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連載 「民俗学の散歩道」 8 2010年6月号 |
長沢 利明 |
焙烙と擂鉢のまじない |
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焙烙(ほうろく)とは何か。それは素焼きの浅い大皿状の土鍋である。豆やゴマなどを炒るのに用い、昔はどこの家にもあったけれども、近年は見かけなくなった。フライパンでゴマを炒ると焦げつきやすいし、やはり焙烙の方がよいので、私も1枚欲しいと思っているのだが、七輪や洗濯板などと同様、今では雑貨屋に行っても売っていないので、なかなか手に入らない。ところが東京の下町地域では夏7月の声を聞くと、たいていの雑貨屋・荒物屋では店先にどさりとこれを積み上げ、焙烙を売り出すようになるので、買うとすればその時がチャンスであろう。いまや焙烙は季節商品になってしまったというわけであるが、どうして7月にそれを売り出すのかというと、盆行事の必需品だからである。東京の下町では迎え盆・送り盆の迎え火・送り火を、地面に置いた焙烙の上で焚くのが決まりとなっていて、なるほどそのやり方で火を焚くと後始末が楽であるし、地面や路上を燃え残りで汚すこともない。何十年も使い続けられた結果、煤で真っ黒になっている年代物の焙烙を、代々伝えてきた家も多い。
東京都内で売られている焙烙は、実はそのほとんどが地元東京産の焙烙なのであって、都内東郊の今戸焼職人がこれを作ってきた。今もそれを作り続けている葛飾区の内山英良家では、今でも年間3000枚を作っており、盆の近づく6月頃がその出荷の最盛期で、多忙な時期を迎える。それを報じる次のような新聞記事を目にしたので、ここに引用しておこう。
葛飾区青戸6丁目の今戸焼職人、内山英良さん(71)の製陶所では、お盆に向け、迎え火や送り火をたくのに使う「ほうろく」作りが最盛期だ。粘土を型どりして形を整え、天気がいい日にじっくり干す。十分に乾燥させてから窯で焼いて仕上げる。火をたく家が少なくなったこともあり、区内でほうろくを作っているのは内山さんだけになった。約3千枚を出荷する。一つ手にとって乾き具合を確かめ、窯に入れてからは火加減の調節のため火とのにらめっこが続く。もうけ優先ではできない仕事だ。「土の味わいを知ってもらうためにやっている道楽のようなものです」と内山さん[朝日新聞社(編),2007]。
私は東京都中央区の月島地区で、迎え盆の行事の調査をしたことがあるが[長沢,2004a:pp.3-4]、7月13日の夕刻になると家々の婦人たちが、いっせいに外に出てきて通り端に焙烙を置き、折ったオガラをその中に重ねて火をつけるのは、まことに壮観な光景であった。何しろ何十軒もの家々が、申しあわせたがごとくいっせいにそれをやるのであって、せまい通りにもうもうと迎え火の煙が立ち込めるのであるから、まことにすごい。しかも、その火の上をまたげば病気をしないといって、子供も大人もピョンピョンと焙烙の上を跳び越えるのであるが、通り沿い一帯の家々のそれぞれの家族が、やはりいっせいにそれをやるのであるから、何ともおもしろい。そして、焙烙の上でオガラを燃やせば、燃えかすをそっくりそのまま、まとめて片付けることができ、まったく道路上を汚さない。土の上ではなくアスファルトの上で迎え火を焚かねばならない、都市生活者にとっての大変に合理的なやり方であるようにも、私には感じられた。しかしながら焙烙とはもともと、調理用具なのであるからして、そのような用いられ方は本来おかしいということにもなるであろう。けれどもその一方で、もともと台所用具であった焙烙が盆行事で先祖を迎えるための道具として、なぜ転用されることになったのか、ということにも思いをめぐらせてみなければならない。焙烙という道具には、ひとつの呪性とでもいうべきものが込められているのであって、その意味ではそれは単なる台所道具なのではなかった。
