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連載 「民俗学の散歩道」 13 2012年11月号 |
長沢 利明 |
神武天皇とアユ |
web上で表現できない文字は?となっております |
初代天皇であったとされる神武天皇は、『日本書紀』によれば九州に生まれた神の子であった。長じては東征をこころみ、往く先々で土着勢力を平らげつつ、ついには近畿地方へと攻めのぼって大和の平定をなしとげ、王権確立を果たしたのだという。神武天皇の大遠征の旅程における重要なターニングポイントのひとつが、紀伊熊野を経て大和の高倉山に至った時になされた戦勝祈願の儀式である。それは、いよいよこれから大和盆地へと攻め入るに際し、丹生川上の宇陀の朝原という所でおこなわれたということになっている。書紀の神武天皇東征記によれば、神武はまずそこで天神地祇を祀って戦勝を祈り、霊夢の感得に従ってウケイの卜占をおこなう。ウケイというのは、よく記紀の記述に登場する占いのやり方である。自分はこころみに、こういうことをやってみるが、もしそれが思う通りになったならば、物事はうまくいき、目的は達成されるであろう、駄目であったならばうまくはいかないであろう、という仮定のもとにひとつの賭けをおこなう。それがウケイというもので、そのようにして神意を占問うわけである。
神武のおこなったウケイは二つある。まず一つは、天香山の埴土を用いて「八十平?*[「分」の下に「瓦」](やそひらか)」という祭器を焼き、それを用いて、しかも全く水を用いずに「飴」を作ることができたならば、武力を行使しなくとも大和の地を、やすやすと平らげることができるに違いない、というものであった。「八十平?*」がどのような形をした焼き物なのかは、よくわからないが、「平?*」というからには平べったい形をした容器なのではなかったろうか。このウケイについて、書紀には次のように述べられている。
祈(うけ)ひて曰く、吾れ今當に八十平?*を以て水無しにして飴(たがね)を造るべし。飴成らば、則ち吾れ必ず鋒?[「刀」の左右に「ヽ」](つはもの)の威(いきほひ)を假らずして、坐ながら天下を平けむ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自らに成りぬ。
ここにいう「飴」とは、「たがね」・「たがに」・「あめ」などと読んだものらしいが、一体何のことであったろう。文字通り、それは「飴(あめ)」のことで、水飴のようなものであったらしいと一般的には解釈されているが、「必ずしも飴ときまったものではなく、餅の類である」という説もまた聞かれる[國府,1937:p.167]。いずれにせよ、その「飴」は期待通りに、見事にできあがり、彼はおおいに喜んだ。そして、引き続き二つ目のウケイをこころみる。書紀の記述を、また引いてみよう。
又祈(うけ)ひて曰く、吾れ今當に嚴?*(いつべ)を以て丹生の川に沈めむ。如し魚大小と無く、悉く醉ひて流れむこと、譬へば猶艨iまき)葉の浮流くが如くならば、吾れ必ず能く此の國を定めてむ。如し其れ爾(しか)らずば、終して成る所無けむとのたまひて、乃ち?*を川に沈めたまふ。其の口下に向けり。頃ありて、魚皆浮き出で水のまにまに??(あやとふ)。時に椎根津彦見て奏す。天皇大に喜びたまひて、乃ち丹生の川上の五百箇眞坂樹(いほつのまさかき)を抜取にして、以て諸神を祭ひたまふ。
