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連載 「民俗学の散歩道」 10 2010年8月号 |
長沢 利明 |
鬼鎮神社と鬼の金棒 |
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鬼を神として崇める家筋、もしくは鬼を祭神として祀る神社というものが各地にあり、鬼に遠慮をして節分の豆まきを忌むとか、やったとしても「鬼は外」とはいわないとか、桃太郎の話をタブーとするとかのならわしが、守られてきた[長沢,1994:pp.109-112]。鬼というものが必ずしも忌み嫌われる存在ではなく、悪鬼もいれば善鬼もいて、崇敬すべき鬼神とされることもあり、両義的な神格を帯びていた、といったことが、そこに指摘されてきたわけである。鬼を祀る神社ということでは東京都内の場合、何といっても新宿区の稲荷鬼王神社が著名であるけれども[長沢,1999:pp.26-29]、埼玉県にも鬼鎮(きじん)神社という変わった神社があるので、少し取り上げてみる。
鬼鎮神社は埼玉県嵐山町川島1898番地にある旧村社で、地元では俗にキジンサマ・キチンサマなどと呼ばれている。郊外の辺鄙な場所にある小社とはいえ参拝者が多く、神職家もあって、かつては参詣客のための旅館まで隣にあった。私が初めて当社をおとずれてみたのは1993年のことであったが、まず驚いたのは社殿の外壁の至る所に飾られている、おびただしい数の金属製品の奉納物である。そのおもなものは鬼の金棒で(神社では「鉄棒」と呼んでいる)、大は長さ2〜3mにも及ぶ巨大なものから、小は数pのものに至るまでいろいろあり、断面は六角形もしくは八角型をしているが、円形のものもある。桃太郎の絵本に描かれたような通りの形をした金棒で、棘やイボイボがびっしりと表面を覆うものもあり、把手には必ず丸い輪がついている。これらはもちろん祭神である鬼にささげられたもので、「鬼に金棒」というくらいであるから、鬼の持ち物といえば金棒と決まっており、だからこそそれを奉納するのである。拝殿正面の柱には何十本もの金棒が鎖で縛り付けられており、何とも荒々しい。社殿の外壁にもおびただしい数のそれが、くくりつけられているが、金棒のみならず鎌・斧・鎖、さらには金属製のワラジなどもあって、あたかも金物・金属製品の守護神、金物屋の神様のごとくであるが、これら奉納物の金属製品を作る専門の鍛冶屋まで、かつて社前にはあったのである。
私はその後も何度か鬼鎮神社をおとずれる機会があったが、2009年にたずねてみた時、社殿の外壁にびっしりと飾られていた奉納物の金属製品が、すべて消えうせていたのにはがっかりした。取りはずして処分されてしまったらしいが、それあってこその鬼鎮神社なのであるから、そういうユニークな民間信仰の姿は、極力残しておいてもらいたいものだと思った。昭和初期に当社をおとずれた磯 萍水氏は、次のような見学記を残しておられるけれども、この時代にはまだ、奉納物の金棒を作る鍛冶屋が門前にあったことがわかる。しかし、それ以外の状況は、初めて私が社前をたずねた時の様子と少しも変わらない。
大きな松や杉がぐるりと程よく圍んだ、如何にも其處に何さまか祠ってあるらしい。大きくない木の鳥居があって、その側に一軒の鍛冶屋があるので先づ私の興味を惹いた。その鍛冶屋は澤山の鐵の棒をかけ列べて賣ってゐる。大は身の丈ぐらゐもあるのから、小は御佛檀のお鈴の棒ぐらゐのまでのを、お好み次第に備へてある。見た處鐵の棒専門の鍛冶屋らしいが、それでもよく氣をつけて見ると、これも鍛ちますの申譯に、鍬やら鎌、菜切り包丁の類(たぐひ)も列べてあった。折柄向ふ槌の打おろす槌の下に火花を散してゐたのは、三尺に餘る火の棒、親方らしいのが客ほしそうな眼をして私を見送った。社は小なものだった。社に此樣に小さなのは一寸珍しい、まづ御堂だ、弘法さまや觀音さまの御堂には此位のがよくある。間口も狭いが奥行はなほ淺い、どんな格形(かっかう)をした鬼が祀ってあるのかと覗いて見たが、さすがに白い帷(とはり)が垂れてあって、何も見えはしなかった。その階段の上段に、例の二匹の鬼が並び立った繪馬が、いくつも幾個も立かけてあって、その前には、大小とりどりの鐵の棒が供へてあった[磯,1938:pp.8-9]。
