西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 9  2010年7月号
長沢 利明
敵味方の供養
 
 1945年における沖縄戦の最後の激戦地となったのは、沖縄県糸満市の摩文仁(まぶに)の丘を中心とする地域で、今そこは平和祈念公園となっている。悲惨な戦争が終結してから50年目を迎えた1995年、公園内には沖縄戦の犠牲者らを慰霊するための、大規模なモニュメントが新たに建造されることとなった。それが「平和の礎(いしじ)」と呼ばれる慰霊施設で、つづれ織り型に建立された長い石の壁が幾重にも並んで広場を囲んでおり、その石の壁にはこの戦争で命を落とした24万人の人々の氏名が、判明するかぎりすべて調べあげられて刻み込まれている。しかし、それだけなら全国各地に数多く存在する戦没者慰霊碑の類と何ら変わらない。この「平和の礎」の真に素晴らしいことは、そこに名の刻まれた戦争犠牲者が日本軍将兵と沖縄県民のみにかぎられず、朝鮮・台湾出身者さらには米英軍側のすべての戦死者をも含めて記されているということである。国籍と敵味方とを問わず、すべての犠牲者の名が、ともに同じ比重で刻まれているのであって、このような慰霊モニュメントを、しかも沖縄戦の激戦地跡に造ろうと発起した人々のくわだてを、私は心から賞賛してやまない。


平和の礎 沖縄県糸満市

 そこにあるのは敵味方どうしが、死してのちは恩讐を超えてもはや憎しみ合うことなく、ともに戦争ということの共通の犠牲者として、同じように慰霊されねばならないという崇高な精神であろう。今の世界の現状に目を向けて見るなら一目瞭然のごとく、それはなかなかできることではない。真の人道主義・平和主義・民主主義の、高度な完成のない所に、こうしたモニュメントが生み出されるはずもない。それを許容して受け入れることのできた沖縄県民の、成熟したヒューマニズムとその寛容力、反戦平和と人類平等を希求する理想主義とを、そこに感じ取ることができるであろう。それらは言葉にもならぬほどの、重い犠牲を払うことを通じて得られた、すぐれて現代的な精神なのであるから、そうしたもののない所には当然、「平和の礎」のようなものは生み出されることがない。
 たとえば靖国神社はどうであろう。そこには戊辰戦争以来の戦役で、国家のために殉じた約250万人もの戦没者(戦死者・戦病死軍人・戦没軍属)の霊が祀られているというのであるが(ペリー来航以降の幕末志士も一部含む)、もちろん敵国側の戦没者などは祭祀されてはこなかった。それどころか、同じ日本国民であるにもかかわらず、国家と天皇に叛旗をひるがえした賊軍側の敗者は、決して祭神にはなれないことになっている。戊辰戦争や西南戦争などの戦没者がそれで、西郷隆盛も靖国神社に祀られてはいない。その一方で、太平洋戦争を引き起こし、アジアの民衆に多大な戦争の災禍をもたらした、いわゆる戦争犯罪人の霊は、いつの間にかこっそりと祭神にくわえられ、アジア各国から非難の声があげられ続けていることは、誰もが知るところである。要するに靖国神社を成り立たせている考え方は、「平和の礎」を生み出した思想の対極にあるものなのであって、まったく正反対の立場から戦争犠牲者の慰霊がなされてきたということであろう。