焙烙を用いた呪術はさまざまに見られる。たとえば土用の丑の日になされる焙烙灸のことを思い浮かべてみればよい。主に日蓮宗の寺院でそれがなされているが、信徒が頭の上に焙烙をかぶり、その上でモグサを燃やして脳天を熱で刺激すれば無病息災で、特に夏ばてをしないといわれてきた。東京都内を例にとれば、渋谷区神宮前の妙円寺で土用の丑の日におこなわれている焙烙灸がもっとも有名で、今でも多くの人々が灸治を受けにやってくるが、灸治の間中、僧侶は法華経を唱えながら木剣加持を修することになっている[長沢,1999:pp.151-153]。世田谷区喜多見の光伝寺のそれも土用丑の日の焙烙灸で、薬師如来を祀ってなされる灸治の形を取り、僧侶は陀羅尼経を読みながら加治をおこなったそうで、昔は行列ができるほどにぎわったものだという[中島,1999:p.20]。徳島県などでは、寺院ではなく一般家庭で土用丑の日に、さらには焙烙でなく擂鉢を頭にかぶって灸をすえることがなされており、これを擂鉢灸といっていた[長沢,1999:p.154]。つまり、擂鉢は焙烙を代用しうるものであったわけで、同じ呪術性を持っていたことがわかる。
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東京都渋谷区妙円寺の焙烙灸 |
まん中が皿状にくぼんだ道具類には、肉体や霊魂をそこに安んじて鎮め、保護・安定させる力があると信じられてきたことは、臼・笊・箕・鉢・鍋などを用いてなされるさまざまな儀礼を見ればよく了解されることであろう。東京都八王子市の広園寺でおこなわれている幼児の「鉢かぶせ」祈祷、滋賀県坂田郡米原町の筑摩神社でなされている「鍋かぶり祭り」などがそうした儀礼であったが[長沢,2004b:p.10]、御伽草子の「鉢かづき」説話などもこれらに通じるものを持っていたことであろう[高木,2007:pp.34-36]。出産にともなうまじない習俗にも、後産がなかなか降りない時に、産婦の頭に焙烙・籠・スイノ・鍋蓋などをかぶせる例がよく見られるが、それは母親の胎内で赤子が胎盤をかぶっている状態をあらわしているのであろうとの、興味深い指摘もある[藤井,2006:p.2]。
頭にかぶる諸道具には、実にいろいろなものが用いられてきたことになるが、どちらかというと木製品・竹製品よりも、焙烙や擂鉢などの土製品の方がもっと頑丈で、肉体や魂をガードする力がより強いと考えられてきたのかもしれない。その意味では鍋や釜は、さらに強力な力を発揮したことであろうが、金属製品は高価なので、それを奉納物などに用いるには少々難がある。その点、身の回りの道具類の中でもっとも気軽に用いることができたのは、やはり焙烙であったということになるであろう。そこで次に、神仏への奉納という形で用いられる焙烙について、見てみよう。
東京都文京区向丘の大円寺には焙烙地蔵という風変わりな石地蔵が祀られていて、おもに頭痛治しの仏として知られてきたが、眼・耳・鼻など首から上の病には何でも御利益があったという[伊藤,1967:p.263]。矢田挿雲の『江戸から東京へ』にも、1枚7〜8銭の安焙烙に「何歳の男」とか「巳歳の女」とか、あるいは住所姓名および祈願の筋を墨書して地蔵に奉納するとあり、地蔵の頭の上にはつねに2〜3枚の焙烙がかぶせてあったほか、地蔵の足元から腰のあたりまで、何百枚もの奉納された焙烙が積み重ねられていたと、記されている[矢田,1953:p.80]。その状況は今もまったく変りない。病気で痛む身体の部位を墨で焙烙に書いて供えるとよい、上の方に置くほどよい、地蔵の頭上に何枚も重ねるとよい、下に多く重ねられているほど願いが早くかなう、落ちて割れたら御利益がない、などともいわれる[文京区教育委員会(編),1988:pp.224-225]。永井荷風の『日和下駄』は1915年(大正4年)の作品であるが、「駒込には焙烙をあげる焙烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが治れば御礼として焙烙をお地蔵の頭の上に載せるのである」との一節がそこにみられる。荷風は大円寺にも近い旧小石川金富町(現在の春日2丁目)で生まれ育った人であった。
