西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 2  2009年12月号
長沢 利明
大学キャンパスに祀られた神々
 
 神社というものは、おのおのの集落内に鎮守神として一社ずつ鎮座しているほか(村氏神)、家々の屋敷内にもそれぞれ祀られているし(屋敷神)、民間企業の敷地内および社屋ビルの屋上などにもよく見られる。「企業鎮守」とでもいうべきもので、著名な百貨店の屋上などにも、まず必ずといってよいくらい何らかの神様が迎えられていて、デパートの守護神となっている。そうであるならば、大学のキャンパス内に祀られて鎮座しつつ、学園の鎮守神となっている神社があったとしても、一向におかしくはない。ありとあらゆる所に神が宿り、いかなる所にも神を祀りうるというのが、日本人の基本的な宗教形態そして神道の基本理念であったから、村落・市町村・都道府県はもちろんのこと、あらゆる団体・企業・組織といった社会単位ごとに、それぞれにふさわしい神々が勧請されて神祠が設けられ、集団の構成員たちから崇められてきた。大学もまた、そのひとつの社会単位・祭祀単位であることに変わりはない。そこで、学内に何らかの神社を祀っている大学を、いくつか探してみることにしよう。
 まずは東京都世田谷区にある国士舘大学であるが、この世田谷キャンパスの一角に、かつて「国士神社」という神社が祀られていた。この大学は吉田松陰の精神を範とし、国家社会に貢献する愛国の士を養成することを目的として創立されたという。その校歌(舘歌)にも、「皇国(みくに)に殉(ゆる)す大丈夫(ますらお)の、ここ武蔵野の国士舘」と歌われているほどであるから、学内に「国士の神社」が祀られてきたことは、しごく当然なことなのであった。そもそも、この大学がなぜ世田谷の地にあるかといえば、そこに吉田松陰の墓があり、その霊を祀る松蔭神社があったためである。大学の創立者であった柴田徳次郎という人は熱烈な松蔭の信奉者で、彼の率いる青年大民団(学園創立の母体となった社会運動団体)は1918年(大正7年)、第1回国士祭を世田谷の松蔭神社で開催しているし、松蔭の眠るこの地こそ、松下村塾を理想とした学園の設立の地にふさわしいということで世田谷が選ばれ、5000坪の校地をここに取得して1919年(大正8年)、国士舘高等部の開校式が行われて、学園の歴史がそこから始まったのである。
 そのような経緯からして、国士舘大学と松蔭神社とはもともと深い関係があり、松蔭の思想は大学の学風の形成にも大きな影響を与えてきた。そのような中で1922年(大正11年)、学内に国士神社が設立されることになったわけであるが、その鎮座地は現在の世田谷校舎の6号館南側付近にあたる。そこに祀られたのは国士舘の創立にあたって大きな影響を与えた先人たちの霊であったといい、それら人々を顕彰することを目的として神社が設立されたということであったらしい。吉田松陰の没後50周年にあたる1928年(昭和3年)11月、それを記念して松蔭神社の社殿新築がなされることとなったが、旧社殿を国士舘大学が譲り受け、国士神社の社殿改修がなされたこともあった。1938年(同13年)12月には、山口県萩市にあった松蔭の松下村塾の塾舎を忠実に復元した建物が、国士神社の傍らに建てられ(現在の8号館北側付近)、「景松塾」と呼ばれていた。1941年(同16年)3月にはそれが松蔭神社に寄贈されており、今でも境内に残されている。しかるに国士神社の方は第二次大戦下の1945年(同20年)5月、米軍による空襲で焼失してしまい、以後は再建されることがなかった。戦後にあっては当然のことながら、GHQの監視下のもと独特の校風もはばかられるようになり、国士舘は至徳学園と名を変えて存続をはかるほかはなかった。旧名が復活し、新制大学としての国士舘大学が設立されたのは1958年(昭和33年)のことなのであった[国士舘九十周年記念誌編集部会(編),2007:pp.52-60]。
 次に、千葉県野田市にある東京理科大学の野田キャンパスであるが、キャンパス内の図書館と第二食堂との間にある広場に、「合格神社」という名のおもしろい神社が建っている。この神社に祈れば試験も合格するというわけであるが、いかにも大学内に祀られた神の名にふさわしくもある。どうしてそのように呼ばれるようになったかというと、東京都新宿区にある同大学の神楽坂校舎にかつてあった通称「落第神社」に対応するものとして、野田の方の神社がそのように名付けられたのである。神楽坂校舎の1号館は1980年に完成した17階建の高層ビルであるが、その敷地にかつてあった旧1号館は1937年に建てられた4階建の校舎で、その屋上には教育勅語を安置する奉安殿があった。東京理科大学の前身である東京物理学校は進級試験が大変きびしいことで知られ、多くの落第生を出していたそうで、学生たちは「今度こそ合格させて下さい」と、この奉安殿によく合格祈願をしたという。それでもなお落第者が多く出たそうで、誰いうとなくそれが「落第神社」と称されるようになった。しかし、本当はそれは神社でなく奉安殿なのであったから、あくまでも通称に過ぎない。
