西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 4  2010年2月号
長沢 利明
片葉の葦
 
 葉が片側にしかつかない不思議な葦というものがあり、「片葉の葦(芦・蘆)」と呼ばれて、それの生えている土地に何か特別な意味が宿っていると考えられてきたことは、各地の七不思議のひとつに、よくそれが数えられてきたことからも了解される。たとえば東京都墨田区本所には、「本所の七不思議」というものが古くから伝えられてきており、江戸を代表する伝説事例として、広くそれが巷間に流布されてきた。「本所の七不思議」を構成する七つの不思議とは通常、@「置いてけ堀」・A「馬鹿囃子」・B「送り提灯」・C「落葉なき椎」・D「津軽家の太鼓」・E「片葉の葦」・F「消えずの行燈」の七つをいうが[山下,1930:p.11]、CやDやFの代りに「夜どうふ屋」・「埋蔵の堀」・「あずきばばあ」を入れる場合もある[宮田(編),1986:p.341]。しかし、いずれにしてもEの片葉の葦は必ず含まれていて、戦前の『本所區史』にも「兩國橋の東畔駒留橋下を流るる小溝を片葉堀といひ、ここに生ずる蘆はいかにしてか其の葉一方にのみ生茂し、決して兩方に目生する事がなかったといふ」と述べられていた[本所區(編),1931:pp.541-542]。本所藤代町の南側から両国橋東の広小路へと渡る駒留橋下の、隅田川に流れ込む小さな入堀が片葉の葦の自生地で、ためにその堀のことを「片葉堀」と呼んでいたのである。『新撰東京名所図会』には、「かかれば昔時は水中蘆など生じ居りしものと見ゆ」とあるから、明治期にはすでに護岸も固められ、葦の生えるような堀ではなくなっていたらしい。しかし『江戸砂子』には、「風の吹まはしゆへか、此所のあし片葉也と云。よって小溝も片葉堀とわたくしに云」とあって、享保の頃にはそれが見られたのである。
 全国各地には、実に数多くの七不思議伝説が伝えられてきているが[長沢,1988:pp.21-25]、その中のひとつに片葉の葦を数え上げている例は、先述のようによく見られる。当然それらは「本所の七不思議」の影響下にあるものと思われ、江戸・東京の代表的な伝説事例として、そこから発信された情報の影響力の大きさは、やはり無視することができない。その意味で本所片葉堀の片葉の葦は、もっとも知名度の高い、全国の筆頭的地位にあった片葉の葦だったのである。東京都内でも足立区の「足立の七不思議」のひとつに、やはり片葉の葦が入っており、弘法大師が荒川を渡った時、その威光にひれふして河原の葦が一方になびき、片葉になったと伝えている。関屋天神の塚付近にそれが自生していたが絶滅してしまい、中居町の石出家に移植されたものが残っていたという[宮田(編),1986:p.341]。
 ところで江戸市中には、ほかにも何ヶ所か片葉の葦の生えている所があった。台東区浅草の浅草寺の一支院、自性院のかつての境内地もそのひとつで、馬道沿いにあった同院の旧境内地は今では市街地となっている。『十方庵遊歴雑記』に、「當所馬道自性院内に片葉の芦生じ爰彼所(ここかしこ)にありしが今ハ絶てなし」とある。馬道裏の達磨ヶ池にも片葉の葦が生えていたと、『浅草寺志』には記されている。『江戸砂子温故名跡志』には、浅草慶印寺門前・同馬道菱屋長屋・同浅茅ヶ原かがみの池などにも片葉の葦があったとあるし、柳田国男氏によると江東区の深川木場、港区の芝金杉橋付近にもあったという[柳田,1964b:p.362]。
 関東地方には、実に多くの片葉の葦の諸事例が見られる。ざっと見渡してみるとしよう。茨城県下妻市高道祖のそれは、死んだ女の地面に刺した葦の杖が根づき、女を慕って一方に向かって伸びたので片葉になったという。「高道祖の七不思議」にも、それが数えられている。栃木県内では塩谷郡塩原町に片葉の葦があり、僧侶を誘惑するために若い娘に化けた鬼が、葦の葉をちぎって葦笛を吹いたので片葉になったという[佐久間,2004:pp.35-37]。足利市本城にある正義山法楽寺という寺は、鎌倉幕府の長老であった足利義氏が1249年(建長元年)に創建したもので、自身の菩提寺ともなっているが、境内に小さな池があって弥陀の池(阿弥陀ヶ池)と呼ばれていた。