 味方ばかりを手厚く祀り、敵側の戦死者のことをかえりみないというのは、本来の日本人の考え方ではない、日本人はもともと敵も味方も同じように死者供養をおこなってきた、靖国神社はそうした伝統から逸脱している、という批判も今までたびたび靖国神社に向けられてきた[河原,2002]。その批判の趣旨はよくわかるし、賛同もできるのであるが、実をいえば日本人が古くから、敵も味方も同じように手厚く祀ってきたということには、少々複雑な事情と背景とをともなっているのであって、それほど単純な話なのではない。たとえば古い時代の例から見てみよう。南北朝時代の足利尊氏は、最後にはその政敵となってしまった後醍醐天皇を実に丁重に弔っており、それがための立派な寺まで建てている。夢窓国師のすすめにもとづいて建立されたその鎮魂寺が、京都嵯峨野にある天竜寺である。しかし、尊氏が政敵の霊を手厚く祀ったのは、それへの深い敬愛の念に発したものというより、死後の天皇霊が怨霊と化して災いをなすのを怖れたためであったろう。それが荒ぶる御霊に転化する前に、あらかじめ封じ込めたということである。平安時代の桓武天皇が、自ら淡路島に追放して死に追いやった政敵、早良親王の怨霊を異常なほどに恐怖して、神泉苑での盛大な御霊会を挙行し、親王の陵墓を改修して、後には遺骨を改葬させ、ついには供養寺である霊安寺を建立し、祟道天皇という天皇位を追号したのも、まさにそういうことなのであった。桓武天皇ほど怨霊につきまとわれた天皇はほかに例を見ず、即位当初から呪詛や陰謀に悩まされ、冤罪を着せて死に至らしめた早良親王の祟りは、寵妃・母后・皇后の相次ぐ死と皇太子の病をもたらし、旱魃と疫病の大流行をも引き起こして、長岡京の造営事業までが中途で放棄される結果に至ったのであるから、よほどのことなのであった[長沢,1989:pp.234-237]。
 ましてや菅原道真の場合はどうであったろう。政敵を大宰府に追いやり、配所で死に至らしめた藤原時平一族に下される御霊の報復は、桓武帝の場合よりもさらに深刻で、相次ぐ天変地異が起き、御所の清涼殿にまで雷が落ちて政敵一族が焼き殺され、あるいは謎の病でばたばたと斃れるに至った。とどまるところを知らぬ道真の祟りは、ついに醍醐天皇を退位・病死にまで追いやることとなった。あわてた朝廷は、すでに世にない道真の左遷命令を取り下げたり、官位を与えたり、神号を授けたりしたけれども、結局は後の祭りとなった。けれども、この国家的規模での怨霊慰撫の大事業は、最終的には北野天神社という最大級の御霊社の設立へと向かい、天神信仰の全国的拡大への第一歩となっていったわけである[長沢,1999:pp.87-88]。
 以上の例からもよくわかるように、この時代において、敵を手厚く慰霊・鎮魂するのは御霊の報復を怖れたがゆえのことなのであって、怨霊への恐怖を動機として政敵の鎮魂施設としての寺社が建立されたり、墓所の整備がなされたりした。その基底にあるのは強力な御霊信仰の力と、御霊への強烈な恐怖感なのであったから、後の時代の考え方とは相当に事情が異なっていると見なければならない。味方側を手厚く祀るのは当然のこととして、敵側に対しても十分過ぎるほどの慰霊・鎮魂をおこなったのは、御霊の祟りを怖れてのことなのであった。それは近代的ヒューマニズムとは縁もゆかりもない考え方なのであったから、美談のような話ではまるでないのである。
 敵味方間の当事者関係からは一線を画し、第三者的立場にいた寺院の僧侶の場合は、もちろん双方の犠牲者の供養にあたってきたことであろう。仮に彼らが中世戦国時代の従軍僧であったにせよ、仏に仕える身の勤めとして、許される範囲で敵側の死者の慰霊もおこなってきたものと思われる。国家的規模での御霊信仰の著しく弱まった中世の時代、僧侶は自らの意思で敵味方の双方を供養してきたのである。たとえば神奈川県藤沢市にある時宗の総本山、清浄光寺(遊行寺)の境内には「怨親平等碑」という珍しい供養碑があって、俗に「敵味方供養塔」と呼ばれている。これは当山の遊行十五世尊惠(そんね)上人が、1418年(応永25年)10月に建立したもので、国の史跡にも指定されている。