 しかし野田キャンパスにある合格神社は、大学がそうに命名した正式な社号なのである。とはいえ、それはもともと山神宮という名の神祠だったのであって、キャンパス内から出土した古碑を1979年に神社に祀り直したものなのである。社前にある「山神宮の記」には、その由来を次のように解説している。
 この地方の守護神と思われる「山神宮」は、昭和五十四年十二月十八日に、この桜の根の附近から発掘されたものである。この「山神宮」は天保六年七月吉日、この地区(深井村)の有力者堺屋清五良氏の建立されたものと推定される。大切に保存したいものである。
 この山神宮碑発見と神祠建立に関するいきさつは、同大学理事長室室長であった魚津貞夫氏が、くわしく記しておられる[魚津,1993:p.4]。それによると、神社の付近には1本の桜の木が立っているが、野田キャンパスの造成前からある木で、用地買収の折にもとの地主から、「この桜の木は昔から神様の木といわれてきたので、大学建設後も絶対に切らないで大切にしてもらいたい」と念を押されたという。大学はその要望を受け入れて、桜の木を切らずに残すことにしたのであったが、キャンパスの造成後、どういうわけか樹勢が衰えてしまった。そこで幹に菰を巻いて根本付近の盛り土を取り除く作業をおこなったところ、土中から直方体の古碑とその台座が、四つに割れた状態で出てきた。碑面には「山神宮」と彫られており、側面には「天保六年七月吉日、施主深井村堺屋清五良」との銘文があった。1835年(天保6年)に地元深井村の住民の手で、この地に山の神を祀る碑が建立され、その神木として桜の木が植えられたが、いつしか碑は土に埋もれ、桜だけが「神様の木」として大切に保護されてきたということであったらしい。割れた碑はセメントで補修され、小さな神社をそこに建てて、中に安置されることとなったが、大学職員らによって手作りの鳥居や賽銭箱まで設置されて1979年12月18日、盛大な竣工祭が挙行された。神社は合格神社と名付けられたが、この神社が野田キャンパスに鎮座して以来、学園紛争もぴたりと収まって桜の樹勢も回復し、学生たちも多く参拝するようになったという。1981年、桜の木と神社のある場所に図書館が建設されることとなったので、ともに現在地に移されることとなり、立派な神祠が新築されて1991年4月13日、遷座祭がおこなわれたが、神事をとりおこなったのは地元野田市内にある愛宕神社の宮司であった。以上が、東京理科大学野田キャンパスにおける合格神社鎮座のいきさつである。


日本工業大学の天満宮(埼玉県南埼玉郡宮代町) 画像はクリックで拡大します

 校地の造成中に掘りあてた石造物を御神体として、キャンパス内に神社を祀ったという例は、ほかにもある。埼玉県南埼玉郡宮代町にある日本工業大学の学内にある天満宮も、まさにそれなのであって、この神社は正式には「日本工業大学天満宮」と呼ばれ、広いキャンパス内の一角にその境内地が設けられている。境内には徳川家ゆかりの石灯篭・撫牛像・池・植え込みなどが日本庭園風に整備され、立派な社殿と神輿庫とが、そこに鎮座している。この大学が当地に新たに開学されるにあたり、キャンパスの造成工事がおこなわれていた1966年、造成地内から1基の石祠が出土し、その刻銘には「天満宮」・「安政二年野口氏」などの文字が確認された。武蔵国埼玉郡百間領粂原村の名主、野口氏が子弟の教育のために1855年(安政2年)、屋敷内に勧請した天神祠であったろうと、推定されている。この地に新しい大学を作ろうとしているその時に、学問の神である天神様の石祠が土中から出現したという瑞祥を祝い、大学ではそれを御神体として、キャンパス内に神社を創建することとなった。広く寄付を募ったところ、398万円もの浄財が集まり、それをもとに社殿が建設される運びとなったが、同時に日本工業大学天満宮奉賛会も組織された。大学創立10周年にあたる1976年の、菅公生誕日である6月25日、盛大な遷座祭がなされて、天満宮は大学の守護神となった。その後、信徒の寄付金によって、これまた立派な神輿まででき、社殿の隣に設けられた神輿庫に普段は安置されているが、毎年7月におこなわれていた大学恒例の夏祭り・盆踊り大会が1981年から勧学祭と名を変え、その時に学生らによってその神輿が担がれ、学内を盛況に渡御するようになった。この祭りには地元町民も多く参加し、獅子舞の奉納などもなされて、宮代町の夏の風物詩となっている[学校法人日本工業大学年史委員会(編),2007:p.98]。キャンパス内に神社を持つ大学は数あれども、それに付随する神輿まで持っている大学は、ほかにはないに違いない。毎年2月25日には例祭もおこなわれており、社前には学園理事長・大学学長・大学職員らのほか、崇敬会の会長・副会長・顧問らが参列して神事がなされる。また、例祭に先立って崇敬会の幹事会が学内で開かれることにもなっている[日本工業大学(編),2008:p.4]。