義氏の夢中に現れた阿弥陀如来が、早く池の中から出してくれと訴えたので、池をさらったところ阿弥陀像が出てきて、それを本尊として祀ったのが法楽寺であるという。池に生える葦はどういうわけか片葉で、「足利の七不思議」のひとつに数えられていたが、今では池も埋め立てられてしまい、葦も姿を消している[台,1971:pp.164-167]。同県下都賀郡旧桑絹村飯塚にある中井の谷(やつ)と呼ばれた古沼にも、「片葉の葭(よし)」がかつて見られた(アシもヨシも同じ植物である)。弘仁年間の昔、ここを通りかかった弘法大師が沼畔で休み、護摩木を削って摩利支天像を刻み、沼に生えている葭を1本抜いて像にたむけたその瞬間、沼の中の葭がすべて片葉に変じたといい、大師は「わき出る中井の水の清ければ片葉の葭のかげもうつれる」と詠んだという[小林,1976:pp.152-154]。小山市大谷の片葉の葦にも弘法伝説が伝えられているが、同市内高椅のそれは、日本武尊が刀で葦の片葉だけ切ったのでそうなったとされる。佐野市金井上町には、唐沢城主足利家綱が筑後国羽片の浦から持ち帰って植えたという片葉の葦がある。下都賀郡野木町の野木明神の沼のそれには、この地に配流された姫の悲恋伝説が伝えられ、都へ帰った姫を慕って沼の葦が都へなびいて片葉になったという[渡辺(編),1986:pp.277-278]。
 群馬県内では、高崎市小八木町の阿弥陀堂の周辺で片葉の葦が見られる。1409年(応永16年)、その葦原の中にある池から霊光が輝き、石像が出土したので霊光堂に祀ったと伝えられるが、その地の湧き水で目を洗うと眼病や腫れ物が治るという。また、同市中尾町の大池の南に「見る目明神」という名の祠があって、そのかたわらにも片葉の葦が生えていたが、京から下った高貴な夫婦がおり、その奥方が病死してそこに葬られ、そこへ片葉の葦が生えてきたという。安中市板鼻の、かつて伊勢三郎義盛の隠れ住んでいたと伝えられる地にも片葉の葦がある[高崎市史編さん委員会(編),2004:pp.554-555]。前橋市二之宮町新土塚の増田が淵に生える片葉の葦は、昔そこに夫婦物が入水したとか、間引いた子供を放り込んだとかいわれ、その恨みや祟りで葦が片葉になったという。伊勢崎市安堀町の旧利根川七里土手にも片葉の葦が生えているが、同市内三和町八坂樋にもそれがあり、そこに隠れていた落人が追手に斬られた怨念で、葦がそのようになったという。館林市の館林城址の片葉の葦は、1580年(天正18年)に秀吉の命で石田三成らがこの城を攻めた時、濠の葦を寄せ手が切り払ったので、片葉になったとされる[渡辺(編),1982:pp.278-279]。
 埼玉県内では、川越市の氷川神社の境内に片葉の葦があったといい、『十方庵遊歴雑記』によると社地北東の崖下にある溝中にそれが生えているとある。ただし、すべての葦が片葉であったわけではなく「多くの芦乃中に片葉の芦、大旨交り生ず」といった状態であったという。川越城址沿いの川辺の葦もみな片葉であるといい、川越城の落城時に姫君と侍女が川に落ち、葦にすがったものの溺死したため、その恨みで川辺の葦が片葉になったという。さいたま市大宮丸ヶ崎の五郎淵の片葉の葦の成因には諸説あって、源義経がここで身繕いした際に葦が邪魔なので葉を薙いだためとか、熊谷直実の馬が片葉だけ食べたためとか、五郎という男がここに身を投げたためとか、いわれている。深谷市の深谷城址にある管領堀に生えるそれは、城の落城時に身を投げた武将の恨みで片葉になったというし、南埼玉郡白岡町野牛の新堀に架る鷹匠橋のたもとに生えるそれは、鷹匠の権威に恐れをなした葦が片葉になったという。岩槻市慈恩寺の沼の片葉の葦は「慈恩寺の七不思議」のひとつになっている。行田市小埼沼のそれの場合、大鷲に赤ん坊をさらわれた母親が、水面に映ったわが子の影を追って深みにはまり、果てた恨みで沼の葦が片葉になったとされている[宮田(編),1986:pp.338-340]。