碑は高さ130p・幅30pほどの大きさの角塔婆で、碑面にはその造立趣旨の銘文と「南無阿弥陀仏」の名号とが刻まれている[斎藤(編),1997a:p.128]。この碑は1416〜1417年(同23〜24年)に関東管領上杉氏憲(禅秀)と足利持氏とが戦った、いわゆる禅秀の乱における戦死者と斃死した軍馬とを慰霊するために建立された供養碑なのであって、敵味方の双方が平等に供養されているのである[新田,1986:pp.78-79]。時宗というのは、とりわけ死者供養ということに活動の重点を置いてきた宗旨であったし、中世には多くの時衆が陣僧として合戦に従軍し、戦死者供養や情報戦に従事してきたのであったから[深澤,2006:pp.204-205]、その本山にこの種の供養塔が建てられた事情も察せられよう。愛知県碧南市にある、やはり時宗寺院の称名寺にもまた「敵味方供養碑」というものがあって[禰宜田・高野(編),1994:p.148]、こちらは徳川氏ゆかりの供養塔であったが、本山にならったものであったろうか。
 なお敵味方供養碑は和歌山県の高野山にもあり、こちらは僧侶ではなく薩摩藩主島津義弘とその子忠恒によって1599年(慶長4年)6月に建立されたもので、やはり県指定の史跡となっており、琉球石で造られた位牌型の、高さ3.5mほどの一枚石の碑となっている。高野山内の中ノ橋から御廟橋に向かう途中の、薩摩藩島津家墓の右横に、これが立っている[斎藤(編),1997b:p.116]。碑面に「為高麗国在陣之間敵味方闘死軍兵皆令入道仏」と刻まれていることからわかるように、これは秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)における戦死者を、敵味方の別なく平等に供養して建てられた碑なのであった。歴代の薩摩の殿様の中には、こういう供養碑を建てるような人物もいたのであるが、それとても自らのしてきたことの罪滅ぼしのためであったかもしれない。神奈川県鎌倉市の建長寺の開祖、蘭渓道隆和尚は元寇の役の後、モンゴル軍側の戦死者をあつく弔い、その慰霊碑を仙台の地に建立したと『譚海』に記されているが、この場合は僧侶の手になるもので、しかも敵側のみを供養している点が異色であろう。味方側の霊は黙っていても誰かが必ず供養をする、誰も供養してくれない敵側の霊に対して慈悲を授けてこそ善行となり、しかも怨霊の祟りを封じ込めることができて、結局は自分たちを利することにもなるというわけで、「情けは人のためならず」式の論理が当然、そこにもはたらいている。
 一方、一般民衆の立場はどうであったろう。茨城県西茨城郡岩瀬町にある天台宗寺院、妙法寺に祀られている地蔵菩薩の胎内からは、「摺り仏(宝篋印塔などの図像を木版で刷った紙札)」が数千点も発見されているが、南北朝時代に信徒らが納入したもので、北朝の年号が記されているものも多く含まれている。東京都日野市の高幡不動(金剛寺)でも、本尊不動明王像から多数の胎内文書がやはり発見されているが、こちらは関城周辺に出陣した北朝方の武士が郷里の多摩へと届けた書状の紙に、仏像の御影を刷った摺り仏であった。妙法寺の摺り仏を見てみると、その奉納者らが菩提を願った当時の死者の名がいろいろ記されており、その中には鎌倉幕府の滅亡時に自害した最後の執権北条高時の名が見られ、「先帝御ホウギョ」という記載もあって、これは後醍醐天皇のことである。「南方城ウチ死人々」とか「セキ城ウチ死人々」とか記されたものも見られ、関東における南北朝争乱の戦死者をさしている。無念の死を遂げた幕府と朝廷の権力者、南朝方の戦死者、関城での攻防戦で討ち死にをした双方の犠牲者を、敵味方の別なく供養しているのであって、それが一般民衆の取った態度を示している。争いの当事者ではない民衆もまた、第三者の立場から双方の犠牲者を弔ってきたのであるが、それは単なる同情のなせるわざでは、やはりない。『岩瀬町史』には、これについて「これはこの時代の人々のもっとも恐れられていた死霊、しかも怨みを残して死んだ人々の霊であって、敵味方の区別なく、死者の名を記すことによって、霊の鎮魂と生者の後生を祈ったのであろう」と解説されているが[岩瀬町史編さん委員会(編),1987:pp.245-247]、まったく正しい解釈といえるであろう。
