西郊民俗談話会 

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連載 「環境民俗学ノート」 4  2011年2月号
長沢 利明
東京湾の干潟環境と漁撈
(1)東京湾と干潟海岸
 干潟とは一体何か。英語でいえばそれはtidal flatで、直訳すれば「海岸の平地」となるが、それだけではよくわからない。干潟とは、通常の砂浜海岸や礒浜海岸とは異なる独特な海岸地形なのであって、内湾の最奥部や大きな川の河口部に、河川や波によって運ばれた大量の砂と泥とが長い間かけて堆積して形成された、きわめて海底が緩勾配で遠浅な海のことをいう。海底の傾斜は1/100〜1/300程度に過ぎないので、満潮時には海面下に没するものの、干潮時には全面的に干上がって海岸線がはるかかなたの沖合側へとしりぞき、広大な平地がそこに現れる。潮の干満差によって、陸地面積がきわめて大きく変動する海岸地形、潮間帯の著しく広い平坦な砂泥地帯、それが干潟である。国外ではオランダのワッデル海、中国の長江河口部などが世界有数の干潟の海である。国内では九州の有明海が日本最大の干潟で、干潮時に干上がる陸地は6〜9km先の沖合側にまで広がる。そして関東地方の東京湾にも、かつては有明海に次ぐスケールでの大規模な干潟が存在した。江戸の町の海岸部は、品川沖から深川沖に至るまで、ほぼ全面的に干潟となっていたのであり、今のJR山手線の品川駅などは明治時代まで、ホームの目の前まで満潮時には海がせまり、干潮時にはぐっと沖合まで海が引いて、見渡すかぎりの泥干潟に変じたという。
 しかし現在の東京湾の海岸線は、一様にコンクリート護岸で固められた人工海岸となってしまい、砂浜などはごくわずかしか残されていないし、気軽に浜辺に飛び降りて波とたわむれることのできるような場所などほとんどない。約300年間をかけて干潟を埋め立てて市街地や工業用地に転換してきた結果、海は人間にとって、直接に触れ合うものではなく護岸を隔てて眺めるものとなってしまった。干拓工法上、干潟の海ほど埋め立てやすいものはない。何しろ超遠浅の海なのだから、少し土砂を入れれば簡単にそこを陸地に変えることができる。通常の砂浜海岸・礒浜海岸の何十倍もの低コストで土地を得ることが可能なのである。そうした安易な考えで干潟は次々と埋め立てられてしまった。それは何も東京湾だけの問題ではなく、日本中の干潟がそのようにして失われていった。1945年の日本には85,600haもの干潟が存在したのに、1988年には51,462haにまで減ってしまった[逸見,1994:p.4]。干潟の持つ生態学的重要性、果たす役割の大切さが、ようやく見直されるようになったのは1970年代のことだったが、時すでに遅しで、東京湾の干潟はいまやそのほとんどが消滅し去っていた。今も湾内に残る自然干潟は、千葉県木更津市の小櫃川河口・盤洲干潟、富津市の富津干潟、習志野市の谷津干潟、船橋市・市川市の三番瀬(写真9・10)、東京都江戸川区の葛西沖、神奈川県横浜市の野島海岸くらいのものとなってしまったのである[西潟,2006:p.144;市川市・他(編),2007:pp.98-103]。
  

写真9 三番瀬の自然干潟(千葉県船橋市).