社前にあった鍛冶屋は、鬼鎮神社への奉納物を製造する専門の鍛冶屋であったわけで、もっぱら鬼の金棒ばかりを打っており、祈願者はこの鍛冶屋で奉納物を求め、神前に納めることになっていた。たまたまそこに鍛冶屋があったので、金棒を作って売るようになったのか、神社側のニーズに応じて鍛冶屋がそこに進出したのか、正確なことはわからない。しかし、神社と鍛冶屋とは見事な連携プレーを演じ、両者の密接なタイアップ関係を通じて、この特殊な奉納習俗が生み出されてきたのであった。今はもうない、この鍛冶屋に関しては、次のような興味深い伝説も語られてきたので、あわせて紹介してみよう。
むかし、川島に刀をつくる鍛冶屋さんが住んでいた。朝から晩まで、トンテンカン、トンテンカンと、一心に刀をつくっていた。或る日、若い男が鍛冶屋を尋ねて来た。「わし、刀がつくりたい。教えてください」と頼んだ。鍛冶屋も忙しかったので「よし、よし」と許した。若い男は、とても熱心で、休みの時間も、また夜もろくに寝ないで、刀造りに精出した。よい刀がたくさん造れるようになった。鍛冶屋の家には、美しい女の子がいた。若い男は、主人に娘を嫁にくださいと頼んだ。主人は少し考えて、「それでは、刀を一晩に一〇〇本作れたら、嫁にやろう」と答えた。若い男は、喜んで種々準備し、約束の夜を待った。夜になったので、若者は槌を振りあげ、トンテンカン、トンテンカンと刀をうちはじめた。見る見るうちに、三本五本と出来てくる。夜も遅くなった。主人は心配して、そっと刀をつくっている若い男をじっくり見た。何と、その男はいつもの男ではない。まるで鬼だ。トンテンカン、トンテンカンとうつ槌も、火花を散らして、あたり一面が火の海だ。鋭い目、頭には角まで生えている。手は次々に出来た刀を積んでいく。主人は、アッと驚いてとび出した。あの男に、可愛い娘をくれられるものか。それには鶏を鳴かせて、早く夜が明けなくては、と考え、大急ぎで鶏小屋へ走った。コケコッコー、コケコッコーと鶏が鳴いた。主人は、また覗きに行った。鬼になった男は、まだまだ刀を打っている。けれども、そのうちに東の空が明るくなって夜が明けた。刀は九九本出来ていた。鬼の男は槌をにぎったまま倒れ、死んでしまった。主人は、なくなった男をあわれに思い抱きあげて,外へ出た。男のなきがらは神主を頼んで庭の隅へ埋め、そこに鬼鎮様というお宮をつくっておまつりした[宮田(編),1986:嵐山町誌編さん委員会(編),1983:pp.964-965]。
鍛冶屋に弟子入りした若い男が鬼と化して果て、それを葬った地に神社ができて、今の鬼鎮神社となったというのである。この地にどうして鬼を祀る神祠が鎮座したのかということを、そのような形で説明しているのが、この伝説である。なお、鬼鎮神社の鎮座・開創を説明する伝承はほかにもいろいろあり、日本武尊がここを通った際、東征を邪魔した鬼どもを征伐した、それが後々、祟られると困るので一社を祀った、それが本社の始まりである、という説明もよく聞かれる[磯,1938:pp.10-11]。畠山重忠が当地に居館(菅谷館)を築いた際、その鬼門除けとして一一八二年(寿永元年)に、当社をここに祀ったという伝承は、さらによく聞かれる話であるが、なるほど確かに畠山重忠の菅谷館跡はここからほど近い所にあって、当社はその鬼門の北東方向に鎮座をしている。山中共古の『影守雑記』にも、この説を引きながら、当社のことが以下のように取り上げられていた。
武蔵比企郡川嶋村郷社鬼鎮神社といふあり。祈願叶ふと鉄棒を納めるを例とす。社のかたわらに、夫が為に鍛冶屋ある位の神社にて、信仰者多き神社なり。此の御影、鬼鉄棒を持て岩上に立てる姿にて、守り額として受来るものには、赤青二鬼双ひ立てる形を画けり。此の鬼神社の有る所より、六七丁に畠山重忠の城跡あり。丁度城の丑寅の方位に当るゆゑに、鬼門鎮の為に此の社を建てたるのが、鬼鎮が鬼神になりしなり。此の社地の裏に薬師堂あり、板碑などありて古き地と思はる。これも元来は一ツのものならん。
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埼玉県比企郡嵐山町 鬼鎮神社の絵馬 |