 この世に強い遺恨を残しながら死んでいったあまりに不幸な死者たちに対し、つねに民衆は深い同情を寄せ、暖かい思いやりの意志を示してきたのであったが、それはそれらの死者の霊が御霊に転化することを強く怖れる感情と、表裏一体のものであったろう。そのようにして御霊信仰は、民衆の間にも深く根づいて、長らく生き続けてきた。けれども近代初期にかけての為政者たちは、御霊を畏怖する気持ちなどまるで持ち合わせていなかったらしく、「敵ながらあっぱれ」といった武士道美学にもあまり関心がなかったようである。ゆえに彼らは、自らが倒した政敵側の犠牲者たちを随分、ぞんざいに扱ってきたのであって、薩長土肥方の維新勢力や官軍、明治新政府というのは、概してそうなのであったから、彼らの作った靖国神社が、先述したようなやり方を取ってきたことも、一層よく理解されることであろう。靖国神社の前身である東京招魂社はもともと、戊辰戦争における官軍側戦死者のみを祀って設立されたのが、その始まりである。
 たとえば1868年(明治元年)の戊辰戦争を例に取ってみよう。東京の上野の山の戦いでは、戦死した彰義隊士の遺体を官軍はそのまま放置し、弔うことすらしなかった。あまりに哀れに思った南千住円通寺の仏磨和尚らは、山内に放置されていた266人の隊士の遺体を集めて火葬し、その場所に慰霊碑を建立したのであるが、新政府にはばかって碑面にはただ「戦死之墓」とだけ刻まれており、「彰義隊」の文字はない。上野公園内に今ある彰義隊の墓というのはこれのことで、その目の前には後に西郷隆盛の銅像が建てられたのだから何とも皮肉な話ではあるが、その西郷ですら結局は賊軍の将となって、靖国神社には祀られなかった。成城大学の今井昭彦氏は、東北・越後地方での戊辰戦役における戦死者祭祀の実態をくわしく調査されたが、それによると会津鶴ヶ城の攻防戦時には会津藩側の3000人もの戦死者の遺体は山野に放置されたままで、官軍側は半年間、その埋葬を許可しなかったという。もちろん官軍側の戦死者は手厚く葬られ、その魂は翌1869年(明治2年)に設立された東京招魂社(靖国神社の前身)に、いちはやく祀られている。越後小出地方では、放置されている会津藩士の遺体を見るに見かねた地元僧侶が、「埋骨は僧侶の職」であり、「死ねば皆仏である」として官軍に埋葬を願い出ている。当地方の戦後の管理をまかされたのが官軍側についた隣接諸藩であったこともあり、割合に寛大な措置が取られたというのも、この地方の特色であったという[今井,2006:pp.55-81]。新政府が「幕軍戦死者の祭祀許可」に関する通達(太政官達書第108号)を、やっと発したのは1876年(明治9年)になってからのことで、そこにはこう記されている。
戊辰・己巳の際、一時朝旨を誤り、王師に抵抗せし者、降伏謝罪の道相立ち、それぞれ寛典の御処分仰せ出され候、各地に於て戦没の者は別段御沙汰もこれなきに付き、その親族ども祭祀等憚り居り候者これある趣に相聞こえ、愍然の事に候間、前条寛大の御趣意に候得ば、死者親族朋友より祭祀等執行儀は御構いこれなく候条、地方官に於て御趣意とくと論告すべく、この旨心得のため相達し候事[同:p.66]。