 

写真10 干潟に散らばるアサリの貝殻
 干潟の果たす重要な環境的役割とは何だろうか。それはまず、人間にとっての生業活動の場、そして水産資源の涵養の場を提供しているとともに、景観保全機能・親水機能をも果たしている。はるか沖合にまで遠く潮の引いた浜の景色の雄大さと開放感、そこに残された江戸の海辺の姿の歴史的価値に触れ、大の大人がたまには童心に帰り、靴を脱いで裸足で浅瀬に入って波と戯れるひとときの癒し効果、子供らがカニやクラゲやイソギンチャクなどの海岸生物を採集したり観察したりすることの機会を、干潟は与えてくれる。子供の礒遊びは情操教育面でも大切であろうし、浅海なので溺れる危険もなく、アカエイとアカクラゲに刺されることさえ注意をすれば、これほど安全な海岸はない。一方、生物の側から見ると干潟は、陸域からの多量の栄養塩類の供給される豊かな海で、豊富で多様性に富んだ生物群集をはぐくむ場所となっている。そこは遠浅の海なので海底までよく日光が当たり、潮が満ちる時には海水中に酸素が多く溶け込むので(エアレーション効果)、植物プランクトンもよく増殖し、それを餌とする動物プランクトンや魚類・ベントス(benthos・貝類や甲殻類やゴカイ類などの底生動物群)にとっても大変居心地のよい場所である。そして、その豊富な魚類・ベントスを餌とする水鳥類(シギ・チドリ類)もよく飛来し、それらのサンクチュアリにもなる。食物連鎖の環がそこに成り立っており、生物多様性の高度な完成が生み出されているのである。干潟はさらに、高い水質浄化機能を持っている。前浜干潟の泥中に棲むベントスや塩生湿地(後背湿地)のアシ原などは、そこに運ばれてくる有機物や汚濁物質を取り除いて、海水をきれいにしてくれるのである。
 ひとつの実験をしてみよう。濁った海水を入れたコップの中に2〜3個のアサリを入れて0.5〜1時間ほど置くと、コップの水はきれいな透明の水となる。これはよく行われる実験で[市川市・他(編),2007:p.79]、私も以前、大学の授業でこの話をしてみたところ、聞いていた一人の学生が実際に自宅でその実験をやってみたが、うまくいかなかったと言ってきた。失敗の原因は、彼の用いたアサリがスーパーで買ってきた死んだ貝であったためで、元気に潮を吹く鮮度のよい生きたアサリであれば絶対にうまくいくし、わずか2〜3個のアサリが200ccほどの濁り水を1時間以内で浄化する能力を、確認することができるだろう。アサリの海水浄化量は1,000cc/hにも及ぶとの報告もあるし[樫下,2003:pp.101-102]、1個のアサリが年間4tの海水を濾過してきれいにしているとの推計もある[松久保,2000:p.23]。そのアサリが何百万個も干潟の泥中に棲んでいたとしたらどうだろう。懸濁物食者としてのアサリは、海水中の汚濁物質を粘液で固めて擬糞に変え、体外に放出する。その擬糞や汚泥は、堆積物食者としてのゴカイの餌にもなる。干潟にはもちろん、アサリやゴカイのほかにも多くのベントスがいて、ともにその能力を発揮するのであるから、干潟には高い水質浄化機能が備わっているのであり、実際、干潟のある海は海水の汚染度が低い。高度経済成長期の東京湾の海が著しく汚染され、死の海となってしまったのは、工場廃液の垂れ流しばかりが原因ではない。広大な干潟が失われたことによる海の自浄能力の喪失ということも、無視することはできないのである。

(2)干潟の海の生んだ漁業技術
 干潟が消滅するということは、そこでいとなまれてきた独特の漁撈文化の喪失ということをも意味している。九州有明海におけるムツゴロウ漁・ワラスボ漁などは、まったくそこでしか見られないもので、独自の漁撈文化がそこにはぐくまれてきた。世界中を見渡してみても、有明海にしかいない生物固有種がたくさんおり、それらの多くが漁業資源ともなっていて、いかにしてそれらを漁獲して食べるかという技術文化・食文化の、そこでしか見られない独自性が生み出された。それは東京湾の場合でも同じで、そこでの干潟海域における漁撈民俗には、やはり独特なものが存在した。そのもっとも典型的な姿の見られた先進地は、今の千葉県浦安市・船橋市あたりの湾岸漁村であった。そこでなされてきた沿岸漁業は、もっぱら海苔の養殖と貝漁の二本柱に特化しており、もちろん打瀬網によるスズキ・ボラ漁などもさかんに行われてはきたものの、中心はやはりその二本柱であった。浦安の場合、1965〜1980年に干潟海域が全面的に埋め立てられてしまい、沿岸漁民らはそこでの漁業権を放棄して、いっさいの漁業生産は消滅に追い込まれることとなったのであるが、それ以前の時代に、今の東京ディズニーランドのあるあたりに存在したかつての豊かな海で、なされていた漁業とはどのようなものであったろうか。二本柱のうち、特に貝漁の実態について、少し見てみることにしよう。