大円寺は1682年(天和2年)12月の大火の火元とされる寺院で(正確には大円寺の塔頭大竜庵が火元となった)、この火事は江戸の下町一帯を焼き尽くしたのであるが、それがきっかけで八百屋お七は円乗寺の寺小姓と結ばれることとなった。深川の松尾芭蕉庵も、この大火で焼け落ちたが、池に跳び込んで難を逃れた芭蕉は、それをヒントに「古池や」の名句を詠んだともいう。とはいえ諸人に多大な迷惑をかけたので、大円寺ではその罪滅ぼしに、火災・火傷よけの祈願を込めてこの地蔵を祀ったといわれているし、恋人に再会したくてその後、火付けの大罪を犯すこととなったお七の罪業を救うため、お七に代わって焼けた焙烙を頭上にいただく姿の地蔵が祀られたのだ、という言い伝えも聞かれる。1719年(享保4年)に渡辺九兵衛という人が、お七の供養のためにこの地蔵を建立したとの説もある[立川,1993:pp.134-135]。なお向丘の大円寺は、その後の1772年(明和9年)の大火の火元となった、目黒区下目黒の大円寺とよく混同されるので気をつけねばならないが、寺号が同じであるうえ、そちらにも八百屋お七の伝承がいろいろ語り伝えられていて、大変にまぎらわしい。
京都の壬生寺では節分の日に上演される壬生狂言が有名であるが、その時に大量の焙烙を舞台の上から放り投げ、粉々に割ってしまうという儀礼もなされており、「焙烙割り」と呼ばれている。焙烙を用いてなされる儀礼習俗は、実にいろいろな形を取りながら、古くからおこなわれてきたのである。物のためしに焙烙や擂鉢、さらにはそれと同等の儀礼的・呪術的効果を発揮する鍋や竹籠類を用いた習俗事例を、戦前の『民間伝承』の誌上問答欄から引用してみることにしよう。今日のインターネットの掲示板と同じような形を取りながら、全国の民俗研究者たちの間に、郵便による濃密な情報交換のためのネットワークを確立していたのが、柳田国男という先覚者である。このシステムを通じてなされた、さまざまな情報のやりとりの中から、多くの貴重な示唆を私たちは、今でも豊富にそこから得ることができる。それは、たとえば次に引用するような具合であったが、全部を紹介することはできないので、ここではごく一部のみを掲げてみる。
神奈川県:(前略)神奈川縣戸塚町では惡病の場合に鍋または箕を被せてやったさうです。有名な例としては近江坂田郡の御食津神社の鍋被り祭があります[福田,1936:p.10]。
島根県:大社地方で古く、行き會と稱し、外出して非常に疲勞した時などよく目まひを起すことがある。そんな時歸へるとすぐ焙烙を冠せるとすぐに癒るといふ。一種の魔除けとされてゐる[水師,1937:p.94]。
山梨県:當郡内地方に言傳へられてゐるのに頭痛持ちの者は土用の丑の日に富士山の方向に起立して擂鉢を冠り灸を据えてもらふとヘ平素の頭痛が止むとされてゐるが現今はあまり行はれてゐないらしい。富士山を直視して行ふのださうである[羽田,1937:p.103]。
福島県:石城郡神谷村片寄の本行寺(日蓮宗)に於て舊正月廿八日星祭とて厄拂の行事がある。其の時焙烙を冠してその上から灸をすゑる。焙烙灸(ホーロクギョー)と云って居る。又頭痛の者は其の灸を燒くと知らぬ間に頭痛をホーログ(落とすの方言落物)そうであるとも云って居る。しかしこれは焙烙とホーログとの語呂の上からであるかもしれない[和田,1937a:p.117]。