ここには神社から授与される赤鬼・青鬼の「守り額(小絵馬)」のことも述べられているが、これまたとても特色あるものであった。祈願者が鬼鎮神社に納めるものは既述のように、鬼の金棒なのであったが、その祈願者が逆に神社から受けてくるものは、この小さな鬼の小絵馬である。それは笠木や枠木のない、したがって家型でなく長方形をした小さな板絵馬で、金棒を持った褌姿の赤鬼と青鬼とが、泥絵の具で描かれた素朴なもので、味わい深いものであったが、これも近年は手描きではなくなり、印刷された量産品に変わってしまったのが惜しい。拝殿正面にも、特別に大型に作られたこの赤鬼・青鬼の奉納絵馬が飾られている。絵馬は本来、奉納物であるから、神前に納められるべきものであるが、当社の絵馬は神前で受けてきて家々の戸口に飾り、盗難除け・魔除けの縁起物とすることになっており[町田市立博物館(編),1983:p.42・49]、埼玉県の西部地方に行くと、鬼鎮神社の赤鬼・青鬼絵馬を家の玄関口に掲げている家をよく目にする。
金棒を供え、そして鬼の絵馬を受けるという形でおこなわれてきた鬼鎮神社へのさかんな祈願は、一体何を祈ってなされてきたのであったろうか。現在では、それは主として除厄・除災の祈願ということになっているのであるが、あらゆる勝負事の必勝祈願ということも、よくいわれてきており、戦前は賭事をおこなう人々の熱心な祈願が、実にさかんになされていた[磯,1938:pp.7-8]。ほとんど博奕の神様ということで、名の通っていた時代もあったのであるが、今ではそれが受験必勝祈願ということに形を変え、多くの受験生が金棒守りを受けていくようになってきている。この金棒守りは長さ10cmほどの金棒で、「鬼鎮神社御霊代」と称し、現在では社務所からそれが授与されることになっている。第二次大戦中には出征兵士らが武運長久を祈ってさかんに参拝し、多くの金棒が奉納されたのであるが、神社ではその金棒を1万貫余、兵器の原料として軍に供出したと、後述する縁起書に述べられている。
さて以上のように鬼鎮神社は鬼を祀る神祠で、特殊な祈願習俗がそこに生み出され、今に至っているということが、おおよそわかった。しかしながら、この神社に鬼神が祀られていることは誰もが知る事実であるとはいえ、それは当然、非公式なレベルでの話なのであって、公式には衝立船戸神(つきたつくなどのかみ)・八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)の三神を主祭神としているのである。これらは道祖神・塞の神系の神々で、もともとはそうした類の神祠であったというよりも、後世にこれら三神が祭神にあてられたということであろう。『比企郡神社誌』に収められた鬼鎮神社の縁起には、祭神について以下のような解説が見られる。
神代の昔伊邪那岐大神黄泉の国に妹伊邪那美命と千引岩を比良坂に引塞へて帰り穢国に有りければ、御身の御禊せんと筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に禊祓い給いし時に投すてる御杖より成れる衝立船手大神こそ古来千引の岩と等しく塞の大神として国の四方家門に塞りて諸々の抂神をおさえたり神徳仰ぐも尊し、然るに其の祭祀少きに此に埼玉県比企郡菅谷村川島の地に鬼鎮神社として衝立船戸神、八衢比古命、八衢比売命を奉祀せり。往古安徳天皇の御宇寿永元年十月とかや秩父の庄司畠山次郎重忠菅谷城を築造せし時城門大手の東北寅の方に奉斉し、厄除守護神として尊崇せり、爾来七百有余年祭事を断たず。今や神徳全国至る所に神?あり、社殿は伽藍造り武蔵野の林相の森に神をびて崇厳に鎮座有り、四囲御霊代の鉄棒垣を成して埋め扁額絵堂に堆積す。終日信者織るが如く神威赫々たり、神燈千古に輝き詣人の守護神たる全国稀に見る名社なり。尚当社は鉄棒の神様として、又社名にても全国一社の神社で有り、戦時奉納の鉄棒を軍部に万余貫供出致したるも今なほ数千貫の残存あり。当社に一度目的を祈願せられば成就致すと言ふ何事にも勝つ神様で、其の御礼の鉄棒奉納を見ても明かです。現在講員信徒約二十万有り。
黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が、筑紫の阿波岐原(あはぎはら)で禊ぎ祓いをした際、投げ捨てた杖が衝立船戸神となったという『古事記』の伝承にもとづき、この神を八衢比古命・八衢比売と合わせて祀ったのが当社である、それは畠山重忠の菅谷館の鬼門除けの神祠でもあった、とされている。鬼門を塞ぐ神祠であるから、塞の神系の三神が祭神にあてられたものと思われる。しかし『新編武蔵風土記稿』に、「鬼神明神社、村民持」と記されているがごとく、もともとそれは鬼を祀る神社なのであった。なお神社の鎮座地は、かつての広野村の飛地秣場で、今日の川島地区にあたる。つまり広野村では村持ちの鎮守として当時、この神社を祀っており、当寺こそがその別当であると主張する隣村水房村の放光寺との間で、訴訟沙汰ともなっていたことも、近世期の史料に見える[埼玉県神社庁神社調査団(編),1992:p.1412]。史料の中には当社を「鬼神宮」と記すものもあり、鬼鎮神社と号するようになったのは明治30年代以降のことであったという[嵐山町誌編さん委員会(編),1983:p.895]。昭和戦前期には、「川島神社」と名乗ることもあった。