 浦安の貝漁における漁獲物は、まずは何といってもハマグリであって、次にアサリ・アオヤギ(バカガイ)などであったが、シジミ(ヤマトシジミ)・アカガイ・トリガイ・シオフキ・マテガイ・カラスガイ(ムラサキイガイ)なども採った。これら貝類のことを浦安ではカイソウ・カイソ・ケイソウなどと呼ぶが、カイソウとは「海藻」ではなく二枚貝のことをいい、「カイ」とは貝であるが「ソウ」とは何のことかよくわからない。貝を採取することを「カイソウ採り」・「貝捲き」などといい、捲籠(まきかご)という馬鍬(まんが)に籠を付けたような独特の器具で海底の砂泥を掘り起こし、そこに潜っている貝類をすくい採ることを、「捲(ま)く」と言った[鈴木,1995:p.146]。「貝を捲く」というのは「貝を撒く」ことではないので、注意を要する。漁具としての捲籠には大中小の3タイプがあり、大は間口90cmほどの鉄製籠で大捲籠(おおまきかご)といい、海底に沈めて船で曳く。千歯扱きのごとく櫛状に並んだ長さ20cmほどの鋭い歯が海底の砂泥を掘り起こし、掘り出された貝が後方の籠の中に貯まっていく仕組みである。中は間口60cmほどの籠で腰捲籠(こしまきかご)といい、人間が海中に漬かり、腰縄で引っ張りながらそれを曳く。小は間口50cmほどの目の細かい籠でチャブといい、これはシジミ漁用でやはり人力で曳く[菅野・吉原,1995:pp.118-119]。
 これらの漁具の分化に応じて漁の形態にも3パターンがあり、@大捲き・A腰捲き・B岡っ掘りの別があった[鈴木,1995:pp.146-154;中島・平野,1967:p.79]。@は漁協の統制下で大々的になされるハマグリ・アサリ・バカガイなどの養殖漁業で、5月頃に採取した稚貝(タネ)をイケバと呼ばれる定められた海域(養殖場)に散布し、1〜2年後にその採取を解禁するもので、参加する船からは入漁料を取った。貝が育つまでの1〜2年間、イケバには番人が置かれてきびしく漁協が管理し、入漁が禁じられた。漁期は晩秋から春にかけてで、時間が決まっており、1〜2日おきに1〜2時間ずつ操業し、ホラ貝やサイレンの合図でいっせいに船を出して、いっせいに終了となる。漁には大捲籠が用いられ、1回の出漁で一斗樽に70〜90杯ほどの貝が採れたという。明治時代中期までは、浦安の貝漁は天然貝を採取する形であったというが、1907(明治40年)に田中徳次郎という先覚者が浦安沖の10万坪の海域を購入し、初めて養殖場としてのイケバが設けられ、貝の養殖漁業が始まった[中島・平野,1967:p.78]。「十万坪」の地名はかくして生まれたものである。次にAの腰捲きという漁法であるが、これは漁師が一人で海中に漬かり、腰捲籠で貝を捲くもので、個人漁であり、一年中いつでもできたが、春から秋にかけてが特にさかんで、1人で1日に樽で5杯ほど採ったという。Bは干潮時の干潟を馬鍬で掘り、貝を採る小規模な個人漁で、1日に1斗〜1斗半の貝が採れた。河川の下流部でチャブを用いてなされるシジミ漁とともに、通年的な操業がなされていた。
 大捲きという計画的・集団的で大規模な貝漁を成り立たせていたのは、ハマグリやアサリの伝統的な養殖技術である。養殖とはいえ、それはかなり開放的な方式で、ウナギやハマチの養殖のやり方とは随分違うし、餌などはいっさい与えないので海水を汚染することもない。カキ・ホタテガイ・トリガイの養殖にも給餌ということがないが、それらのように大規模な施設も必要とされないし、維持コストといえば番人の人件費くらいのもので、投下労働力コストも省力的であり、貝は人間のコントロールから離れて自由に、ほとんど自然状態と変わらぬ環境下で育つ。もちろんイケバ海域の外へ逃げ出す貝も多く、歩留まりの悪さから見れば、決して効率性の高い方式とはいえないが、そのことが資源枯渇を防いできたともいえよう。いわばそれは、「人工度が低く、自然度が高い」養殖技術なのであるから、自然に与える負荷が少ない分だけ持続可能性にすぐれていた。