やはり天香山の埴土を用いて焼いた「厳?*」という祭器を用意し、それを丹生川に沈めたならば、川中の大小の魚類が酔っ払って川面に浮び上がってくるはず、そうであったならば、自分が大和の国を平定して治めることができるであろう、というわけである。ここでいう「厳?*」という祭器も、どんな形状をした容器なのか、よくわからないけれども、「いつべ」と呼ぶからには字義通り、非常に神聖な甕のような器であったに違いない。そのようにして神託は吉と出て、丹生川の魚はマキの葉が流れるかのごとく、浮かび上がってきたという。神武はここに至って勝利を確信し、真榊を根株ごと掘り起こしてきて立て、諸神をそこで祀ったとある。そうして彼はその後、抵抗する大和の土着勢力を滅ぼして、ついにその平定をなしとげるに至ったということになるのである。神武がウケイの儀式をおこなった場所が今の丹生川畔の夢淵という所で、夢告に従いつつそれがなされたがゆえの地名とされる。その川下には魚見岩という所もあり、神武配下の椎根津彦命がそこで魚見をしたと伝えられている[國府,1937:p.168]。
ここでの物語の意味するところは、一体何であったろう。川の中に祭器を沈めて、そこに棲む魚族を酔わせて浮かび上がらせる、という行為が明確に指し示しているように、それはまさに漁毒漁のなされたことを言っているのであって、天皇自らが毒流し漁をおこなったのだというのが、歴史学者である菊地照夫氏の見解なのであった[菊地,2003]。同氏によれば、それは漁毒漁に関する本邦最古の記述史料であるともいう。なるほど、この筆者もその意見には賛成であるし、これはそうに解釈するほかはないと思う。書紀の記述は単に厳?*を川に沈めたとあるのみで、漁毒を流したとは記されていないけれども、祭器を沈めただけで魚が酔って浮かび上がったというのでは、少々合点がいかない。何らかの物がその祭器の中に入っていたからこそ、それが効力を発揮して、魚が酔ったのであろうと考えるほかはないし、その何らかの物こそ、最初のウケイの儀式で作られた「飴」なのではなかったろうか。つまり、一つ目のウケイによって作られた「飴」を厳?*に仕込んで、二つ目のウケイがなされ、毒流しがおこなわれたと考えれば、すっきりと脈絡がつながることになる。第一と第二のウケイとが互いに無関係であったなら、物語として成り立たないではないかと筆者などは考える。
厳?*とはおそらく、甕のような壺のような形状の土器で、その口を下に向けて川底に沈めることにより、漁毒効果が徐々に発揮されたのであったろう。初代天皇がその王権を確立するにあたり、きわめて儀礼的な形を取りつつ、漁毒漁ということが厳粛におこなわれたとしたならば、それは大変に興味深いことである。筆者の解釈によれば、神武天皇は「飴」を川に流して魚を酔わせたのであるが、それは秋田県などで漁毒のことをアメとかナメとかと呼び、それを川に流すことを「アメ流し」・「ナメ流し」と称していたこととも通じるのではないであろうか。秋田県下では、サンショウや木灰を煮詰めてアメを作り、それを川に流して魚を捕える漁法が、古くからおこなわれてきたのである[鎌田,2008:pp.80-81]。書紀の「飴」は秋田のアメに通じるものであろう、というのが筆者の考えである[長沢,2012:p.6]。
現行民俗(といっても戦前期)としての漁毒漁について、少し見てみることしよう。秋田県下で用いられてきた漁毒としてのアメ・ナメは、サンショウや木灰を煮詰めたものであったが、サンショウの樹皮・果実・葉を用いて漁毒を作る技術は、ほぼ全国的に伝承されてきたものである[長沢,2006:pp.1-8]。サンショウという植物には、その枝葉から果実に至るまで、サンショオール(sanshool)という刺激成分が豊富に含まれていて、神経を麻痺させたり、しびれさせたりする効果がある。サンショウの葉や実の佃煮を食べると、舌がひりひりとしびれるのはそのためで、ごくわずかな量でも水中の魚類を麻痺させることができるが、殺すわけではない。筆者は先日、NHKテレビの「ためしてガッテン」という番組で、香辛料としての粉山椒の効用を特集していたのを見たが、司会者の立川志の輔がこころみた興味深い実験には目を見張った。彼は1匹の金魚の泳ぐ水槽の中に、ごく少量の粉山椒を振りかけたのであったが、たちまちにして金魚は呼吸と泳ぎを止め、腹を上にして水面に浮かび上がったのである。サンショウの漁毒効果が、いかに高いものであるかが、よくわかるであろう。