鬼鎮神社への参拝・祈願は近世期からかなりさかんになされており、広域的な範囲から参拝者がやってきていた。東松山市松葉町(八幡神社社前)には、参詣客のための道標(石造角柱碑)が今も残されているが、碑正面には「右川島鬼神道、一里三十丁」とあり、側面には「嘉永三庚戊年四月吉日、鴻巣宿願主柿屋長三」・「左小川エ□里・志(閑婦)□里、世話人松山宿八百屋権□・同伯(耆)屋仙左衛□・石井長五□・川嶋村小間物屋馬五□」と刻まれている[東松山市史編さん課(編),1981:p.367]。川島村から見て北方の鴻巣・松山方面に多くの信徒のいたことが推察される。この時代に神社を管理していたのは村方修験の教藏院で、毎月1・2・8・15日の境内掃除や正月の松飾りを担当し、3月15日および9月15日の祭礼には隣村より神子を呼んで湯花神楽が奉納された。正月・五月・九月には本山派修験の泉学院が五穀成就・武運長久の祈祷をおこない、領主であった旗本内藤家・大久保家から祭礼米が下賜されていたという[平凡社地方資料センター(編),1993:p.583]。なお泉学院は維新後、復飾して当社の神職宮本家となったが、後に高橋家・河野家がそれを引継ぎ、現宮司は河野家の3代目である。
近世期の鬼鎮神社では上記のように、多くの年間祭礼がなされていたのであるが、それは近代期にあっても変わらず、元旦祭(1月1日)・元始祭(1月3日)・節分祭(2月3日)・春季大祭(4月15日)・養蚕倍盛祈願祭(4月20日〜5月5日)・大祓式(6月30日)・夏祭り(7月19〜20日)・秋季大祭(10月15日)・大祓式(12月31日)などの、多彩な行事がおこなわれていた。これらの年間祭事のうち、現在もっとも盛況なのは2月の節分祭であり、以下のような形でなされている。まず、祭りの日には境内から参道にかけて、露天商がびっしりと立ち並び、千人もの参詣者がおとずれてにぎわう。神楽殿では太々神楽が上演されるが、地元の郷土芸能ではなく、栃木県足利市から呼んだ神楽師らが、これを演ずることになっている。午後3時頃、花火の合図で節分祭の神事が始まるが、白装束姿で金棒を持った赤鬼・青鬼に先導されつつ、30人ほどの年男らが拝殿にのぼる。神事が終ると豆まきとなるが、年男らが拝殿脇の特設舞台上から参詣者らに向かって、威勢よく福豆・ミカン・団子などをまくが、以前は芸能人や相撲取りを招いて豆をまいてもらったこともあった。その豆まきの際、鬼を祀る神社なので当然、「鬼は外」の掛け声は禁句であり、「福は内、鬼は内、悪魔外」と唱えることになっている[埼玉県神社庁神社調査団(編),1992:p.1413]。こうしたならわしは、他の鬼を祀る寺社でも広く見られることなのであった。鬼神神社の氏子家でもまた、決して鬼を粗末にする言葉を口にしてはならない、家々での節分の豆まきの時にも「鬼は外」と唱えてはいけない、桃太郎の話を決してしないということにもなっていて[磯,1938:pp.12]、鬼をあがめる民間信仰はそのような形で、今も維持されてきている。
文 献
平凡社地方資料センター(編),1993『埼玉県の地名』,平凡社.
東松山市史編さん課(編),1981『石佛―東松山市石造記念物調査報告―』,東松山市.
磯 萍水,1938「武蔵野の神―博奕に勝せる神―」『武蔵野』Vol.25-9,武蔵野会.
町田市立博物館(編),1983『武相の絵馬』,町田市立博物館.
宮田 登(編),1986『日本伝説大系』Vol.5,みずうみ書房.
長沢利明,1994「関東地方の鬼」『フォークロア』No.1,本阿弥書店.
長沢利明,1999「鬼の節分」『江戸東京の年中行事』,三弥井書店.
嵐山町誌編さん委員会(編),1983『嵐山町誌』,嵐山町.
埼玉県神社庁神社調査団(編),1992『埼玉の神社(大里・北葛飾・比企)』,埼玉県神社庁.
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