 千葉県内の安房・上総地方には、源頼朝が地面に刺した箸が成長し、片葉の葦・片葉のススキになったという伝説が多く、「そうした誓ひ又は占問の方式が元はあった。それが相饗の祭とともに行われ、すぐれた武将の場合にはそれほどの奇瑞があったというのであろう」と柳田国男氏は述べている[柳田,1962a:p.109]。船橋市海神の阿取坊明神社(現在の竜神社)のかたわらの水田中にも片葉の葦があり、弘法大師の加持の力でそうなったという[南方,1914:p.40]。市川市真間は「真間の手児奈」の伝説地として有名であるが、亀井院にある真間の井の周辺にある片葉の葦は、手児奈が足しげく水汲みに通ったので、袖に擦られて片側の葉がなくなったという。山武郡松尾町の六万部川一帯に群生する片葉の葦は、昔ここに毒蛇が棲んでいて人に害を与えていたのを、東征中の日本武尊が矢で射殺した際、矢の片羽が損じたため、葦もそうなったという。海上郡飯岡町横根の矢挿川の片葉の葦にも、片羽の矢の伝説が付随する。八幡太郎がそこに片羽の白矢を挿して基点とし、六丁ごとに挿していって海岸の里程を計った結果、九十九里浜の名が生まれたといい、基点の矢が根付いて片葉の葦になったという。八千代市村上の阿蘇沼のそれは、鴨鴛寺の鴛鴦伝説縁起の由来が語られている。沼で雄の鴛鴦を射た男の家に、雌のそれが婦人に化けてやってきて恨みごとを述べ、翌朝見ると雌雄の鴛鴦がくちばしを合わせて死んでいたので、これを弔って鴛鴦寺が建立されたとし、以来、沼の葦は片葉になって、沼中に祀られた弁財天は「片葉の弁天」と呼ばれるようになったという。成田市大竹の坂田が沼の片葉の葦は、沼の堤防工事の人柱になった母子が、取り乱すことなく西方を拝んでいたので、池の葦もみな西方ばかりに伸びるようになったという[宮田(編),1986:pp.338-339・柳田,1964b:p.362]。香取郡神崎町中島のそれについて『鹿島日記』は、「片葉葦・もろ葉葦とて二種の葦生ひたり。上つ方なるはもろ葉にて陽なり。下つ方なるは片葉にて陰なり。其の島を二つ島といひ、其処を男女の浦といふ」と述べている。
 東北地方に目を転じてみると、岩手県胆沢郡北葉場の蛇の池や[柳田,1962b:p.117]、福島県刈田郡白石町本郷の芳ヶ池、同郡越河村大仏の薬師堂かたわらの泉中などに[同,1964b:p.362]、片葉の葦があった。山形県米沢市小野川の吾妻川畔に生えるそれは、小野小町の着物の袖にかかって片側の葉が散り、片葉になったと伝えられる[米沢市史編さん委員会(編),1990:p.759]。
 中部地方では新潟県下にいくつかの事例があるようで、柳田国男氏も『片葉蘆考』の中で「越後居多濱の日丸名號の縁起に、親鸞上人此地に行脚して瀧の下の助惣なる者の家に宿し、居多明神に祈って、我念願を守らせたまふとならば其奇瑞を現じたまへと申しければ、社地の蘆一夜の中に片葉と變じた」と、紹介しておられる[柳田,1964a:p.355]。山梨県南巨摩郡早川町奈良田に伝えられた、「奈良田の七不思議」のひとつとしての片葉の葦も、非常に名高い。当地に遷居した孝謙天皇の植えた葦が片葉になった、あるいは都へ帰った天皇を慕って葦がそちらへ伸び片葉になった、などと伝えられている[長沢,1989:pp.149-150]。この奈良田の片葉の葦を写した古い貴重な写真があるので、参考までに紹介しておこう。これは1934年(昭和9年)に撮影されたもので、片葉の葦の群生をバックに5人の奈良田の住民が写っているが、右から2人目が名著『秘境奈良田』の著者として知られる故深沢正志氏で、その少年時代の姿なのであった。山梨県内ではほかに、西八代郡市川大門町の「平塩の七不思議」に片葉の葦が数えられており、琵琶の池という池のほとりにその自生地があったというが、今は絶滅した[宮田,1986:p.346]。


片葉の葦(山梨県南巨摩郡早川町奈良田。深沢正志氏提供)  画像はクリックで拡大します

 静岡県内には、非常に多くの片葉の葦が見られるが、おもなところを紹介してみれば以下の通りである。まず引佐郡三ヶ日町の浜名湖のそれは、この地に落ち延びた橘逸勢の娘が都へ帰る時、娘に恋していた若者が湖に身を投げ、以来そこの葦が西を向いて片葉になったとされる。志太郡大井川町の吉永神明社跡に生える葦は、洪水で流されて片葉になったといい、袋井市久津部西七ツ森のそれは熊谷直実の馬が葉を食って片葉になったということで「遠州七不思議」のひとつに数えられている。掛川市日坂のそれは、刃の雉という怪鳥を退治に来た7人の武士が、それを果たせずに自刃し、その恨みで片葉になったという。浜松市遠州浜のそれは、当地に流浪した公卿が都に帰る際、恋していた娘が入水して、沼の葦が西を向き、片葉になったとされる。