浦安や船橋から生み出された、このハマグリ・アサリの独特な養殖技術は、大捲きという漁法システム、捲籠というすぐれた漁具とともに、東京湾岸の他の干潟漁村へも広く伝えられ、貝漁の安定的な生産に多大な貢献をもたらすこととなった。たとえば千葉県市原市今津朝山では、1910年(明治43年)に初めてハマグリの養殖がこころみられていたが、漁具は旧式のジョレンが用いられており、非効率的な操業にとどまっていた。昭和初期に浦安から大捲き・腰捲き方式でのやり方が導入されることによって、初めて漁獲高が向上したのである[中島・平野,1967:pp.21;78-79]。神奈川県側の川崎市大師河原では大正時代初期にアサリの養殖が始まったが、稚貝は浦安方面から仕入れていたのである[足立原,1967:p.28]。東京湾の干潟海域は以上のように、かつては沿岸漁業の重要な展開の場であって、そこから生み出された独特な漁業技術にはすぐれたものがあった。

(3)自然干潟と人工干潟
 さて最後に、長い時間をかけて東京湾のこの豊かな海の環境を、人間が破壊し続けてきたことへの反省と教訓の上に立ちつつ、まずは失われた干潟を復活・再生させようというこころみ、次には奇跡的に残された最後の干潟を埋め立てから守ろうというこころみとが、1970年代前半から始められ、ひとつの大きな路線転換がそこでなされてきたことにも注目してみなければならない。前者は人工干潟の造成事業、後者は自然干潟の保護活動へと結実していく。人工干潟の成功例として、まずあげられるのは東京都江戸川区の葛西海浜公園であろう。江戸川・荒川放水路の河口部にもともとあった三枚洲という浅瀬干潟を改修し、東西2ヶ所の人工渚が1970年代初期に造成され、見事な干潟がよみがえった。神奈川県横浜市の金沢海の公園に、46haの人工干潟が竣工したのは1979年のことであったが、大量のアサリの自然発生が達成され、春になると何万人もの潮干狩り客がおとずれる。千葉県市川市の新浜湖干潟、東京都港区のお台場海浜公園などもそのようにして作られた人工潟湖・砂浜であるが、東京都品川区の大井埠頭中央海浜公園内や大田区の東京港野鳥公園内にも、人工干潟が一部に造成されている。これらの人工干潟にどの程度、自然が戻りつつあるかを見るために、そこでの生息貝類の調査結果を掲げてみよう(表4)。
表4

 
 見ての通り、金沢海の公園・お台場海浜公園における貝類の総生息種数は10〜15種程度にとどまり、生物相がきわめて貧弱である。とはいえ金沢ではアサリ・バカガイ類の生息量が非常に豊かであるし、亜熱帯性のキイロダカラガイがそこで確認されているのは、地球温暖化にともなう近年の海水温上昇の結果であろうか。腐肉食性の巻貝で干潟の掃除人といわれるアラムシロガイが、お台場にまったく見られないというのも生態系の貧しさを物語っている。船橋海浜公園の場合は自然干潟である三番瀬に隣接するだけあって、30〜50種台を記録しており、種の多様性から見るかぎりその自然度はかなり高いし、ごくわずかとはいえハマグリの生息も確認されている。かつての東京湾の干潟貝漁の主要漁獲物であったハマグリは、1970年代から急激に減少してしまい、2000年までに絶滅したとさえいわれてきたが、近年ではこのように時々見かけるまでに復活してきている[市川市・他(編),2007:p.65]。葛西海浜公園の生息貝類は1990年代に10種程度であったが、2010年代には40種ほどに増えており、自然の再生は順調に進んでいるようにも見える。とはいえ盤洲干潟・三番瀬などの自然干潟に比べれば、比較にならぬほどの水準であって、人工干潟がそれに追いつくにはまだまだ長い時間がかかることだろう。ベントスの種構成の貧弱さは海水の浄化能力の貧弱さをも意味する。精密な分析結果によれば、干潟1uあたりの年間有機物浄化量は盤洲で366g、三番瀬で338gほどであるのに対し、葛西では119gに過ぎない。COD(化学的酸素要求量)浄化量という指標で見ると、盤洲151g・三番瀬75gに対し、葛西は39gにとどまっている[稲森・他,1997]。
