中略)大師は弘法大師のみにして元三大師はなし。天王寺に元三大師あるのみなり」とあるが、そんなことはない。ここにいう「天王寺の元三大師」とは、大阪府大阪市の四天王寺にある元三大師堂のことをいうが、もちろんそれ以外にも多くの寺に大師は祀られている。角大師札を出す寺は九州にもあるし、中国・四国にもある。冒頭で取り上げた長崎県対馬の醴泉院もうそうだったし、岡山県笠岡市六島でも、角大師札を戸口に貼って疫病除け・盗賊除けとする例がみられる[五十嵐,2003:p.71]。比叡山の調査によると、角大師札を授与する寺は全国で293ヶ所、豆大師の場合は57ヶ所を数えるという[叡山学院(編),1984:p.302]。こころみにその実態を一覧表にまとめてみれば、表1のようになる。

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 さて角大師とは一体何だったのだろう。どうしてこんな風変わりな絵像札が出されるようになったのかは、よくわからない。一説に、それはいわゆる「乱れ版」だったろうともいわれ、版木が摩耗してつぶれた版をそのまま再刻し、何回にもわたって長年それを繰り返しているうちに、もとの姿がすっかり失われてしまったというのだが[熊谷,1978:p.44]、宮中版宝船絵とされる古版や、下野の走り大黒天の御影像などが、まさにそれにあたることだろう[長沢,1997:pp.690-691・2008:pp.1-10]。しかしながら、ここでの角大師像はどう見ても意図的にこういう図像が描かれているのであって、原版は少しも磨滅してはいない。元三大師ほどの高僧が、一体どうしてこのような恐ろしい餓鬼の姿に描かれねばならなかったのか。豆大師の方については十分に納得できるけれども、角大師に関してはどうしても合点がいかない。要するに角大師札には、元三大師ではなく餓鬼そのものの姿が、描きあらわされているのだろうと私は思う。比叡山横川の伝承では、それは病魔・疫鬼の姿と化した大師の御影であるとしている。そうであったとしても、高僧が鬼に化すためには、化す対象となる鬼の姿のモデルが必要だっただろう。餓鬼とか疫病神とかが、具体的にどのような姿格好をしていたのかということについての一定のイメージがあり、それがここには表現されていて、そのイメージ通りに大師が変身したということなのであれば、当時の人々はこういう姿形で鬼というものをとらえていたのだろうということが、少なくともわかる。ここでの鬼は地獄の卒としての鬼ではない。疫病をもたらすところの疫鬼、痩せ細って肋骨の浮き、つねに飢え渇いて眼光ばかり鋭いガリガリ亡者としての、二本角の餓鬼そのものだろう。季節の変わり目や盆の頃にやってきて跳梁跋扈する浮遊霊と同類のものであって、要するにそれは御霊の仲間だ。古代末期から中世初期にかけての人々のイメージしていた、この種の精霊の姿を忠実に伝えるものとして、私は角大師札の図像の価値をとらえてみたい。きわめて卑しきそれらの存在に、自らの身をやつしたという偉大なる高僧の物語そのものは、さほどに重要ではないと私は考え る。

謝辞
これをまとめるにあたり、臼井政枝・金井塚正道・鈴木明子・山田厳子の各氏から資料提供をいただきました。つつしんで御礼申し上げておきます。
 
引用文献
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