長野県では、サンショウの木の皮の汁を川に流して漁毒漁をおこなったといい[向山,1975:p.80]、岡山県でもノブといって、やはりサンショウなどの木の汁を流したそうで、明治時代までそのような漁がなされていたという[土井・佐藤,1972:p.86]。もちろんサンショウ以外にも、さまざまな漁毒植物があって、東京都町田市ではエノキの実をつぶして川に流したそうで[町田市文化財保護審議会(編),2000:p.12]、神奈川県下でもサンショウやエゴノキの実、柿の渋、カーバイドの灰などが漁毒として用いられていたという[和田,1974:p.70]。宮崎県下の例を、次に引用してみよう。
水流に有毒の汁を流すと、魚族は苦しんで穴や水底より脱出し浮遊する。それを捕えるものである。現在は違法も漁獲法であるが、古い時代には全国的に各地で行なわれたようである。ゲランナガシは、農作物の害虫駆除に用いる植物の根を石でたたいて白い汁を流す漁法で、これに石灰を混ぜて使う。うなぎ・はや・はぜなどをとるが、魚族の根絶をきたすので、その害がはなはだしい。このほかに、さんしょうの木の皮、または実を釜で煮ると、どろどろになる。それをかますに入れて川の中で踏みつけながら中の汁をしぼり出して流したり、ヤマタデ(山蓼)の実をくだいて炭を混ぜ、谷川に流したり、柿のしぶを流す(あゆをとる)。さざんかの実で油をしぼりとり、その粕を煎じた汁を流したりもした。コヤスの木の実・煙草のやに・つばきの脂粕なども有毒物質として用いられた。毒を用いるときは、不必要に広域に毒が流れ、他の水域に害を及ばさないよう毒消し法がこころみられた。すなわちカライモ(さつまいも)のつるを多く集めて毒質水流を濾過させたりした[田中,1973:pp.95-96]。
サンショウ・ヤマタデ・サザンカ・コヤス・タバコ・ツバキなどの、実に多彩な漁毒植物の利用実態がわかるが、ここにいうヤマタデとはおそらくイヌタデのことであったろう。コヤスとあるのは何のことかよくわからない。ゲランナガシとあるのは「ゲラン流し」の意で、ゲランとは東南アジアなどで広く用いられているトバ根(Tuba roots)のことである。もっとも毒性の強い漁毒漁専用の栽培植物で、その輸入品を産地であったシンガポールのゲラン(Galang)地方にちなみ、その地名で呼んでいたことがわかる[長沢,2009:pp.2294-2295]。サツマイモの蔓を用いて、毒消しがなされていたとあることなども、興味深い記述ではあったろう。漁毒漁のことは、さまざまな近世史料にも記録されているが、『新編会津風土記』巻之九十三にある記載を、参考までに次に紹介しておくことにしよう。
魚淵。只見川ノ東岸ニアリ、此地昔ヨリ漁猟ヲ禁スルニヨリ魚多ク此淵ニ集ル。遊人岸上ヨリ餌ヲ投スレハ水面ニ大魚浮出撥刺トシテコレヲ争フ。誠ニ奇観ナリ。且里人此魚ヲ取レハ必祟ヲナスト云伝フ。サレハ慶長十六年七月蒲生秀行辛辣ノ毒ヲ流シテ此川ノ魚ヲ取リシニ、唯此淵ノ魚ノミ其毒ニ中ラス。其年大地震アリテ溺死多ク、其翌十七年秀行逝去アリシニヨリ人益其祟トテ畏レアヘリ。
会津の只見川畔に魚淵という所があり、そこで魚を捕ると祟りがあるといわれてきたにもかかわらず、藩主蒲生秀行が1611年(慶長16年)に漁毒漁をおこなった、その結果、大地震が起きて翌年には秀行も死んでしまった、魚淵の祟りだといって皆がますます畏れたというのである。