 一方、残された自然干潟の保護・保全ということではどうだろうか。これについては東京湾最奥部に奇跡的に残存した千葉県の三番瀬と谷津干潟の、周辺住民によるねばり強い保護運動が実に大きな成果をあげてきた。三番瀬は船橋市と市川市とにまたがる総面積(満潮時水深1m未満)1200haの、まとまった規模での自然干潟であったが、1975年に竣工した千葉県による第1期埋め立て事業で、すでに多くの部分が失われつつあった。第2期の埋め立て事業で、住宅地・商業地・下水処理施設などがそこに造成されることになっていたが、周辺住民・漁民らの地道な反対運動が実を結び、1986年時の470haの干拓計画面積が1999年には90haにまで減らされ、2001年にはついに反対派の県知事候補、堂本暁子氏がついに知事選挙に当選して、三番瀬の埋め立て計画は白紙撤回されるに至り、市川市当局もその決定に従わざるを得なくなった[市川市(編),2003:pp.113-148]。かくして貴重な自然は守られたのである。習志野市の谷津干潟の場合も、まったく地道で草の根的な住民運動がついに行政を動かすに至った例である。運動を始めたのは森田三郎氏という平凡な地元の一市民で、少年時代によく遊んだ谷津の自然干潟が一部分だけ残されて周囲が埋め立てられ、市街地に包囲されてポケット状に残存し、そこが悪臭ただよう粗大ゴミ捨て場となっていたことを嘆いて、一人でゴミ拾いを始めたのが運動の始まりであった。市当局は埋め立ての方針を変えず、森田氏は自ら干潟の生物調査を行って、そのデータを突きつけながら、干潟の保護を行政に訴え続けた。一人黙々とゴミを拾い続ける森田氏を見て、小学生らが自主的にそれを手伝うようになり、「谷津干潟少年団」が生まれた。共感した一般市民も続々と運動に加わり、「千葉の干潟を守る会」が結成され、少年団の母親らも協力して「谷津干潟クリーン作戦」が展開され、地元建設会社はクレーンを出して干潟に埋もれた粗大ゴミや廃車の引き揚げに協力した。たった一人のゴミ拾いが始まってから11年後、すべてのゴミの撤去が完了して美しい干潟がよみがえるや、ついに市当局も折れて干潟の埋め立てを中止するに至る。谷津干潟は1988年、国の国設鳥獣保護区特別保護地区に指定され、1993年にはラムサール条約の登録指定地となった[小暮,1996:pp.2-31]。
 三番瀬と谷津干潟はまさに、住民自身の自主・自立・自前の運動の力で埋め立てから守られた。幼い頃に干潟で遊んで育ち、干潟の周辺で今は生活する住民たち、そしてその干潟を生業の場として生きてきた漁民たちは、誰よりも深く干潟に接して干潟のことをよく知っている。その生活感覚に裏づけられた市民運動こそが、そこに生きる生き物たちの声をも代弁することができる。土地が必要ならば埋め立ててしまえばよいではないか、という県や市などの行政当局の安易な発想は、一段も二段も高い所から出てくるものなのであって、漁民や住民の生きる生活世界から遠く隔てられた所からそうした決定は下される。まして彼らの耳に、干潟の生き物たちの発する声など届くはずもなく、そのかすかな声を受けとめるための耳を彼らは持っていない。三番瀬と谷津干潟で達成された大きな成果は、全国の干潟保護運動に今、広く継承・共有化されつつあって、さらに多くの成果がこれからあげられていくことだろう。
文 献
足立原茂徳(編),1967『東京内湾漁撈習俗調査報告書』,神奈川県教育委員会.
逸見泰久,1994『干潟学入門―和白干潟の生きものたち―』,海鳥社.
市川市(編),2003『三番瀬の再生に向けて―地元市川市の挑戦―』,市川市.
市川市・東邦大学東京湾生態系研究センター(編),2007『干潟ウォッチング・フィールドガイド』,誠文堂新光社.
稲森悠平・木村賢史・松村正利,1997「干潟の生態系保全とエコテクノロジー」『ビオトープの計画と設計―生物生息環境創造―』,工業技術会株式会社.
樫下貴子,2003「砂泥に生息するアサリのはたらき」『生物による環境調査事典』,東京書籍.
菅野剛宏・吉原 睦,1995「漁に使う用具」『海とともに―浦安市漁労習俗調査報告―』,浦安市教育委員会.
小暮正夫,1996『いきかえった谷津ひがた』,佼成出版社.
松久保晃作,2000『砂浜・干潟の生きものの飼いかた』,偕成社.
中島清一・平野 馨,1967「東京湾の漁撈習俗」『東京湾の漁撈と人生』,隣人社.
西潟正人,2006『東京湾漁師町―江戸前の食を求めて―』,株式会社生活情報センター.
鈴木明子,1995「漁の方法」『海とともに―浦安市漁労習俗調査報告―』,浦安市教育委員会.
 
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