福島県:磐城國大野郷玉山村神玉山。俗に湯の澤と呼んで玉山鑛泉があるが其の一軒の湯宿にては、正月十六日、盆の十六日には日の出前擂鉢を冠って東の空を拝するそうである。そうすれば頭痛はなをるさうである。又此頃夏井川の改修の爲神谷村地内の某寺の近くを掘った時白骨が現れ、其の白骨には鍋を冠してあったそうである。此の地方の習俗にして癩病(ドオース)で死んだ者へは再び出ぬ樣にと鍋を冠して埋葬したさうである[和田,1937b:p.19]。
最初に問題提起をしたのは神奈川県の福田圭一氏で、悪病患者の頭に鍋や箕をかぶせるという同県内の習俗事例が、滋賀県の御食津神社の鍋被り祭りに関連づけて紹介されている。この呼びかけに答えて島根県の水師重吉氏は、大社地方の焙烙を頭にかぶせる呪術事例を報告している。さらに山梨県からは富士山に向ってなされる擂鉢灸の事例、福島県からは正月星祭の焙烙灸の事例が報告される。そして、その福島県の例にあっては、癩病死者の遺体の頭に鍋をかぶせて埋葬をしたとの、興味深い葬制事例が報告されている。なお、ハンセン病の死者に鍋をかぶせるという埋葬習俗は、東北地方ではよく見られたものなのであって、古い墓の改葬時に鍋が出土したとの報告も、各地から寄せられている[三崎,1978:p.125]。
生者・死者を問わず、人の頭に焙烙・擂鉢・箕・鍋などをかぶせて何ごとかをなそうとした諸事例は、以上のように豊富に見い出せるのであって、その意味では焙烙・擂鉢・箕・鍋は一体のものであったこともわかる。それらの諸道具は先にも述べたように、肉体や霊魂を鎮めて保護する力を持っていた。だからこそ人の頭にそれらをかぶせて病気を治し、魂を安定させることができたのである。それらを死者の頭にかぶせて埋葬したのが、いわゆる「鍋かぶり葬」というものであって、擂鉢や鍋を遺体の頭部にかぶせる例が多いが、異常死にかかわる特殊葬法のひとつであり[長沢,2004b:pp.1-13]、不幸な死に方をした死者の遺体を、餓鬼や御霊に巣食われぬように守って保護してやったのが本義であったにちがいない。ハンセン病による死者の頭に鍋をかぶせたのは、病のわざわいが他に及ばぬよう封じ込めたのだという意見も聞かれるが[今野,2008:pp.42-43]、それは後世の解釈なのであって、その原義はもちろん遺体の保護ということにあった。いかに難病の犠牲者ではあれ、遺族はその哀れな死者を抑圧して封じ込めるのではなく、暖かい思いやりで守ってやろうとしたのであり、不幸な死者の、せめて死後における安穏を祈ってやったのであろう。先祖霊がいっせいにこの世に帰ってくるという盆の時期に、あえて逆方向に旅立つことになった死者というのも、きわめて不幸の度合の強い死者であって、これまた異常死のひとつに数えられる。実をいえば鍋かぶり葬は、盆中の死者に対して、もっともさかんになされてきた葬法なのであり、主に擂鉢を頭にかぶせて埋葬をおこなったのである。なぜそうするかといえば、柳田国男氏が述べておられる通り、「盆中に死んだ者は行きちがひに來る精靈に頭を打たれると謂ひ、だから擂鉢を被せて葬るがよい」とされたからなのであった[柳田,1939:p.500]。擂鉢は先輩霊に頭を殴られる痛みを、少しでも軽減してやるために遺族が故人の頭上にかぶせてやったヘルメットなのであったというのである。この説明を私は、そのまますべてを鵜飲みにはしないが、半分くらいは真実であったろうと思う。死者の遺体を守って保護するために擂鉢をかぶせてやったというその一点については、まったくまちがいのないところであったはずである。
文 献 朝日新聞社(編),2007「ほうろくづくり最盛期―葛飾の内山さん、3000枚製作―」『朝日新聞』6月20日朝刊都民版,朝日新聞社.
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