さて、ここで話をもとの神武天皇のことに戻してみよう。彼のおこなった丹生川でのウケイ儀礼が、本邦最古の漁毒漁の記録であったとしたならば、そこで漁獲された獲物の魚種とは一体何であったろうか。それはヤマメかイワナか、はたまたコイかフナか、それともウナギ・ナマズ・ドジョウの類であったのか、気になるところである。『日本書紀』には単に、マキの葉のごとくに細身の身体をした川魚としか述べられていないので、正確にそれを知ることはむずかしい。けれども手掛かりはある。歴代天皇の即位式に用いられる万歳幡(ばんざいばん)という旗に、それが描かれているのである。
新天皇の即位式には古代以来、こと細かなしきたりが当然いろいろあり、近世期には随分廃れもしたが、王政復古の近代期には完全に復活し、今もってなお復古調の即位礼がなされている。たとえば平安時代の場合、御所の大極殿もしくは紫宸殿の庭上には、東西一列に竿柱を何本も立て、三本足のカラスの像の烏幢(うのとう)・日月幢を飾り、その両側に朱雀・青竜・白虎・玄武の四神幡や万歳幡(ばんざいばん)の旗幟を並べ立てることになっていた[江馬,1965:pp.177-178]。近衛らは高御座(たかみくら)の上に立つ新天皇に向い、万歳幡を振りながら「万歳(まんぜい)!」と歓呼し、それが万歳三唱の始まりということになったらしい。この万歳幡には「万歳」の文字とともに、神武天皇が丹生川に沈めた厳?*と魚の絵が描かれているのであって、即位式のたびにこの旗を立てては、王権確立達成を決定づけた神武のウケイの故事に思いをはせ、皇祖の遺徳を偲んだということなのであったろう。
1940年(昭和15年)は、神武天皇の即位から数えて2600年目にあたるとされた年で、いわゆる「紀元二千六百年祝典」が、国を挙げつつ全国各地で盛大に挙行された。この時に発行された4種の記念切手のうちのひとつに、万歳幡の絵柄が採用されているので、それを写真13で見てみよう。
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写真13 紀元二千六百年記念切手 |
見ての通り、それは真っ赤な色で印刷された10銭切手で、同年2月11日に発行されたものであるが、「紀元二千六百年記念」・「八紘一宇」・「大日本帝國郵便」などの文字に囲まれた中央に、厳?*と魚とが描かれている。「其ノ意匠ハ(中略)戊午年九月丹生之川ニ於ケル故事ニ因ミ嚴?*ト魚トヲ描キ靜海波ヲ配シ」たと、『紀元二千六百年祝典記録』第17巻には記録されている[荒井(編),2002:p.289]。厳?*はまるで縄文早期の尖底土器のごとくに底の尖った、床に置けない不思議な形状の甕で、こんな形をしていたのだなと、今筆者らは感慨を持つけれども、この原図を描いた絵師にしたところで、『日本書紀』の時代の人ではもちろんないし、想像で描いているに過ぎない。宗教史研究家の宮井義雄氏によればこの厳?*は、弥生式土器から土師器への移行期の焼き物であるという[荒井(編),2002:p.289]。そして、その厳?*の上方には、酔っ払って川面にプカプカと浮かび上がったという5匹の魚が描かれている。魚類学の権威であった末広恭雄博士によれば、これをアユであるとし、アユであるにもかかわらず、背鰭と尾鰭との間にあるべき脂鰭(あぶらびれ)が描かれていないのはおかしいと、図柄の誤りを指摘しておられるのであった[末広,1964:pp.16-17]。