こうして戊辰戦争の敗者たちは、ようやくきちんとその鎮魂がなされることとなり、各地で慰霊祭がなされ、供養碑などが建立されていくこととなった。そうした動きの中心となったのは、やはり各地の寺院の僧侶、そして戦場となった地域の一般民衆である。勝者であれ敗者であれ、祀られることのない不幸な死者たちが、そこにいることを見過ごすことができず、まさに「死ねばみな仏」の立場に立って、彼らはそうしてきた。それこそがごく普通の庶民感覚そして人情というものであり、そうした不幸な死者たちが祟って災いをなすことを怖れるという感情は、この時代にあってもなお幾分は残存したことではあったろう。官軍と新政府の行動様式が、庶民感覚と普遍的な人間性から、いかに乖離していたものであったかがよくわかるであろうが、靖国神社はまさにその延長線上に生み出され、今に至っている。
 静岡県熱海市の伊豆山の山中には、日中戦争で南京攻略の司令官であった陸軍大将、松井石根の発願で、南京の激戦地の土を練り込んで造られた観音像が祀られており、「興亜観音」と呼ばれている。東京裁判の後に処刑されたA級戦犯の火葬灰が、この地に埋葬されたため、そこは右翼の聖地ともなってきた。しかし、そのような所であってさえ、観音を祀る堂内には、日本側と中国側との双方の犠牲者を対等に祀る位牌が安置されており、敵味方を超えた慰霊がそこになされている[末木,2010]。そこにはすでに、先の「平和の礎」にも通じる現代的ヒューマニズムの萌芽が感じられもするのであって、それに比べれば靖国神社の時代錯誤性はすでに、あまりにも救いがたいところにまで来ている。内外からの多くの批判を受けて1965年、靖国神社はついに「鎮霊社」という小社を境内に設けるに至ったのであるが[田中丸,2002:pp.82-86]、そこに祀られているのは「本殿への合祀基準にはずれた御霊」で、世界各国の戦死者や幕府軍もそこに祀られているといい、第二次大戦時の米英軍戦死者も、戊辰戦争の幕軍側死者も彰義隊士も、西郷隆盛すらもそこに含まれているとされるのであるが、要するに敵側の死者霊を、その他大勢式にまとめて簡単に祀ったということであったらしい。けれども、それら死者たちの霊璽簿のようなものは存在しないし、具体的にどういう人々がそこに合祀されているのかについての説明は、あまりない。靖国神社がこれによって、ひとつの説明責任を果たしたというのであったなら、それで納得してもらえたかどうかを、アジア各国の人々に、堂々と自信を持って問うてみるべきではないであろうか。



文 献
深澤靖之,2006「中世都市の景観と地域社会」『新版府中市の歴史』,府中市教育委員会.
今井昭彦,1997「越後小出戊辰戦役における戦死者祭祀」『常民文化』20,成城大学常民文化研究会.
岩瀬町史編さん委員会(編),1987『岩瀬町史・通史編』,岩瀬町.
河原 宏,2002「靖国問題を考える―敵味方問わぬ追悼視野に―」『読売新聞』8月5日号朝刊全国版,読売新聞社.
長沢利明,1989「地名に残る鎮魂の賦」『歴史読本臨時増刊』Vol.34-12,新人物往来社.
長沢利明,1999「天神信仰」『浅草寺仏教文化講座』Vol.44,浅草寺.
禰宜田修然・高野 修(編),1994『時宗寺院名所記』,梅花書屋.
新田英治,1986「反幕府勢力―鎌倉府と後南朝―」『週間朝日百科』542,朝日新聞社.
斎藤建夫(編),1997a『郷土資料事典・神奈川県』,人文社.
斎藤建夫(編),1997b『郷土資料事典・和歌山県』,人文社.
田中丸勝彦,2002『さまよえる英霊たち』,柏書房.
末木文美士,2010「見えざるものへ―慰霊の形、戦後の問題―」『読売新聞』2月15日号夕刊全国版,読売新聞社.

 
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