同市内芳川町の藤吉郎鎌研池のそれは、秀吉が鎌の切れ味を試すために葦を切ったがため、また同市内入野の村社付近のそれは、三角関係で苦しんで不縁のまま終った娘の恨みのため、片葉になったという。同市内にはほかに、死んだ博奕打ちの墓に息子が手向けた葦が根づいたという片葉の葦もある。さらに、同市内富塚町の佐鳴湖の葦は北から流れてきて定着したもので、故郷を偲んで北向きに生えるという。湖西市の八幡祠付近に生える片葉の葦の場合は、駕籠から降りる時にころびそうになった武士が葦につかまり、片側の葉が取れてしまったので今も片葉であるという。やや珍しいのは清水市の「片葉の笹」であろう。梶原景時が山中に逃れる際、馬の摺墨が半分食ったために、笹が片葉になったというのである[渡辺(編),1982:pp.236-238]。
 片葉の笹ということで思い出されるのは、長野県松本市里山辺の須々岐神社にある「片葉のススキ」で、近年まで見られたというが、神社の祭神が薄川を下ってこの地に降り立った際、乗っていたのが片葉のススキであったといわれている[長野県(編),1990:p.425]。これこそが柳田氏の特に注目された片葉のススキの一事例なのであって、同氏は「片葉蘆考」という一文を書いて片葉の葦に関する考察をこころみながらも[柳田,1964a:pp.355-361]、実をいえばそこで特に注目しておられたのは、葦よりもススキだったのであって、いわゆる「一つ物」の神事の起源や諏訪信仰のなりたちについて、同氏は考えてみたかったのである。確かに信州の諏訪信仰にあっては、ススキというものが特別な意味を持っていたのであって、それは御柱習俗ともセットとなり、甲州の祭礼習俗などにも多大な影響を与えている。それについては、私もいずれ問題にしてみたいと思っているけれども、とりあえずここではススキよりも葦であろう。柳田氏の解釈には少々無理があり、ススキと葦とをあまり混同しない方がよいというのが、私の考えである。片葉の葦のことはそれ自身で、独立したテーマとして考えていくべきであろう。
 さて、そのほかでは愛知県一宮市の酒見神社の池に生える片葉の葦があり、豪族の娘が若い僧との恋に破れ、入水した池の葦がそうなったという。同県設楽郡鳳来町の阿弥陀池の葦は、武田勝頼が刀を振り回して葉を切ったために片葉になったという。あるいは、明日の戦に勝てばこの葦にも扶持をやろうと言ったところ、葦の精が夢中に現れて敗戦を予告したにもかかわらず、勝頼が無視して大敗したので片葉になったなどともいわれている[渡辺(編),1982:p.238]。関西の事例は多くはないが、大阪府北河内郡旧友呂岐村木屋の善光寺にそれがある。人を食う大蛇を蓮如上人が退治をしたが、大蛇は上人と約束し、村の葦の片葉をもらい受けて昇天したので、村の葦が片葉になったという。摂津川辺立花村の八幡社にある片葉の葦は、「難波の葦も伊勢の浜荻」の言い回しにいう「難波の葦」の本家だといわれており、同じ話は大阪市の阿弥陀ヶ池にも伝えられている[柳田,1964b:p.363]。難波でいう片葉の葦は伊勢でいう浜荻のことだと説明されるのであるが、それでは「伊勢の浜荻」はどこにあるかというと、三重県伊勢市の旧三津村の水田地帯の中にあり、今でもその自生地が保護されているらしい。そこをたずねた植物学者の牧野富太郎は、確かに伊勢の浜荻は片葉の葦であるが、植物学的には通常の葦とまったく変わらないことを確認している[牧野,1970:p.152・並木,1979:p.373]。南方熊楠氏によると和歌山県内には、和歌山市の岡公園内の池と、和歌浦に片葉の葦があるという[南方,1971:p.336]。佐賀県佐賀郡諸富町のそれには徐福伝説が語られていて、日本に上陸した徐福らの一行が葦原の葦の葉を払いながら進んだので片葉になったと伝えられる[佐久間,2004:pp.36-37]。