 以上にあげた3大学は実をいえば、いずれもこの私が非常勤講師として出講している大学なのである。だからこそ、神社の存在に関する諸情報を、かねていろいろと聞き及んでいたわけなのであった。特に日本工業大学の天満宮は私にとっては大変身近な存在で、講義をするために私は毎週1回、この大学をおとずれるけれども、暇があればそこへ参拝するようにしているし、そのつど10円くらいの賽銭をあげている。新学期の始まった春4月の初回の講義の前には必ず参拝をし、今年も1年間よい授業ができますようにと、天神様にお願いをしているのである。もちろん、大学内に祀られた神社は、以上の3大学のほかにもいくつかあり、たとえば東京都武蔵野市の亜細亜大学のキャンパス内にも、「興亜神社」という神社があって、そこに祀られているのは同大学の戦没学生97人の霊なのであった。その中には戦犯として連合軍に銃殺された5名も含まれている。大学の前身であった興亜専門学校は1941年(昭和16年)に設立されているが、その翌年から東南アジア方面の戦地に続々と学生たちが派遣されるようになり、戦地におもむく学生たちの心のよりどころとして1943年(同18年)1月、この神社が創建されたと伝えられる。同年10月からは学徒動員も始まり、学生らはたとえ戦死しても、魂だけはその社前に帰還して再会を果たそうと、誓い合ったという。今でも秋の大学祭の頃には社前で例祭がおこなわれ、10年に一度挙行される例大祭では、戦没学生の遺族や卒業生・教職員などがそこに参列して、その慰霊祭がなされる。興亜神社はいわば、亜細亜大学版の靖国神社であったということになるであろう。
 さらに、東京都渋谷区にある國學院大学の渋谷キャンパスにも、実に立派な神社が鎮座ましますことは、多くの人々の知るところである。國學院大学といえば神道科があって、神職の養成機関としての役割も果たしているのであるから、学園内に神社があって当然であるし、ない方がおかしい。この神社は「神殿」と呼ばれていて、キャンパス内西方の一角にその社地が設けられている。そこには本殿・神饌所・玉垣・手水舎・鳥居などが建っており、それらの規模は記録によると、本殿が銅板葺き流れ造りの建物で桁行8尺・梁間7尺向背付・建坪3坪1合1勺、神饌所は切妻造りで桁行10尺・梁間7尺5寸・建坪2坪8合3勺、玉垣は腕木造り屋根付き長延17間でその前面は角柵長延4間余、手水舎は切妻造り間口6尺、鳥居は明神形真々9尺とある。木材はすべて台湾産のヒノキ材が用いられている。祭神には天照皇大神を主神として、天神地祇八百萬神が合祀されている。大学のまとめた記念誌によれば、「本大學は國體を講明し、惟神の大道を研修する學府であって、固より旦夕神明に敬虔を捧げ、その恩頼を蒙りて斯道に貢獻すべきである。然るに未だ曾て神殿の設備がなく、志ある者は常に遺憾に感じてゐた」ところの1923年(大正12年)、理事であった和田豊治氏が神殿建設費として金1万5千円を寄付されたという。しかし同年の関東大震災で大学は甚大な被害を受け、校舎の復旧が優先されたため、ようやく神殿建設工事が着工されたのは1929年(昭和4年)11月のことで、翌1930年(同5年)年4月に竣工し、5月1日に御鎮座奉祝祭がおこなわれた。神殿は今も大学の鎮守として教職員・学生の崇敬を集め、新年・紀元節・天長節・明治節・大学創立記念日(11月4日)・入学式・卒業式には、まずここで神事がなされた後、大講堂での式典がおこなわれることになっている。また、毎年5月1日には御鎮座記念祭、毎月1日には月次祭が、社前でいとなまれている[國學院大學八十五年史編纂委員会(編),1970:pp.574-577]。