この指摘は実は、切手の発行された翌1941年にはすでに、淡水区水産研究所の所員であった島津安樹朗氏の手によってもなされていて、専門家が見ればすぐにわかることである。当時の切手のデザインを担当した画工は、皇室に伝わる万歳幡の図柄をただ忠実に模写しただけというから、このミスの責任は最初にその図柄を描いた大昔の絵師に帰することになり、観察眼が甘かったといわれても仕方がない。脂鰭があるかないかは魚類の分類上、きわめて重要なポイントなのであって、それの存在によってサケ科・アユ科が他の魚類から区別され、両科が成り立っている。かりにも皇祖の事跡を顕彰し、歴代の天皇の即位礼を飾るためにあるという万歳幡の図柄にまちがいがあるとしたならば、それは皇室にとってゆゆしきことであるかも知れない。末広博士もまた、早く訂正すべきであると、言っておられるのであった。 |
写真14 アユ |
末広博士というのは誠に博学の人で、専門の魚類学については言うまでもないが、魚に関する文化・歴史・料理などに関する豊富な知識と見識とを持っておられた。万歳幡に描かれた魚がアユであるとされたのは、単にその魚の形態的特徴からのみのことではない。皇室とアユとの実に深い関係の歴史をも踏まえながら、そう断定されたのである[同,1964:pp.13-17]。その根拠をいくつか挙げてみると、次の通りである。まず、アユはもともと皇室と大変ゆかりの深い魚であって、記紀にもよくその名が登場する。神功皇后が三韓征伐の道すがら、肥前国松浦で戦況占いのために川釣りをこころみ、細鱗魚(アユ)を釣ったとあるのもそのひとつで、魚偏に占うと書いてアユと読ませるようになったのも、この故事に始まると伝えられる。なお中国の漢字でいうところの「鮎」は漢音で「デン」、呉音で「ネン」と読んだが、それはナマズのことであって、アユは「香魚」・「國姓魚」などと表記する[邵・林,1991:p.19]。アユは占いに用いられた神聖で特別な存在の魚なのであって、神武天皇も神功皇后も、それで戦況を占ったことになる。神武天皇が吉野川下流の地に着いた時にも、そこで簗漁(『古事記』では筌漁)をしていた漁師に出会ったとあるが、吉野川といえばアユの名所であるうえ、書紀の天智天皇記にも「三吉野ノ吉野ノ阿喩(アユ)」と述べられている。簗漁の漁師は、自分は贄持(にえもつ)の子であると神武に名乗ったというが、「贄持の子」とは、この地の鵜飼の始祖でもあり、鵜飼の獲物といえばアユに決まっている。
以上のような理由から、末広博士は万歳幡に描かれた魚はアユであったろうと推測されたわけであるが[末広,1964:pp.13-17]、筆者などもまったく同感に思う。書紀によれば、アユの鵜飼は元正天皇の720年(養老4年)に始まったとあり、漁毒漁や釣漁よりもその歴史は新しいとも、博士は述べておられる[同:p.17]。アユは韓国・中国・台湾にも少しは棲息するが、もちろんその本場は日本であって、わが国特産の川魚であるといってよい。初夏の解禁から秋の落ちアユに至るまで、おおいに釣人を楽しませ、香り高いその塩焼きはつねに食通をうならせてきた。アユはまちがいなく日本の川魚の王者であって、その風格に並ぶ存在はほかにない。国花はサクラ、国鳥はキジ、国蝶はオオムラサキという具合に、日本を代表する生物がいろいろあるが、その淡水魚版を定めるとしたならば、当然アユということになるであろうし、それ以外には考えられもしない。日本を代表する川魚が、建国神話に登場することは、しごく当然のことなのでもあったろう。しかも初代天皇が、そのアユの漁毒漁によるウケイをこころみ、大和王権確立の吉兆がそこに示されたというのであったならば、まさにこの魚は日本建国のシンボルであったということにもなろうし、だからこそ万歳幡にそれが描かれたのである。筆者は別に天皇制の信奉者ではないけれども、国魚淡水魚版をアユに定めようとすることに対しては、何の異論もないどころか、むしろ大賛成なのである。 |
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