 以上、おもな事例をだらだらと紹介してみたけれども、枚挙にいとまがないというのはこのことで、丹念に探してみれば、さらに多くの諸事例が出てくるに違いない。片葉の葦の伝承は、それほど各地に豊富にあるということであって、実をいえば、片葉の葦そのものもさほどに珍しいものではない。葦の片葉か両葉かということを決定する要因は、要するに風の強さ弱さということに尽きるのであって、風の強い所に生える葦はまずたいてい片葉になる。強風にさらされる海辺の葦などは、片葉でないものを見つける方が大変であろう。気をつけて見ていれば、結構あちこちに普通に見られるものなのであるから、とりたてて騒ぐほどのことはないとはいえ、その伝承の分布状況を見てみると、決して全国に万遍なく均一にそれが見られるわけではなく、民俗地図にしてみれば、より明らかにそれが指摘されることであろう。すなわち、伝承が濃密に分布するその中心は、いうまでもなく関東地方にあり、中部地方がそれに続く。近畿・東北地方になるとまばらになり、中国・四国・九州地方や北海道地方にはほとんど、あるいはまったく見られない。伝承の分布の中心は、やはり江戸・東京の地に求められるのであって、そこから同心円的に拡大・拡散していったと見るほかはないであろう。もちろん関西の「難波の葦・伊勢の浜荻」なども、近世地誌に古くから記されていて歴史も古く、それらがそもそもの起源であった可能性も否定はできない。けれども、江戸の片葉の葦の歴史もまた結構古い。江戸におけるその本家本元は、もちろん「本所の七不思議」を構成する駒留橋・片葉堀の片葉の葦であったろうし、圧倒的な知名度の高さからみて、それ以外にはまず考えられない。文化の発信面での、江戸という都市の持っていた大きな力というものが、やはり再認識されるのである。
 さらに、もうひとつ言えることは、片葉の葦の伝承地には多くの場合、悲劇の物語が伝えられてきたということである。その自生地の池や沼のほとりで果てたとか、そこに入水したとかの伝承は、実に多く語られてきたのであって、めでたい話などはほとんど聞かれない。くどくどと各地の諸事例をくわしく取り上げてきたのは、そのような例が大部分であるということを、理解してもらいたかったがためである。おおいなる悲しみと悔しさ、そして恨みと怨念とが込められた地、非業の死を遂げた者たちの御霊のさまよう地。それが片葉の葦の自生地であって、それらへの畏れの感情のシンボルとして、この植物が位置づけられてきたのであったろう。片側にしか葉のない葦が風に揺れている水辺の景観は、ただでさえ物悲しく、不気味でただならぬイメージさえただよわせているけれども、そうした印象の根元には、物事がシンメトリーのバランス秩序を保っていないことに対する不安と怖れ、そこに垣間見える異世界への恐怖の感情もまた当然、存在したものと思われる。

文 献
本所區(編),1931『本所區史』,東京市本所區.
小林友雄,1976『下野伝説集―あの山この里―』,月刊さつき研究社.
牧野富太郎,1970「片葉ノアシ」『牧野富太郎選集』Vol.5,東京美術.
南方熊楠,1914「石芋」『郷土研究』Vol.1-11,郷土研究社.
南方熊楠,1971「片葉の葦」『南方熊楠全集』Vol.3,平凡社.
宮田 登(編),1986『日本伝説大系』Vol.5,みずうみ書房.
長野県(編),1990『長野県史・民俗編』Vol.3-3,長野県史刊行会.
長沢利明,1988「北関東の七不思議」『西郊民俗』125,西郊民俗談話会.
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渡辺昭五(編),1982『日本伝説大系』Vol.7,みずうみ書房.
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山下重民,1930「本所の七不思議」『江戸文化』Vol.4-5,六合館.
柳田国男,1962a「伝説」『定本柳田国男集』Vol.5,筑摩書房.
柳田国男,1962b「妹の力」『定本柳田国男集』Vol.9,筑摩書房.
柳田国男,1963「史料としての伝説」『定本柳田国男集』Vol.4,筑摩書房.
柳田国男,1964a「片葉蘆考」『定本柳田国男集』Vol.27,筑摩書房.
柳田国男,1964b「諸国の片葉の蘆」『定本柳田国男集』Vol.27,筑摩書房(柳田国男,1916「諸国の片葉の蘆」『郷土研究』Vol.3-10,郷土研究社).
米沢市史編さん委員会(編),1990『米沢市史・民俗編』,米沢市長高橋幸翁.

 
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