 なお、ついでながら触れておけば、東京都小平市の武蔵野美術大学のキャンパスには、「むさび地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られている。神社ではないけれども、参考までに紹介しておこう。これは、学生たちが自主的に祀ったものなのであって、今までの例とは少々事情が異なる。地蔵尊はキャンパス内中央の、美術資料図書館脇に建てられた小祠の中に祀られており、三頭身の可愛らしい姿で、赤いよだれ掛けをしている。この地蔵は石造物ではなく、石膏で作られたひとつの作品なのであって、いかにも美術系大学にふさわしい。1979年頃、怪我をして入院した学生の仲間たちが、その快癒を祈り、実技の授業で余った石膏を集めて地蔵を作ったところ、意外にうまくできたのでここに祀り、以来「むさび(武蔵美)地蔵」と呼ばれるようになったという。石膏製の地蔵なので耐久性に乏しく、台風などのたびに破損して無残にも砕け散ることがよくあった。そのつど、誰とはなしに新しいものを作り直す学生らがいて、1999年現在ですでに5〜6回は「リニューアル」されているという。賽銭を上げていく人も多く、時折は大学職員が回収して、デッサン用に飼っている鳩の餌代にしているとのことである。この地蔵に祈ると、恋愛が成就する、受験生がこの大学に合格することができる、などともいわれており、若者たちに親しまれてきたユニークな地蔵尊なのであった[読売新聞社(編),1999:p.27]。
 さて以上のように、大学キャンパス内にもさまざまな神様が(時には仏様が)、祀られてきたことがわかるのであるが、おのおのの大学の学風などもよくそこに反映されていて、おもしろいものがある。そして、ここで紹介した諸大学が、すべて私立大学であったことにも気づいておかねばならない。すなわち、こうしたことは私立大学だからこそ許されることなのであって、国公立大学の学内に神社が存在することはまったく考えられないし、そもそも存在してはならない。それは日本国憲法第89条に、特定宗教のために公的財産を使用することを禁ずると、明確に書かれているがゆえである。政教分離に関する憲法の崇高な精神は当然、きびしく遵守されねばならないし、戦前の国家神道の時代ならばいざしらず、今の民主主義の世の中において国公立大学の学内に神社があってはならないのは、あまりにも当然のことである。にもかかわらず、堂々と学内に神社を、しかも旧軍関係の神社を祀り続けた国立大学がひとつあった。それは長野県松本市にある信州大学で、戦前に京都の伏見稲荷大社から分霊が勧請され、学内に祀られてきたのである。もともとそれは旧帝国陸軍松本歩兵第50連隊の守護神なのであったが、戦後の1946年、連合国軍の命令で一旦は学外へ移されたものの、10年後の1956年には再び学内の旧地に戻され、その後もそのままにされてきたのである。
 この問題が裁判にまで発展するのは当然のことで、松本市在住の帝京大学教授、藤原英夫氏が大学を相手取り、神社の学外再移転と95万円の賠償とを求めて、訴訟を起こすこととなった。一審判決では請求が棄却され、2004年7月14日の東京高裁における二審判決にあっても、それが支持されて控訴棄却となり、藤原教授には神社の移転を直接要求できる権利はなく、精神的苦痛が生じているとも認められない、とする判断が下された。しかし、憲法89条との関連については、「神社を大学構内に存置させたままにしている国や同大の姿勢は、憲法の精神に明らかに反する不相当な行為と言わざるを得ない」との指摘が、はっきりとなされたのであって、信州大学のキャンパス内にこの神社が存在することは、明確に憲法違反である。この大学が国立大学であり続けるかぎり、神社が学内にあってはならない。それでもなお、神社を持ち続けたいというのであれば、国立大学であることをやめるべきであろう。その後、藤原教授は同年10月4日、先の敗訴を受けて東京地裁に今度は国と長野県とを相手取って、別の訴訟を起こしている。信州大学構内にある神社は不動産登記がなされておらず、固定資産台帳にも登録されていないので、県は不動産取得税を、松本市は都市計画税を徴収していない、これは徴税の公平性に反しており、県と市への指導責任を国と県は果していない、精神的苦痛を受けたので賠償せよ、というのが訴えの内容であった。その後、この裁判がどうに展開していったのか、私は知らない。私のもっとも知りたいことは、先の二審判決で示された憲法判断を、信州大学はどう受けとめたのかということで、大学としての正式な見解を広く世間に公表すべきではないであろうか。私はそうに考える。

文 献
学校法人日本工業大学年史委員会(編),2007『日本工業大学百年史』,学校法人日本工業大学.
國學院大學八十五年史編纂委員会(編),1970『國學院大學八十五年史』,國學院大學.
国士舘九十周年記念誌編集部会(編),2007『国士舘九十年』,学校法人国士舘.
日本工業大学(編),2008「天満宮例祭」『日本工業大学通信』151,日本興行大学.
魚津貞夫,1993「『合格神社』の経緯―『山神宮』と『神様の木』―」『東京理科大学学報』110,東京理科大学広報委員会.
読売新聞社(編),1999「キャンパス多摩―むさび地蔵―」『読売新聞』4月15日朝刊多摩地域版,読売新聞社.
 
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